俳優、声優・ナレーター、エッセイイスト、東海大学特任教授。1942年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。
洋画家・寺田政明の長男として東京の旧池袋モンパルナス芸術家村に生まれ、早稲田大学中退後、文学座附属演劇研究所に第一期生として入所して俳優の道を歩み始める。岡本喜八監督の『肉弾』に主演し毎日映画コンクール主演男優賞受賞。実相寺昭雄、相米慎二、石井隆監督作品の常連俳優でもある。エッセイイストでもあり、著書に『寺田農のみのりのナイ話』(淡交社)、『寺田農のノウ・ガキ』(風塵社)がある。美術にも造詣が深いことで知られる。
大正時代末期から昭和二十年代にかけて、現在の豊島区要町から長崎町のあたりに「池袋モンパルナス」と呼ばれる画家たちのアトリエ村があった。命名者は詩人の小熊秀雄で、靉光(あいみつ)、松本竣介(しゅんすけ)、麻生三郎、吉井忠、柿手春三、寺田政明、古沢岩美、難波田龍起、小川原脩(おがわらしゅう)、北川民次、野田英夫、丸木位里・俊夫妻など、そうそうたる顔ぶれの画家たちが創作に励んだ。福沢一郎、熊谷守一、長谷川利行らの先輩画家たちも彼らの仲間だった。詩人では小熊のほかに、瀧口修造、高橋新吉、山之口獏らが画家たちと親しく交わった。
しかし池袋モンパルナスの画家たちの業績は、高橋由一や青木繁、岸田劉生ら明治から大正初年代にかけての初期洋画家たちと、戦後に解き放たれたように欧米美術を受け入れたアバンギャルド系の画家たちの間に挟まれて、いまひとつ明確な像を結んでいない。
そこで金魚屋では、池袋モンパルナスを代表する画家の一人である寺田政明画伯のご子息で、俳優の農(みのり)氏に、池袋モンパルナスについて語っていただいた。寺田氏が肉体感覚で捉えた池袋モンパルナスには、美術史の表面には現れてこない貴重な示唆が含まれている。
(金魚屋編集部)
───寺田さんは美術にお詳しいということもあるんでしょうが、NHKのドラマ『フェイク』で美術研究家の大学教授を演じておられます。ドラマや映画の世界の美術に関してはどんなご感想をお持ちですか。
寺田 実相寺昭雄という僕の親友が、昭和五十二年(一九七七年)に、松竹で『歌麿・夢と知りせば』という映画を監督しました。その映画では歌麿の肉筆画を揃えていかなきゃならない。僕は彫り師の役をやったんだけど、そういう時に京都に西田さんという有名な人がいて撮影に協力してくれた。彼はうちの親父なんかも知ってた人なんだけど、本来は絵描きで、器用な人だから、最終的には西陣織のデザイナーになりました。撮影の時に、西田さんは指に筆を三本くらい挟んでね、歌麿の有名な春画をさーっと描いていく。できはいいですよ。素人目には模写っていうか、贋作だとはわかんない。見る人が見れば、一発でわかっちゃうんだろうけどさ。西田さんが、「寺田さん、差し上げましょう」っておっしゃるから、それをもらったという思い出があります。
───京都は面白いですね。尾形光琳・乾山兄弟が呉服屋の出ですし、最近では加山又造さんのご実家が呉服屋だったと思います。呉服屋の家から画家になられる方もいらっしゃるし、画家から呉服屋に入られる方もおられるんですね。ただ西田さんのお話ではないですが、型がないと、うまく創作というか、絵を描けない方がいらっしゃるようです。
寺田 日本画が特にそうでしょうね。これは僕の素人なりの推論なんだけど、絵描きはね、うまいかどうかだけいえば、日本画の画家の方が洋画よりもうまい。うまいからいいかどうかって問題とは別ですけどね。絵としてうまいのは日本画ですね。なぜかっていうと、そういう勉強を徹底してするから。まず模写から始めるし、細い筆を使って細密画を描く練習をする。日本画は絹本で、あれに描くのは技術的にも難しいものね。そういうことを全部習得してから、初めて自分の絵を描くわけでしょう。洋画家も基礎は必要だけど、ある程度やったら、自分なりの描き方を見つけ出すのが仕事だからね。
