偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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・ 印南哲治の少女純潔教育用テキストより――
●問 ( )に適語を入れてMS哲学基礎論を完成させましょう。(百点満点。一問各3点・1、6、14、17、19、23、25、29は各5点、28は零点(採点外))
構造的にみれば無論、いかなるMもSであり、いかなるSもMである。そもそもSがスレイブのSでもあり、MがマスターのMでもあることを忘れるわけにはいかないのであるから。
これはどの人間関係においても当てはまる真実ではありましょう。しかし「あらゆる事柄は神の思し召しだ」と言えた瞬間「神」なる概念が意味を失うのと同様、あらゆる関係に当てはまってしまう真実というものは真実とは言えない。空虚な背景である。
その点、豊富な象徴と生身の現場心理において男女が同時にMとS両方を生きることができる( 1 )PLAYこそは、真の意味で――俗な・素朴な意味で、他には当てはまらないM=S機構を内蔵しておるわけです。そう。男が女の( 2 )を( 3 )る。( 4 )が( 5 )の代理行為だとすれば、女性が産む性である以上、理想的なSM・MS関係の男女役割分担はここからでしょう。して因襲的に呟いてよいなら確かになるほど、女性は( 6 )し( 3 )させる性でもなかったか。生理感覚が醸す体内( 7 )、極上の( 8 )!
即ちここで、( 3 )る男性は相手の( 9 )いものを( 10 )むのですから確かにMですが、( 11 )せる女性も自分の秘密の( 12 )を無防備に( 13 )すのですから( 14 )Mと言えます。と同時に彼女は相手を( 15 )に( 16 )くので根本的にSでもあるのですが、男性は彼女の( 2 )を( 3 )ながら彼女の( 17 )を( 18 )ってしまう行為をイメージ経験していますから、極限的Sの瞬間を生きているとも言えるのです――合法的( 19 )!
だから真の平等主義的恋人はこれを実践せねばならぬのだ。人生と愛における闘いのアレゴリーになっているばかりではない。男が女の( 20 )に( 21 )を( 22 )する、この機械的な性の定めの( 23 )がほらここに難無く実現されてもいるではありませんか。女の下の( 24 )に男が前の( 21 )を( 22 )するのと反対に、男の上の( 24 )に女が後ろの( 21 )を( 22 )すること。見事な( 23 )ではないか。( 1 )色の物体を媒介として融合したふたりの心身が同時にSでもあり、Mでもあり、男でもあり、女でもある究極の桃源郷へとトリップできているのですから。
なお、( 1 )PLAYがSMのみならず正統的な恋愛の理想モデルとなるためには、女性の( 2 )はぜひとも( 25 )状であることが望ましい。というのも、( 25 )状の( 2 )こそは心身がリラックスしている証拠だからです。緊張したり警戒したりしていると( 26 )が小刻みにすぼまってしまい、決して( 25 )状の( 2 )は( 27 )ないことは日常経験するところでしょう。
同様に男は、彼女の( 2 )を( 3 )る最中、一貫して( 28 )していなければなりません。副交感神経の励起に発する( 28 )状態はこれまた心身の安定を示す兆候であり、これが起こっていないようならば男は、女に対する愛を公言する資格など永遠に持てないと言うべきでしょうから。
というわけで、結論、( 25 )型( 1 )PLAYこそ男女お互いが信頼しあいくつろぎあった、しかも( 18 )うか( 11 )れるかの、理想愛のバトルと結合を見事に表わしているのです。
……道徳にも法律にも決して触れたことのない不思議な( 29 )はこうして、永く不問にされしMとS、男と女、融合と闘いの硬皮を裏返し解放する類い稀れな亀裂の原点になるのでした……。
