偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 留年を繰り返していた学生時代によくキャンパス裏の市民公園のベンチで本を読んでいた袖村茂明だが、ある日現地トイレで――公園付属にしてはきれいなトイレで夕刻小便をしていると、たたたっと駆け込んでくる者がある。袖村の存在を認めてはっと立ち止まったその人影は、ぐずぐずしてはいられないというようにばたんと袖村背後の唯一の個室に飛び込んだが、衣擦れの音が終わらぬうちにけたたましい破裂音が連続した。破裂音と重なって「えっ」「えっ」「やだ、でない」「えーっ」などとしきりに高周波女声が戸惑いを発しているのは、初めは便秘のことを言っているのか、にしては派手な排泄音がしてるがなと思った袖村だが、どうやらすぐ外にいる袖村を意識して消音用水を流そうとボタンを押しているのに水が出ない、ということらしいのだった。最初の破裂音のときに水を流す音が聞こえていたので、どうやら中途半端な力とタイミングで流してしまったために、肝心の大排泄の瞬間には次の水が流れず、音消し失敗の憂き目に遭ったらしい。よくある設定だが、自治体が節水のために、流水直後一定時間は次の流水機能が働かない仕様にしてあるらしい。ガン、ガン、ガンと必死でコックを押す音がするのだが、頻繁に押せば押すほど、一定間隔で小出しに水が出るだけとなり、必死押しが仇となって消音に失敗するのだった。こういうときは、しばらくコックを押すのをやめて、時間をおいてから押し直せば水が大量に流れるのだが、焦って消音しようとする女は小刻みに押すことをやめず、流水音はチョロチョロのままである。それにしてもぶしゅううう、ぶしゅうううううと狭い穴を奔流がせめぎあう典型音からブウウーゥッという気体爆裂音、ブヒュビュプヒュと気体液体が泡を競ってくすぶり混ざる音、ときにはスポンッ、と栓を抜くような音まで加わって、乾湿混合きわめて多彩なこれまで聴いたことのない芸術的大協奏だったので、袖村は小便を終えてからもアサガオの前に立ち尽くし、しばらくじっと聞き惚れてしまったのだった。流水が乏しい必然として猛烈な臓物臭も漂ってきて、袖村は女に恥をかかせないようそっと立ち去ったのである。しかしこれで終わりではなかった。それから二日後ほぼ同じ時刻に袖村がそのトイレで小便をしていると、やはりたたたたっ、と人影が駆け入ってきて、それは「あっ」と立ちすくんだ声からして前々日の女性と同一人物に違いなく、袖村が振り向く脇をすり抜けるようにして「なんでー!」と囁きながら個室に入った女は、これまた前々日とほぼ同じ破裂音をたてはじめたのだった。女の流水方法は前回同様ヘタクソで、排泄音と臓物臭を思いっきり個室外に巻き散らしてたのも同様であり、袖村がそっと立ち去ったのも同様である。
それから一ヶ月の間にさらに六回、同じことが起こった。女はいつも不意に駆け込んでくるので、袖村は一度も女の顔を見たことがなかった。二~三十代のOLだろうという推測が浮かんだだけである。いっぽう袖村はたいてい白いカーディガンを着ていたし、内部は煌煌と明るい照明がついていたので暗い外から駆け込んでくる女からはいつも同一人物が小便をしていることが認識できただろう。これはしばしば女が個室内で爆裂音をたてながら「なんでー!」とうめき気味に一人ごちていたことからもわかる。女のコックの押し方はいっこうに上達しなかった。水は流れるのに、排泄音のマスキングには全く効果のないチョロチョロ水だけが虚しく続いた。疑問に思った袖村は六回目遭遇のとき、女の去ったあとの個室に入って水を流してみたが、普通に流れるのだった。チョットしたコツは要ったが、いつも女が個室内にいる全時間相当をカバーする程度には大流水音を保つことはできた。いかにも焦り気味の小刻み押しをあえて試してみると、確かに流水は極少量途切れ途切れに静寂化してしまうのだったが。