───お父様の政明さんは、最初から洋画ですよね。東京に出てきて小林萬吾さんの同舟舎絵画研究所に通って、それから井上長三郎、鶴岡政男、靉光さんなんかがいらした太平洋画研究所に通っておられる。でも戦後になってから、政明さんは墨絵とか日本画も描かれていますが。
寺田 墨絵というより顔彩を使ってね。色紙に書いたり、それに書を添えたりして。それから陶器の絵付けなんかもやった。描くことが好きな人だから、ありとあらゆる素材でやってます(笑)。
───そういうことは、戦前はやっておられないんじゃないんですか。
寺田 いや、戦前の若い時にもやってるの。へにゃへにゃしたものですけど、こんな時代から描いてるんだってものが残っています。
───池袋モンパルナスは、メディアではどのくらい取り上げられていますか。
寺田 NHKの新日本紀行でもやったし、日曜美術館でもやってるし、NHKスペシャルでもやってる。その他にも雑誌『東京人』などで取り上げられてる。ありとあらゆるところで、ずいぶん特集が組まれています。
───池袋モンパルナスにあったアトリエは、いわゆる文化住宅ですよね。
寺田 そう、典型的な文化住宅。今、池袋警察の横に消防署がありますが、その隣に勤労福祉会館があって、そこの六階にアトリエ村の、池袋モンパルナスのジオラマがある。無料で見られます。それをごらんになると、当時の様子なんかがよくわかります。
───池袋モンパルナスのメンバーの方で、今でも寺田さんがお付き合いされている画家の方はいらっしゃいますか?。
寺田 さきほどお話しした野見山暁治先生だけですね。野見山先生は今年九十歳ですけど、最後のモンパルナスです。うちの親父が生誕百年だから、野見山先生は十歳若いんだね。先生はお元気ですけど、もしお亡くなりになると、当時のモンパルナスのメンバーはいなくなってしまいますね。
野見山暁治『マドの肖像』 昭和十七年(一九四二年)
───政明さんは、小熊さんのほかに山之口獏さんなんかとも交流がありましたね。
寺田 詩人では山之口さん、瀧口修造さんなんかも仲間で、わいわいやってたようです。
───政明さんは、戦後、読売アンデパンダンなんかに出品されていますが、あれは瀧口さんとの交流ですか。
寺田 それはよくわからないな。アンデパンダンは読売新聞が始めたわけだけど、戦後の画家はみんな、発表の機会を待ってたんじゃないかな。特に読売アンデパンダンは公募だから、出品しやすかったんだろうね。
───池袋モンパルナスでは、理論家というか、指導者としては小熊秀雄や福沢一郎さんが中心だったと思いますが、戦前に瀧口さんが、モンパルナスのメンバーに、シュルレアリスムについてなにか影響を与えたといったようなお話は、聞いておられませんか?。
寺田 それもよくわからないなぁ。でも瀧口さんのほかに、当時有名な美術史家だった土方定一さんとか、洲之内徹さんなんかも池袋モンパルナスに出入りしてわいわいやってたようです。彼らはうちの親父なんかとほぼ同世代だから。
───洲之内さんは、戦前からのお付き合いなんですか?。
寺田 うん。洲之内さんは面白い経歴の人で、芥川賞の候補に二回なっています。受賞できなくって、なんだかんだやってるうちに、田村泰次郎さんがやってた現代画廊を手伝うようになって、後に現代画廊の主人になったわけです。自分が気に入った絵は絶対売らない画商だったけどね(笑)。『きまぐれ美術館』という美術評論を書いて有名になったけど、評論家じゃないですね。
───あれだけ目利きならもうかります。絵を売ればですが(笑)。
寺田 うちにも三点くらい靉光さんの絵があったんだけど、靉光展があると、うちの姉妹なんか「これ、家にあったよね」ってよく言ってた。もちろんタダじゃないだろうけど、親父のことだから、洲之内さんを応援するために、安い値段で譲ったんじゃないかな。当時の絵描きって、みんな人の作品をいっぱい持ってるんです。うちなんかにも、麻生三郎さんの作品があったりします。
───あげたりもらったりしてたんですか。