注:少女らにとって「よーくよーく考えれば八割は正解できる問題」の典型であったため、「そうか、これが愛の気合ってことか、おろち気合か」と絶大な納得感を博し、ネオおろち系文化の底流へと受け継がれたのだった。なお、「28は零点(採点外)」となっているのはもちろん、印南哲治のED歴を反映している。初対面の女子高生相手に個人的私秘的事情を隠すことのできなかった印南的常時真顔のこだわりというか、悲喜劇的予兆がここにすでに含まれている。
■ 橘菜緒海は二年間盗撮に励むうちに、オーソドックスへ回帰した。すなわち股関節音よりも放屁の方に感動の力点を戻していった。とりわけ熟年女性の放屁にますます深い美的情緒を覚えるようになってゆき、「うかれメ」撮影現場で学んだテクニックを蓄積しながら盗撮アルバイトを卒業し(菜緒海の提供した盗撮素材がきわめて好評で、依頼主一人一本あたり菜緒海の手にする報酬の千倍以上の利益を得ていることを知っては請負いに甘んじる気も失せようというものだ)、個人レーベル「橘印」を設立してかの画期的な『放屁盗撮シリーズ』を自作編集販売、ヒットさせたことはおろち文化史の一大転機であった。販路は主としてインターネットのカタログサイトを通してだったが、女性一人による手作りレーベルの希少価値も相俟って、橘印社長のタチバナキヨミ(ナオミ改め。ただしほどなくタチバナナオミに戻した)はたちまち業界の売れっ子となる。ただし知られたのは狭小ローカルに名のみで業界誌の取材には一切応じず、どこのAV店でも橘印コーナーを形成するほど売れたにもかかわらず一インディーズメーカーのポジションを守りつづけ社員は雇わず橘菜緒海一人で以前のようにカメラ片手に女子トイレに潜伏するというバイト時代と変わらぬ手作り体勢を頑なに維持していた。収益は穴場トイレに関する情報収集に費やしたほかはすべて預金(この莫大な金がやがておろち史において重大な作用を果たすことになる)。こうした大信念のバックボーンに支えられた橘印の製品レベルは他の追随を許さず、かつてのスカビニ本表紙の「合計220グラム」のノリのビデオパッケージ「爆屁二十連発!」「猛屁合計三百六十秒!」のような売り文句も一般化した。変わっているのは「裂け目5センチ!」「引っ掻き状クレバス深さ1センチ7ミリ!」「天然ささくれなんと26本!」「未消化細粒17粒!」といった一連の能書きで、これは〈裂け目マニア〉とか〈糞肌マニア〉と呼ばれる一群の特化マニアに向けた製品である。肛門からぶら下がり中の太大便の表面に、亀裂や色の地層的変化や繊維質や未消化食物粒々が見えるのをこよなく愛する人々が橘印お得意先の中核だった(環境保護主義者たちのうち景観マニアのさらにヒマラヤからグランドキャニオンを専門とする〈山肌愛好家〉〈崖マニア〉と呼ばれる人々が主体といわれる)。下降中に自らの重量で次第に大便表面の亀裂が伸び拡がって内部のササクレが滑らかな表面を貫き陰毛にも似た密生図を表わす克明な「亀裂成長映像」もしくは「緩慢空中分解映像」は橘印の際立った個性の一つで、後世のおろち写真集やビデオ芸術に甚大な影響を与えた。
もとよりオーソドックス大放屁シリーズに主力が注がれたことに変わりなく、長放屁シリーズ、オクターブ変調サインカーブ屁シリーズ、放屁中に尻を掻く熟女シリーズ、尻掻き指にリングシリーズ、放屁を・大蜷局を自分で笑う女シリーズ、オナラ消しのため両手で双丘拡張シリーズ、極太切断に苦労・尻揺すりショボ屁洩れシリーズ、下痢・咳・湿り屁シンクロシリーズ、オナラ+溜息シリーズ、縁に尻尾はみ出し・便塊飛び出しシリーズ、便秘塊便難産呻吟シリーズ、壁叩き苦悶シリーズ、粘便拭き始末念入りシリーズ(とりわけ尻拭き後の紙をしげしげ見ていることが推測される静止インターバルシリーズ)、湯気もうもう立ち込めシリーズ、湯気螺旋状漂泊シリーズ、湯気が尻双丘曲線に沿って唐草模様風クッキリたなびきしみじみシリーズ……。橘菜緒海の撮る橘印レーベルのうちとりわけ熟年放屁は、放屁の瞬間、画面が放射状に輝くと言われ、オーラマニア、心霊映像マニアの間にもファンを獲得したほどだった(『ほんとにあった! 呪いのビデオ』にワンシーンがパクられ、著作権侵害で投稿者をほん呪スタッフが尋問するドキュメントが劇場版に採用されたほどだ)。カメラマンを雇って撮影を任せるわけにいかなかったゆえんである。