「なるほど……」
女の不器用さがハイレベルなのか、下腹部ガマンのパニック度が毎回ハイレベルなのか、この種体験にうんざりしていた袖村にしては珍しく、多少の好奇心が込み上げるのを感じたという。
しかし袖村は決して、このような状況を待ち望んで定刻に小便をしていたわけではない。滑り台付近の常夜灯直下のベンチが読書に最適であり、尿意を催すのが夕刻のある時間帯に大まかに入っていたに過ぎない。そこへいつも、狙いすましたように女が駆け込んでくるのである。どうやらここを通勤帰途の一部とする彼女は、ちょうどこの公園にさしかかるやいなや催す条件反射的過敏状態に囚われていたようなのである。
というか、しかし一ヶ月に七回である。特定の仮説が袖村の念頭に浮かんだのはさすがに当然と言えよう。しかしこういう場合、作為をもって行動しているのは男の方だと疑われるのが常道である。その後も同じことが続き、十二回目のこれがきたあと袖村はさすがに、計画的な待ち伏せ変態男と思われては心外と、お気に入りのこの公園でくつろぐのを中止し、駅の反対側の一回り小さな地域公園で読書をすることにした。そして、ここが考察に値するところなのだが、その場所変更から二ヵ月後のある日、これは土曜の昼下がりだったが、前の公園のほどきれいではないこちらの公園のトイレで袖村が小便していると、やはりたたたっ、「あっ」と女が立ち止まる気配がしたのである。
「なんでー!」女は今度ははっきり声に出して叫び、袖村が振り向くと同時に個室に駆け込んで、ブッ、ぬぶうううーっ、ビュシュッ、ぷびびびび、ブッ、ブブブッ、ぶッぴっぴっびィー、またしても例の大協奏音を奏で始めたのである。
このときは、女はコックを押しもしなかったと袖村は記憶している。女は運命的偶然に横殴りされたショックで流水を忘れたか、どうせ以前と同じだ、だったら無様な不器用さを改めて開陳する愚を避けようと諦め的前向き対処を決意したのか。
静寂の中、ガスった摩擦的湿式大音量は最長を記録した。
前の公園の時から袖村に思い浮かんでいた仮説として、女が「逆ストーカー」を実行していた、というのは、むろん考慮に値する。彼女は袖村を監視していて、彼がトイレに入ったときを狙って飛び込み、個室での爆裂音を披露したというものだ。「聴覚的露出癖」を特定ターゲットに向けるという珍しい症例というわけだが、これはやや根拠薄弱である。というのも、この土曜日昼下がりの事例においては水が流れなかったからである。いや、前述のように女自身がそもそもコックを押さなかったから流水がなかったのは当然だが、実は本当に水洗が故障していたのだった。かりに女がコックを押しても、不器用にでなく巧みに押すことができたとしても、水は一滴も流れなかったはずなのである(このことは、女が個室から立ち去った後に袖村自身が個室へ立ち戻って、和式便器の縁と同じ高さに頂が達している超大量灰黄茶色の半下痢から顔をそむけながらコックを何度も押して確認している。排泄音マスキング失敗の二重決定)。この事実は、全般に見せ掛けのたくらみは働いておらず、全てが偶然の一致であったことを強く示唆している。いや、袖村体質効果が二重三重に保障されたとことん本物であったことを示唆しているだろう。