寺田 それとお互いの顔を描いたりね。麻生君の顔とか、寺田君の顔とか残ってる。描いたらそれを、お互いに交換しあってたりしたわけです。今になれば別だろうけど、当時はそんな肖像画なんて売れないからね。絵の練習でしょうね。
───政明さんと古沢岩美さんの関係はどうでしょう。
寺田 古沢さんは佐賀の出で、親父と同い年なんだ。でも古沢さんはモンパルナスには住んでなかったんだよね。あの辺なんだけど、ちょっと外れてるんです。後に親父がときわ台に移ってから、歩いて十分くらいのところのご近所になった。でも昔から仲が良かった。ただ古沢さんは東京美術学校教授の岡田三郎助の弟子だから、最初はモンパルナス系じゃなかった。のちにモンパルナス系の画家になったって言ってもいいかもしれないけど。
───古沢さんは、初期はかなりシュルレアリスティックな絵を描いておられますね。
寺田 そうそう。でも最後まで、古沢さんの絵にはシュルなところがありましたよ。かなり官能的な感じの絵が多いけどね。
───画家同士は、相手の絵について、なにか言ったりするものなんですか?。
寺田 言わないんじゃないのかな。言う時は喧嘩みたいになっちゃうから。
───そのあたりは仲が良くても一線を引いていたと。
寺田 いい絵だったらお互いに認めるんだ。つまんない絵だと、なにも言わない。
───そうだとすると、池袋モンパルナスってひとくちに言いますけど、かなりの緊張関係があったわけですね。
寺田 ものすごい緊張関係ですよ。池袋モンパルナスの画家は、昼頃起きて、あの頃、池袋駅前にあった音楽喫茶、セルパンなんかでコーヒー飲んで議論して、夜になれば焼酎飲んで喧嘩して、じゃあいつ絵を描いてるんだってことになるんだけど(笑)。だけど、母親なんかが言ってたけど、帰ってきたらもう、ものすごい顔をしてだーっと描き上げるとかしてたみたいです。お互いに触発し合っていたわけです。展覧会に行っては、やられたとか思って奮起してたんです。だからみんな、当時、後にその画家の代表作になるような絵を描いてるんですね。
───池袋モンパルナスの画家たちは、そうとうに戦況が切羽詰まるまで、展覧会を開いていますね。あれはかなり無理をしてたんでしょうか。
寺田 新人画会ってのが、戦前最後の展覧会ですよね。昭和十九年(一九四四年)九月に、第三回展まで開いています。靉光さんが出征する前に、作品だけ残して託していったっていう。新人画会は銀座の資生堂なんかでやってる。いいところでやってるんです。画家が役者と根本的に違うのはね、誰か一人スポンサーがいれば、個展ができちゃうのね。役者は一人だけいてもしょうがないからね(笑)。
───政明さんは、昭和十八年(一九四三年)に志願されて、従軍画家として中国に行かれています。それはどういう理由からでしょうか。
寺田 それは、自分が足が悪くて兵隊に行けないからって気持ちがあったんだろうね。それに戦場に行ってみたいっていう好奇心みたいなものもあったんじゃないかな。NHKの日曜美術館で靉光特集をやった時にもそういう話になったんだけど、靉光さんだって、うちの親父だって、新人画会のメンバーは、形としては反戦みたいな絵を描いているわけでしょう。それで当局から展示禁止なんかにされてしまう。うちの親父に『雉』って作品があるけど、厭世的であるって理由で展示が禁止されたりしてる。でも靉光さんなんかも、赤紙が来た時に、「初めて国のお役に立てる」といったような文章を残してる。軍人や政治家や財界人は別だろうけど、一般庶民はだいたいそんなもんです。ごく普通の日常生活をしながら、戦争は戦争で、やらなきゃならないし、お国のために働かなきゃならないって思ってる。並列なのね。反戦なんか考えてないっていうのは、そういうところなんです。
───画家にとって戦場というのは、画題としては魅力的だということもあるでしょうね。
寺田 好奇心とか若さもあるからね。当時はいろんな文士の方が、開戦の報を聞いて、「やった」っていうか、「胸がすっきりした」っていう文章を残している。それが国をあげての七十年前だったんじゃないのかな。それはいい悪いとはまた別の尺度で考えた方がいいんじゃないかなぁ。