■ 「恥ずかしくて」
「でもよかったー、きょう会えて。おじさんから声かけてくれて」
投げやりな俗語調とは裏腹な、それだけに際立つこんな貴い羞恥に溢れた少女たちが本邦の都会の真ん中にも生息していたのだ! 二人の澄んだ瞳とちょっと黄ばんだ可愛い歯をうっとり見つめながら、しかし印南はまもなく、絶望のどん底に叩き落されることになる。
「ガングロやめたのはナンパ歓迎、に変わったんじゃないだろうな。心配だな」
「あはは。違うから。もう美白のままでも虫ども追っ払う自信ついたから」
「場数踏んだから。無視する場数」
「場数か。世慣れしたってことだな。やっぱ心配だぞ」
「世慣れしてないから。国の歴史も全然知らないし」
「世慣れしてないから。きょうのだって恥ずかしくって、二人だからやっとここまで出来たから」
「うむ……。たしかに」自意識もしっかりしている。印南は今日のおろちプレイにおける二人の、見せかけでない恥じらいと初々しさをしみじみ反芻した。間違いない。この子たちの芯の強い奥床しさなら、結婚しない限りあと二十年は処女膜安泰だ。
しかし「国の歴史も」という奇妙なフレーズが少女の口から出たことに、印南はもっと敏感であるべきだった。わずかでも備えているべきだった。ほんの数秒のクッションがあれば、印南の心身への衝撃も和らげられ、おろち史も多少とも穏便な滑り出しを得ていたことだったろう。
「世慣れしてもいいけど、怖いもの知らずはダメだからね」
「あはは。おじさん自分は怖い人じゃないって思ってるな」
「僕なんか全然。怖い人ってのはちゃんといるよ」
「ちゃんと」
「ちなみに、学校どこ?」
いつもの軽い調子で尋ねてみたのが運の尽きだったのだ。これにはたいてい「ヒ・ミ・ツッ」という挨拶が返ってくるはずだったので、印南としてもただのタイミング取りの挨拶のつもりだった。ところがこの二人はいとも快く答えたのだ。そこがまたこの二人の素朴な純潔度を示して印南の好感を誘ったと同時に神経を引き裂くことになる。
「ん。凪河朝鮮学園……」
にこやかに答えたのだった。しかも始めのあの時のように二人声をそろえて、首を傾げて。
印南は電撃的にのけぞった。朝鮮学園?!
なんということだ!
朝鮮学園?!
二人の鞄からあたかもこれ見よがしに――印南の大反応を予測してのように――はみ出している学校案内パンフレットに、今さらのように印南の眼はさまよったのであるが……。
「祖国を奪われ、民族のまとまりを奪われた在日朝鮮人1世たちにとって、民族教育を守り育てることは、心を守り、魂を守ることと同意語であったのです。朝鮮学校は民族そのものなのです。朝鮮学校に在日朝鮮人の、そして朝鮮人そのものの未来を託したのです。2世は1世の背を見て育った世代、そして現在3世である子どもを育てる世代です。2世の中には、日本政府の同化政策や、教育助成金支出中止や、朝鮮学校閉鎖の動きに遭って、途中まで日本学校に通い、朝鮮学校に編入学したという人が少なくありません。2世にとって朝鮮学校は自分たちに民族の誇りを与えてくれた場所であり、人生観を育んでくれた場所であります。3世・4世の特徴は、1世・2世に比べて、同化世代としての可能性を持っていることです。現在、同胞たちは分散して暮らしており、互いの交流も少なくなりました。こうなると、1世とともに生活してきた2世とはちがって、彼らは親の様子を見て民族的に育つという機会が少なくなってきます。3世・4世たちこそ、朝鮮学校で学ぶなかで、朝鮮人としての風貌が備わり話すことばも品格も朝鮮人らしさがでてくるのです。母国語を学び、朝鮮の歌や踊り、歴史や地理を習うことによって、朝鮮人としての誇りと自覚を持つことができるのです。3世・4世であるからといって「祖国を知らない世代」、日本文化に無自覚に染まった世代に埋没してよいはずがなく、実際、祖国をよりよく知る世代として祖国愛と民族性、誇らしさと自尊心をもって外国にあっても朝鮮人として育ちつつあるのです」。
大日本帝国の因業がここに!