(袖村と計十三回以上の遭遇をした件の女性は姫里美沙子であるという説が近年おろち学会で脚光を浴びている。ターミナル駅から美沙子の自宅最寄駅への乗換駅が両公園に近かったこと、「G戦術」による馬鹿男翻弄デートの帰途(第8回参照)に切迫便意を解消する場として公園がしばしば利用されていたこと、G戦術デートorお見合いの時間帯はまちまちで袖村@公園に遭遇しうる夕刻帰宅も珍しくなかったこと、などが有力な根拠とされるが、おろち文化の人脈構造上重要にして興味深いこの問題への賛否ともに目立った傍証は得られていない。もしこの説が正しければ、姫里美沙子を媒介項とする袖村体質と蔦崎体質の早期接触・融合波及効果が確証される圏域が広がることとなり、おろち史展開図に幾十の補助線が引きまくられて、固形謎に液状謎、粘土状謎の数々が一挙解決され絢爛展望爆裂の見込み激増なのだが……。むろん逆に、補助線的効率化のあまりおろち史が一転単純化平板化透明化する可能性もまた囁かれるのだが……)。
■ 尻ビジュアル面においては本来値のつきにくい洋式トイレもまた逆用したのが橘印の自慢で、洋式ものは通常、正面に仕掛けた隠しカメラで用便中主体の無防備な表情、あくび、溜息、髪梳き上げ、鼻ほじり、小鼻掻き、目擦り、顰め面、鼻啜り、咳、げっぷ、思い出し笑い、尻拭き後ペーパーへの附着度確認姿勢、等々の風情を伝えるのが本道だったのだが、橘印はあっけらかんと和式同様に下部隙間から踵のみ撮り続け、そのメリットはといえば、洋式ならではの深い縦穴反響音――プッスーッ・水琴窟的反響による微屁拡声深音効果シリーズ、洋式便器ならではのすふーひゅるひゅるひゅる・和式に比して窄まり気味に固定された双丘間すり抜け屁の肛門付近滞り感&独特温感あじわいシリーズ、洋式特有の深い肛門からの擦り洩れ屁ときたらさぞかし尻皮膚に密着・薄き大気対流圏を形成しつつしゅわぁと全身に纏わり漂う微香膜風と化して踵まで降りてくるのがオーラ状柔らかに輝いて見えますシリーズなどなど、排便主の消化管の深みが便槽内や外部にまで接続拡張したかのような音波ならびに想像温感で勝負してしまう高度技を踵映像だけから驚愕実現しており、それ方面のマニアに対する垂涎シリーズを形成することを怠っていなかったのだ。(洋式の宿命・ポキッ音の欠落は、和式に比して体重がかからぬがゆえ豊かな動きをみせる踵の微細な傾き・ずれ・律動の確実撮影により補っているものと思われる)。
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かくも多様な情熱と手間暇隙罅皺をかけて作成された橘印。徹頭徹尾唯一の製作者橘菜緒海が一番頭を悩ませたのは、巷のトイレに出回る憎むべきあの種の製品だった。
「TOTO音姫 ●PUSHボタンを軽く押してください。 ●流水音が25秒間流れ、自動的に停止します。 ●音が流れている間に再度ボタンを押すと延長できます。 MDBD 100V 2W 50/60Hz)。
あれを使われると、微妙な放屁音は消されてしまい貴重な大放屁深爆屁も滲んでしまう。このような、生来的内的ではない外的妨害による「抜けないパターン」は芸術的に断固忌避されるべきだった。そこで橘菜緒海は個室に潜む前にすべての個室の前面に「恥かしがってることを音に出す方が恥かしーんじゃない?」とか「フツー消したいと思う? そんな恥も外聞もない恥じらいってイケテると思うの?」とか書いた紙を貼ってみたりしたが、さほど効果はなく妙齢層があの醜いスピーカー音で自らの尻美音をかき消してしまうことがままあって、そのたびに傑作がお流れになったわーもーっと橘菜緒海は臍を噛むのだった。排泄テクノロジー(ハイテク)がおろち文化を阻害するというこの事態については、外線自動洗浄機が「青吸爺」の目論見を妨げていたことを想起しよう(第3回参照)。青吸爺にとってはハイテクはあくまで敵対物でしかなく、渋谷駅のトイレに密着することにより蒸気ホルモンのクオリティを高めることで相対的にハイテク障害を凌いでいくのがせいぜいだったのに対し、橘菜緒海の大物たる所以は、青吸爺的消極策ではなくむしろ積極的にハイテクを利用しプラス化する策を思いついたことである。