───藤田嗣治さんは、ノンポリだったと思いますが、軍部に利用されたというのが半分、まあ自分でもなにかやらなくてはならないという気持ちもおありだったんでしょうけど、それが半分あったとして、軍従軍画家として活動された。それが戦後になって猛烈に叩かれる。政明さんは、そういう画家の境遇というか状況について、なにか考えはお持ちだったですか?。
寺田 いや、画家にはそういった政治思想なんてないんだよね(笑)。でも藤田さんとか福沢さんはちょっと違うんだ。福沢さんは、まあはっきり言うと、パリ帰りで有名画家だったから、当時はやっかみみたいなものが向けられていた人なんです。それが戦争絵画を描いたってことで、戦後大ブーイングが起こる。あれが売れてない作家なら、誰も見向きもしませんよ。日本人の嫌らしいところだね。藤田さんたちの戦争絵画は戦争が終わって米軍から日本に返還されて、東京国立近代美術館が持っているけど、藤田さんは寄託作品にして、近代美術館には寄贈してない。でも七、八年前かな、藤田嗣治展が開催されて、戦争絵画も展示されたけど、それはそれはすごいものだった。五百号とかの作品があってね。あれは腕がなければ描けません。ああいう絵は、戦争に利用されたとか、戦争賛歌とかそんなものじゃなく、絵として素晴らしい。
───東京国立近代美術館は戦争絵画の一大コレクションを所蔵していますね。地下室に死蔵されているものも多いと聞いたことがあります。画家の方も公開を望まないという事情もあるようですが。
寺田 それは個々の画家の問題だから。当時は戦争に協力すると、絵の具の配給があったり、カンバスをやるぞってのがあったりしたわけです。モンパルナスにっ小川原脩(おがわらしゅう)て画家がいたけど、彼なんかは、最後は北海道に引っ込んじゃってね。で、犬ばっかり描くわけです。犬の群れで一匹だけはぐれているようなやつを終生描き続けた。日曜美術館でしたか、小川原さんの特集をしたことがあって、当時もう小川原さんは車椅子で、それでモンパルナスのことを聞くんだけど、「えーっ、すごいこと聞くネーッ・・・」とかって感じで言わないものね。でもそれはもう、画家それぞれだから。
小川原脩『ヴィナス』 昭和十四年(一九三九年)
───丸木位里・俊さんご夫婦は、戦後、原爆の絵で有名になりますが、俊さんは、ご自分でも自己批判的に書いていらっしゃいますが、戦争協力的な童話を何作か描いておられますね。
寺田 位里さんの方は靉光の親友だったからね。『ラクダ』という作品は一緒に描いたって言われてます。そこから靉光は日本画を勉強していくわけだから。でも当時は戦後に言われるような思想的なものって、あんまりないんだよね。位里さんは広島出身で、原爆が落ちてから帰郷して、その惨状に驚いた。でも政治的な考えを深めていくのは、一九五〇年代以降、特に昭和二十九年(一九五四年)にビキニ環礁で水爆実験があって、日本の第五福竜丸なんかが被爆してからでしょう。うちの親父の作品にも『第五福竜丸』という代表作があります。
丸木位里『ラクダ』 昭和十三年(一九三八年)
───戦争責任問題っていうのは、当時の状況を知れば知るほど難しいですね。
寺田 マルクス、レーニン、トロッキーじゃなきゃダメだっていう、固い志を持っていれば別だろうけど。でもそうなっちゃうと絵なんて描けないだろうし、当時の時代状況では、まず人として生きていけない。地下に潜伏するしかないから。
───『池袋モンパルナス』(集英社文庫)で宇佐見承さんは、小川原脩さんのことをだいぶ擁護されています。でも政明さんは温厚な方だったようですが、小川原さんに対してはちょっと厳しいことをおっしゃっていたというようなことも書いておられます。