在日朝鮮人民族教育支援闘争資料集の一部かと推定されるこの文書の筆者にしても、繁華街の一隅のホテル内で民族の少女がかくも意外な形で、一応大学教授という日本人知識階級の誇りをこなごなに打ち砕く快挙を演じているということは夢想だにしなかったであろう。
在日朝鮮人少女といえばチマチョゴリを着て穏やかに微笑んでいるものだくらいの漠然とした偏見しか抱いていなかった印南としては、よもやこのように原宿渋谷系スタンダードのファッションに、いや、このようなものは日本文化とすらいえない文化以前のバグ現象であると本邦中高年文化人とともに朝鮮人教育当局も正しく軽視しているなら、べつに何にどう染まりかけようが日本文化にどうこう云々のシリアスな話とは無縁であるわけなのだが。ええと俺は何を考えているのだ。ええとええと、この二人の好ましい羞恥心豊かな大和撫子が、朝鮮人少女であったという事実だ。
ああ、俺の感性は彼女らに同調共鳴していたか!
皇国の美徳、忌まわしくも誇らしい大日本帝国的美徳・大和撫子の大精神を忠実に受け継いでいたのが、なんと金日成帝国の女性であったとは。
韓流ドラマの純潔スタイルに古き良き日本を見てうっとりしている場合ではなかった。北の帝国にこそ、さらに潔癖な大日本帝国魂が息づいていたとは。
というわけで印南はめまぐるしく理屈の出口を一瞬にして探りあぐねた結果、自分が唯一感動させられた少女型羞恥が図らずもてきめんに非日本人のものであったという事実が全細胞に膨満し破裂し、
一気に混乱し、
う!
うああああああぁあぁあぁあぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁあぁ!!!!!
叫んで頭抱えつまずきねじれながら部屋を飛び出したのであった。
印南がショックを受けたのは本来の、生殖用セックスを否定する根拠としてあれだけ愛を説いていながら……所詮通りすがりのおろちプレイ自体が全然愛では……的懊悩に陥っていたはずであるのを、いつのまにか民族主義的美学の相対評価的焦燥へと自らの無意識がすり替えてしまっていたことだった。これは、真の問題を直視せずに逃避的な保身を図る先行きの前兆であるとともに、保身策へ逃れてもなお懊悩から解放されぬばかりか深化してゆくばかりであるという宿業を完膚なきまで仄めかすものでもあった。
うあああああぁあぁあぁあぁあ……!
部屋を逃げるように飛び出して地下鉄に飛び乗り終点まで四往復した後で自室にたどり着きバタンキュウと翌昼過ぎに目覚めたときになってやっと思い出したのが、二人の朝鮮少女を部屋に置いたまま二時間九千五百円の休憩料プラス増員一名分五千円プラス千円の延長料金を払わずにきてしまったということだった。しかもおろちプレイの代金として約束した一人あたり五万円も未払いのままである。
「あいてて……、なんという恥だ……」
内心だけの動揺で済んだはずの民族的敗北的落胆をこのような無様な契約違反の形で露呈してしまった。その恥の上塗り的悔恨にも、日本人代表として印南は以後長らく悩むことになる。
(大日本帝国民族の国内的貞節倫理が失われるとともに対外的強奪の記憶まで更新してしまった……、よりによって北の帝国の少女に……)
(やられた……半島民族に列島民族が……)
印南はこのときすでに暗におろち文化史上第一人者の地位を獲得していたのだったが、第一人者たりつづけようとすればその場しのぎの糊塗戦術に時々刻々焦らなければならないというまたひとつ深刻な宿業の先例が早くもここに染み出していたことになろう。
あの二人に以前初めて会ったとき路上勃起中駄目押し的に聞き沁みこんだ科白「あたしらのビボーに寄ってくる男って馬鹿男ばっか……」が、今思えば付き合ってみたはいいが半島アイデンティティを明かすやいなや大和魂の末裔に軽薄な困惑笑い浮かべつつ去られてしまった、的苦い思い出がいくつか累積していたのだろうという推測も改めてぐるぐる脳髄を流れめぐり、偏狭な大日本帝国民族の子孫たることの因業羞恥に身悶え、邦尻にはない苦渋の民族的深みに湿った朝鮮尻への言いようのない慈愛めいたあはれ感情がさらに国家主義的ストレスを刺激し、印南は完全につぶれた。
印南哲治はいったん壊れた。砕けた。折れた。崩壊した。
(第23回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■