いや、作為的な策を凝らしたというより、新しい発見に自然に至ったのだ。菜緒海の書いた警告文「恥ずかしがってることを音に出す方が恥ずかしーでしょ?」云々どおり、TOTO音姫利用者の尻は微細な「恥も外聞もない羞恥」にプルプル震えているのが見て取れたのである。たしかに、わざわざ人工的な水音で放屁音を消そうなどと努めるダサイ根性が、なにやら哀れかつ憐れなしんみり情緒をかもし出すのだった。排泄中は消音するのが当り前、という硬直した思い込みこそ、排泄主の規格化された従順な、衛生的制度に飼いならされたなまじ生真面目な中流女ぶりをほんのり漂わせていることになり、その俗臭が屁臭と溶け合ったこれ生臭さが画面から漏れ出るほどの微震尻映像こそたまらないと、交感系マニアの琴線に触れはじめてもいた。そう、TOTO音姫系の機器により音響マスキングされているビデオは、放屁音が消音されているぶん価値が減じたことは事実だったが、その価値下落分を、屁主のまことにあはれな尻微震の人間的色合いによって十分埋め合わせているのだった。この消音尻の震えは業界で「羞恥震」と呼ばれ、「消音モノ」=「馬鹿羞恥震モノ」専門に購入してゆく熱狂的ファンも週に五六十人では尽きなかったという報告が、神保町のAV店からちらほら聞かれていたという。「消音モノ」も特異な〈ヌケナイ便〉モノとして定着したのである。
しかるに、音姫も赤外線センサーと連動して本人の意思と関係なく自動的に水音消音する仕様が増えてきた。そうなると被写体本人の羞恥が関わってこないため、羞恥震の価値が無になった、と一旦は橘印専用スレで嘆きの声が飛び交った。しかしそこは橘印ファンのレベルの高さである。自分では気にしてない排泄音を勝手に消しにかかるオート音姫のお節介ぶり有難迷惑ぶりに、「私は人体機能を恥じちゃいないのに」という反発含みのメタ羞恥が被写体から発散される微妙情感を味わう観賞法が広まったのである。橘印専用スレでさまざまな「メタ羞恥震シーン」が報告された。
このメタ羞恥のメカニズムは、橘印ファンの主体である男性の方が実感できたのである。今やデパートや公共施設の男子トイレにも女子トイレ並みに赤外線オート乙姫が普及しており、便座に尻を下ろすや水音が流れたりする。そのときむず痒いメタ羞恥に囚われた男は多いはずだ。「なんだこら。俺は女か」「要らないのに。逆に恥ずかしいだろ。女みたいに恥ずかしがってると思われるのは」等々。思えば日々女性は、こういう音消し的羞恥心を押しつけられているのだな、しかも女だけの空間で押しつけられているのだな、自意識をどんどん入れ子にしていかねばならんのだな――というインタージェンダー感情移入が違和感の形で実感され、「その大変な自意識的たしなみの隙間をこうやって盗撮されてしまった女……悲哀……」……メタメタ羞恥震の蜃気楼となって男らのささやかな認識改革に共鳴したのだった。
■ さまざまな橘印ビデオに盗撮されて残っている脱糞者・放屁者の身元が、おろち考古学の検証の結果幾十人か割り出されているが、おろち史に再登場する人物はない。逆に、身元がわかっていないかわりにおろち史の今後に多大の作用を及ぼすと推察される人物もいる。それは、橘印ビデオ『トイレなんかこわくない!~ママといっしょ』17分付近に映っている次の光景である。