寺田 どうなんだろうね。たとえば何もないときに、普段の日常生活で、あいつ、面白くねぇよなってなると、よけいに批判されるってこともあるでしょう。普段から人気のあるやつがなにかやっても、まあしょうがないんじゃないので済むところもある。でも小川原さんの絵は、いい作品がありますよ。戦争前後のことは、個人の力ではどうにもならないところがある。それを今から蒸し返して検証しても、仕方がないところがあるんじゃないかな。
───難しいですね、難しい時代です。
寺田 だけどうちの父親は、母親もそうだけど、あの時代が暗かったなんて嘘だって言ってました。食うものがないっていう社会状況はあったけど、「絵は描けたしなぁ、いいよぉ、君、自由で」なんて言ってた(笑)。今の方がよっぽど不自由かもしれない。そもそも絵描きでも小説家でもなんでも、芸術家にとっていい時代なんて、ないからね(笑)。絵描きは今はもう、描くことがないっていうんで苦労してる。絵は平面から3Dに変わっていく世の中だし、新しいことをしたい人は、他のジャンルに行っちゃってもしょうがない。少なくとも平面絵画の世界は、だいたいやり尽くされた感じじゃないかな。
───池袋モンパルナスにはいろんな方が出入りしていました。お父様の政明さんも、お人柄もあって、様々な方と交流されていました。寺田さんもちょっと似ていませんか。エッセーなんかを読ませていただくと、ずいぶん広い交友範囲をお持ちのようですが。
寺田 これは僕の一番の弱点でもあるんですが、なんにでも首を突っ込んで、なんでもまあ、こんなもんだろうって感じで理解しちゃう(笑)。深くつき詰めるってことはないね。
───池袋モンパルナスで一番面白かったのは、やっぱり一九三〇年代から四〇年代初頭ですか。
寺田 そうでしょうね。みんな若くて感受性が強い時期だったってこともあるでしょう。モンパルナスの終わりは終戦だって言いましたが、戦争が終わってからしばらくして、それまで絵描きや彫刻家がいたあたりに、普通のサラリーマンの方なんかが住み始めるようになる。そうなるともう、絵を描くような環境じゃなくなっていくんだね。それでうちの親父なんかも転居を決めた。そういう意味では、環境っていうのは大事ですね。
───『怪獣のあけぼの』というDVDは、円谷プロで『ウルトラQ』や『ウルトラマン』などの怪獣のデザインを手がけられた高山良策さんを追いかけたドキュメンタリーですが、高山さんもモンパルナスに関わっておられますね。
寺田 モンパルナスに、最後まで頑張って住んでいたのが山下菊二と高山良策さんです。
───高山さんは、尋常小学校を出て、丁稚奉公なんかして苦労された方ですよね。
寺田 いや、高山さんは山梨の出て、お兄さんも絵描きさんだったです。当時の下層階級とかの出ではないな。当時も今もそうだろうけど、極貧階層の出身で絵描きになる人って、ほとんどいないんじゃないかな。極貧状態じゃ、そもそも絵なんて描く気になれないでしょ(笑)。
───最後は極貧状態で亡くなるってのはありますが。
寺田 長谷川利行みたいにね。
───彼は自分を追い詰めないと描けなかったんじゃないですか?。
寺田 それはわかんないけどね。人間個々の問題だから、こういう性格の人だから、こういう絵を描くんだろうってことはないだろうし。じゃあ利行みたな生活をしたら、誰でも利行ふうの絵を描けるのかっていったら、そうでもない。もっといい環境にいたら、いい絵が描けるかって言ってもそうはいかないだろうし。やっぱり持って生まれたものと、そこからの修練だろうなぁ。
───寺田さんは高山さんと仲良くされていたんですか?。
寺田 いや、面識はないです。高山さんは最初は絵描きで、福沢一郎さんの、本郷の絵画研究所に通ってた。途中から東宝に入るわけです。陸軍航空関係の研究所で、そこでジオラマ作って、それが戦後に怪獣を作るきっかけになるわけです。東宝入りは福沢さんの口利きだったようです。山下菊二さんなんかも入社している。
───実相寺さんなんかの方が、高山さんと仲良くされていたわけですか。
寺田 そうそう。それと高山さんの弟子で池谷仙克さんってのがいるんですよ。美術デザイナーで、実相寺の映画の美術なんかは池谷さんが全部やったりしている。高山さんが円谷プロに行って、池谷さんといっしょに怪獣デザインを手がけて、高山さんが亡くなられたあとは、池谷さんがデザインをやるようになった。池谷さんは僕の昔からの仲間だけど、彼の結婚の仲人は高山さんじゃなかったかな。
───戦後の高度経済成長期には、娯楽とシリアスアートが分かれていた時代がありました。それが冷戦が終わった一九八〇年代末頃からだんだん崩れてきて、アニメでもマンガでも、フラットにその価値を評価しようという姿勢が強くなっています。高山さんはテレビ業界の方ですが、いかにも池袋モンパルナス出身だという雰囲気があります。『怪獣のあけぼの』で、寺田さんは、「高山が作り出したのは恐竜でも怪物でもなく怪獣であり、その造形は、高度経済成長期の明るい社会的雰囲気に冷や水を浴びせかけた」といったナレーションを読んでおられますが、まさしくそうだと思います。事実、僕たちが思い出す怪獣はカネゴンやバルタン星人で、ほとんど全部高山さんの造形です。あれはなにかの本質を突いていたんじゃないでしょうか。
寺田 高山さんは昭和三十六年(一九六一年)の『あしやからの飛行』、四十年(六五年)の『ウルトラQ』、四十一年(六六年)の『大魔神』で特殊撮影の世界に入っていくわけだけど、まず根本にあったのは生活ですよ。生活の基盤として始めた仕事に、高山さんの精神と技術とアイディアが活かされていった。それで自分でものめり込んでいくわけです。最初にあったのは、僕は生活だと思うね。うちの親父だってそうですよ。まずどうやって絵描きとして食っていくかってのが一番の問題でね。
だからこれだけアートが曖昧になって、ジャンルというか、表現の幅も拡がってくると、アートかアートじゃないかを決めるのは、作った人じゃないですよ。オーディエンスというか、見てる人がアートだと思ったらアートです。それをアーチストの方が、理屈をつけて境界を作ろうとすると、きりがない。論文のための論文みたいになっちゃう。絵はいいか悪いか、好きか嫌いかなんだから、説明しちゃダメだよね。
高山良策『池袋駅東口』 昭和二十二年(一九四七年)
───何を言うかではなくて、その方がどんな仕事をしてきたのかが問題になりますよね。
寺田 ちゃんと仕事をしてきた方の言葉は、重みが違うからね。全然話は変わるけど、大阪フィルハーモニーで音楽総監督を長く務められた指揮者の朝比奈隆先生っていらっしゃるでしょう。文化勲章を受章されるちょっと前から、実相寺の演出で、大岡信先生の台辞でベートーベンの『フィデリオ』をコンサートオペラ形式でやることになった。それは最初東京でやって、翌年は大阪でやりました。でも大阪公演の時に、阪神・淡路大震災があって、やるかやらないか議論になったんだけど、「こういう時にこそやるんだ」ってことでやった。
阪神・淡路大震災の時僕はヨーロッパに仕事でいて、ベルリンに着いたらテレビが全局生中継してるんで驚いた。で、ベルリンフィルのそばに有名な日本レストランがあるんです。そこに飯食いに行ったんですが、そこの女将さんが朝比奈先生フリークなんだな。もうお婆さんなんだけど、なにがなんでも朝比奈隆なんだ。レストランの壁なんかに、朝比奈先生の写真なんかをたくさん飾っている。受賞されてから間もないのに、もう文化勲章の受賞写真まであった。その中に一枚面白い写真があってね。ベルリンの壁が崩壊した時の写真なんだ。見ると朝比奈先生がソフト帽かぶって、コート着て壁をよじ登ってる。後ろから朝比奈先生のお尻を支えているのが小澤征爾さん。これはいい写真でね。
日本に帰ってから朝比奈先生にその話をしたら「あのババア、そんな写真を店に飾ってますか」とかおっしゃってたけど、「いやしかし君、あれだな、壁はね、よじ登らなきゃダメだよ、通過しちゃダメだよね」とおっしゃった(笑)。当時先生は八十七歳だったけど、言葉の重みが違うわね(笑)。後にオーケストラ連盟から頼まれて、その写真のことを書いた。先生に無断でね。そしたらある日、大阪フィルの事務局から電話がかかってきて、てっきり怒られると思ってたら、朝比奈先生が僕の文章を気に入ってくださってね。ついては贈り物をしたいってことで、住所を聞かれた。それでプレゼントをいただいた思い出があります。