BGMとアナウンスからして都内のデパートのトイレらしい。母親と二~三歳の娘が個室に入る。まずちょこんと出っ張った娘小尻がおしっこをし、次にずんと下がってきた母巨尻が下がりきるやいなやブッ、おならとともに逆さ富士に突出変形して火口から太長便めりめりめりめんりめり、モッツン繊維束露わに切れたあと細蛇便をぬるぬるみちみち螺旋状に搾り出してゆく。「ママうんこしてるー!」と娘が叫ぶ。螺旋状が命あるごとく長々続く。「クサイヨ~~!」母親が尻拭きをしている間、娘は「ウ、ン、コ、ウ、ン、コ」尻を覗き込んだり揺れたりしながら「ウ、ン、コ」口ずさんでいる(画面も揺れているのは目線の低い子どもに発見されることを恐れて橘菜緒海が時々カメラを引いているからだろう)。母娘が個室を出るまで、母親は無言。そして洗面台あたりで母親がようやく「もーっ。だからカオリちゃんと一緒にトイレに入るのやだって言ったのよ!」
この本気怒声は作用μの典型例であり、『トイレなんかこわくない!~ママといっしょ』はおろち文化の第一級資料となっているといっていい。さてしかし、この「偶然の一致」をいかに解釈したものだろう。確かに子どもがこの種の場面で叫ぶのはあの二文以外にはないのかもしれない。幼児ゆえ語彙も限定されていて、かつての橘菜緒海との科白の一致も訝るには値しない。しかし母親の反応は? これもある程度狭い幅に入ることは不思議ではないが(人間機械論の一バージョン)、今日のおろち学の定説では、ここに映っているのはある意味で過去の橘母娘自身であるというタイムスリップ理論、または時空トンネル効果理論が有力だ。ある意味でというのは肉体的には別人であることから例えば名前が異なっている(ナオミ→カオリ)ということの他にもう一つ、注意せねばならない微差がある。はみだしYouとPiaにおける高塚雅代投稿文では母親の科白が「……いやなのよ!」であったのに対し、ここでは「やだって言ったのよ!」になっていることだ。このことと時空トンネル効果理論を組み合わせると、二十余年前の橘菜緒海自身の状況でも実は、橘真知子は娘菜緒海に同じく「やだって言ったのよ!」と怒っていたのだということが示唆される。したがって、
27 母親はトイレに入る前、娘が幼いにもかかわらず「あなたと入るのいや。外で待ってなさい」とはっきり言い渡した。それに対して娘は「やだっ。いっしょ、いっしょ」と言い張ったので、「じゃあ静かにしてるのよ」「うん。静かにしてる」母親は「またかな、もう……」半ば観念しながら娘を同席させ排便を始めると案の定……。子どもとはいえ約束を守らないのはひどい。羞恥に根差す怒りほど誠実な対人感情はない。世代的格差を真摯に超えた対立的交流。[強い作用μ説]
28 娘はいかに自分が悪い子でも母親が「外で待ってろ」と言うのはひどいと感じている。こわい人がいるかもしれないのに。そんな母親に対する報復としてまた「うんこしてるー」と叫んでしまった。母親はやっぱり怒っている。ああ、あたしってやっぱ悪い子だなー……。母親への恨みと謝罪の念とが衝突しながら相互拡大再生産してゆく人間の、幼時から兆している倫理的本能への戸惑い、宿命的哀感……。[譴責感・罪悪感対立萌芽説]
が成立しうるだろう。いずれにせよ当該場面での母親排便は量的には桁外れだったが放出様態自体個性的ではなく、他に成人女性による特徴的な大極太便場面や尻痙攣場面、大々大放屁場面、長々長放屁場面、高々高放屁場面などが目白押しに並んでいるこのビデオに『トイレなんかこわくない!~ママといっしょ』というメイン・サブ合わせてこのタイトルがつけられているということは、橘菜緒海自身がこの母子場面こそ全体の最重要部分とあえて認定したしるしであって、まさに自らの履歴と無意識に感応するものを得ていたということなのであろう。