話をモンパルナスに戻すと、当時はみんな、何も考えないで、ひたすら夢中で絵を描いてたんです。思想もなにもなく、ただ没頭してたんじゃないですかね。
───瀧口修造さんが特高に検挙されてから、瀧口さんと特高の取り調べ官の間で、珍問答が繰り広げられたと聞いたことがあります。
寺田 その頃の話を親父がしてたことがあって、福沢さんや瀧口さんが特高に検挙されてから、モンパルナスはずっと特高に見張られてたんです。でも住人は特高ともすぐに仲良くなっちゃってね。いやご苦労さまとか話してたらしい(笑)。特高っていったって、そんな悪い人ばっかりじゃないんだよね。そこは小林多喜二なんかとは違うわけです。その時々の情勢も違うし、主義主張も違うからね。シュルレアリスムっていう個の解放運動が、どうして反体制的反戦思想に結びついちゃうのか、やっぱり無理がある。自由主義の芸術家って、軍隊では役立たずだけど、反体制運動家としてもあんまり役に立たないじゃない(笑)。これはいささか無理だなってことを、特高自身もわかってたところがあるんじゃないかな。
───特高は本家フランスのシュルレアリスム思想をよく勉強していたという面はありますね。フランスではシュルレアリスムは確かに社会変革運動でしたから。でも日本ではそういう面はほとんどなかった。日本だけでなく、世界各国で、シュルレアリスムは個を解放してくれ、自由な表現を約束してくれる魔法の技法として受け入れられた面があると思います。特高は本家フランスシュルレアリスムには社会変革思想があるので、日本のシュルレアリスムにもあるはずだと考えたわけです。でもそういう要素はほとんどなかった。
寺田 そんなことまで考えてたら、絵なんて描けないよ(笑)。思想家になるしかないね。でも池袋モンパルナスの誰を見たって、それほど頭の良さそうな人はいませんよぉ(笑)。そういう要素があったのは小熊秀雄くらいのものでね。
───そういう意味では、シュルレアリスムは時代の要請でもあったんでしょうね。明治から大正時代初年にかけて、東京美術学校出の画家たちが洋画の基礎を作り上げて、それが大正モダニズムの時代に入って緩んでくる。そこにダダやシュルレアリスム運動が入ってきて、いっきに美術の敷居が拡がった。池袋モンパルナスの画家たちを見ても、それほどかっちり美術学校でアカデミックな勉強をしてる方はいらっしゃいませんよね。長谷川利行なんて、ほとんど何も勉強した形跡がない。
寺田 してないね。明治の浅井忠から岸田劉生なんかの時代に洋画というか、油絵がようやく定着して、それが大正末年から昭和初期になって、初めて、文学でいうと、口語体になったのかもね。洋画の口語体がシュルレアリスムかもしれない。文学は文語体から原文一致体へと変化していくわけだけど、洋画も口語体になって、こんなのもアリだよって形がシュルレアリスムで示されて、その自由さに若者たちが飛びついたんじゃないのかな。
───萩原朔太郎の処女詩集『青猫』が大正十三年(一九二四年)刊で、あれも大正デモクラシーの産物ですね。
寺田 それと大正十二年(一九二三年)の関東大震災ね。あれがいろんなことの転機というか、起点になっていく。
───今、東日本大震災が起こって、それが大きな節目になっていくんでしょうね。
寺田 そう。一つの大きな節目にはなるでしょうね。否が応でもならざるを得ないだろうな。ちょっと話は違うけど、戦前は、戦争がないと新聞は売れなかったんだからね。戦争が起きるたびに喜んでいたのは新聞社なんだ。ラジオもない時代には、新聞が唯一の情報源だったですから。新聞業界には戦争待望論のようなものがあって、戦争が起こるたびに部数を獲得していったって面があるんです。
───寺田さんは、お父様が生誕百年ということで、当時のことをいろいろ調べていらっしゃいます。それはやはり、当時の時代状況が、美術とは切っても切り離せないというお考えからですか。