あえて保守的な解釈を一つ提示しておけば、この場面の母親が『ぴあ』の高塚雅代投稿文を見て(高塚投稿文はぴあムック『はみだし天国』p.102にて容易に参照できる)その状況の平凡かつ異様な情緒に憬れ、自分が結婚し子どもが生まれ理性を持つ年頃になったらこの同じ状況を再現しよう、と決意し、十数年の後にようやくそれを実現した、という瞬間だったのかもしれない。周到にニラやにんにくなどを腹に詰め込んでおいて意図的臭気強き排便をし子どもに自発的に「クサイヨ~~」と叫ばせ恥かしい状況に自らを追い込むという高度な羞恥プレイである。作為なき生物に自発的応答をとらせてプレイ空間を現出するという範疇内では、この母親の長期計画はバター犬プレイのちょうど[10の40乗]倍の有効射程を持つと言えるだろう。(「幼児相手に羞恥心」という心理は、幼児に人格を認める最も尊厳認知的態度の反映であり、幼児虐待防止対策の鍵となるという社会政策的視点に注意せよ)。
以上は29番目の解釈〔1.5人(一人半)羞恥プレイ説〕として立項するに値するかもしれない。
■ 橘印のビデオの中でも直ちに売り切れ、中古やダビングが当時から特別な高値で取引されていた一連の諸作品がある。それらは他作品に比べて特に屁の音が高らかであるわけでも長らかであるわけでも大便量が抜きん出ているわけでもないにもかかわらず、一桁高額で恭しく売買されていたのだった。それら高額版の唯一の共通点は、後の綿密な調査で解明された。すなわち高額版のすべてに、そして高額版のみに、放屁時または脱糞開始時または脱糞完了直前時に足の踏み場移行に伴なう「股関節ポキッ音」が収録されていたのである。
ただしどれ一つとしてパッケージに「股関節音付!」などというコピーが付いていたわけではない。高額査定の必要十分条件が「ポキッ」音含有にあることを明示した資料は一つもない。橘菜緒海の業界デビューの内面的経緯が当時知られていたはずはなかったのだから当然といえば当然だが、にもかかわらずこの「ポキッ」付のビデオが暗黙に高値取引される流れになったというところに、製作者の内的衝動までを感じ取ることのできる、そしてそれを自然と市場取引のランク付にまで反映させてしまう当時のスカトロマニア購入層の眼力の本物さを窺わせて興味深い。
某掲示板橘印スレに書き込まれた橘印高額ビデオの感想文を引用しよう。
幻の橘印『猥尻咆哮』、入手しました! 期待以上! 咆哮というより嗚咽ですな。裂帛の嗚咽。アヌスがこれほど表情豊かで雄弁だったとは! アヌスの号泣に共鳴してかかとが震え、衣擦れがざわめき、苦悶の溜息が降り積もり、脚の節々軋み鳴り、周囲の声々反響を弾き合わせ、見えない水滴をエコーでくるむ。ああ、ああ、ぶひいいーッ、の瞬間橘印は画面が輝くというのは本当だった!
擬音表記はなされてないにせよ、いやなされていないからこそ「ポキッ」が画像全体の価値を増幅していることが読み取れる。関節音効果をこのマニア自身も明確に意識していないところがかえって「ポキッ」効果の真実を示しているのである。この感想以外には、ポキッに言及したマニア言語は残されていない。
なお後年の分析により、「ポキッ」音入りの橘印ビデオには、アキレス腱やふくらはぎの収縮運動が鮮明に映っているものが多いことがわかった。排便時のテンションとリラックスのうねりが感じられるポキッ×ヒクッものこそが、排便最中の体感の想像貪るマニアの垂涎を誘うのであろう。
さて、おろち史に残るビデオアートを残した橘印の原動力が、橘菜緒海の〈屈辱の顔モザイク体験〉にこそ根をおろしていたという事実は何度強調してもくどすぎることはない重要な事実だ。「あれでブスが判明した私だからとことん逝ってしまえ」的開き直りが橘菜緒海爆走の原動力であり、おろち史のその後の展開を決めたと言えるのだから。しかるにあの〈屈辱の顔モザイク体験〉について、きわめて皮肉な、人間の悲しさと愚かさと難しさと滑稽さを歴史の機微へ鮮明に投影しうる微かなる大事実を述べておきたい。
(第24回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■