寺田 それは自分がどういう時代に生まれて、どういう時代を生きてきたのかっていう、自分史の確認だよね。美術とは関係ないですね。でも自分が生まれた昭和十七年(一九四二年)から始めてもダメだってことがわかった。歴史はつながってるからね。だから親父の生誕百年に合わせて、百年前のことから調べ始めると、いろんなことがわかりやすいんですよ。で、百年の歴史を調べていて、つい先日結論が出た。
───ちょっと早すぎやしませんか(笑)。
寺田 いや、もうわかっちゃった。つまりね、人は進歩しないんだってことがわかった(笑)。人は、ホモサピエンスは進歩しない(笑)。いや、探査機はやぶさは宇宙から帰ってきて、それは科学の進歩だけど、人間は根本的に何も変わってない。僕の推論では、神様が人間を造ったときに、ああこれは失敗だなぁって思ったんだろうね(笑)。で、神様はこれじゃまずいと思って、人間に芸術とスポーツをお与えになった。つまり芸術とスポーツは、神様の人間に対する贖罪であるというのが、僕の結論です(笑)。
───寺田さんにとっては当たり前だったと思いますが、お父さんが画家だというご家庭は少ないと思うのですが、どういう生活でしたか?。
寺田 毎日画室にこもって飯食いに出てくるような生活でね。だから家にいつも親父がいるってのは、とっても嫌だったね。夕方になると酒飲みにどっかに出かけていって、夜中に帰ってくるけど(笑)。
───やっぱり昼間、自然光で仕事されるのを好まれたんですか。
寺田 そうそう。仕事は昼間してた。
───ちょっと失礼な質問かもしれませんが、画家さんは、お亡くなりになると、作品はどうなるんですか?。画商が買っていくとか。
寺田 いや、そんなことはないです。兄弟でまだ、親父の作品をいくらかは持っています。その中のいくつかは、将来、美術館に入れてもらおうかとは思っていますけどね。ただ親父の場合は、代表作なんかは、もうすでに多くの美術館に入ってしまっています。
───政明さんは、一九七〇年代の後半くらいから、小樽の風景画をたくさん描いていらっしゃいますよね。あれはどういう理由からですか。
寺田 後半は小樽ばっかりだったね。父親の絵のテーマってのは、ニンニクだったり、フクロウやカラス、ネズミだったりで。なぜかと言うと、親父が自分で文章で書いているんだけど、弱者に対するものすごい視線ってものがあるんだね。それは自分が足を怪我して一生不自由だったから。そういう弱者をどうしても描きたくなる。その延長で、廃船、死滅していくものも好きだったんです。小樽は今では整備されてきれいな港になってますが、親父が通っていた頃はさびれててね。それで小樽ばっかり描いていた。
寺田政明『雪の小樽 運河沿い』 昭和六十三年(一九八八年)
───新潟の港も描いておられますよね。
寺田 いろんなところに行ってますよ。絵描きでも作家でもそうだろうけど、長いこと仕事をしてると、描くことがなくなっちゃうんだな。新しい刺激を求めて取材旅行に行ってたってことはあると思います。
───政明さんの一九七〇年代から晩年の風景画はいいですね。個人的には戦前のシュルレアリスムの絵よりも好きです。
寺田 父親はシュルから具象に変わっていくからね。
───洲之内徹さんが、政明さんが戦後しばらくして発表された、確かリンゴの静物画をほめておられましたが、政明さんがシュルレアリスムから具象に転換された頃の絵には迫力がある。
寺田 あれは洲之内徹コレクションの一つで、今は宮城県立美術館に収蔵されてるんじゃないかな。小熊秀雄がずいぶん絵画批評をやっててね、美術文化協会時代の靉光や親父の絵をずっと批評している。その中で、「これはこれでいいけど、こればかりじゃダメだ」って意味のことを書いている。
───政明さんの制作方法っていうのはどういう感じでしたか。
寺田 油絵ってのは、一点だけ集中して制作するってことがないんだ。三点、四点同時に仕事を進めていく。乾かないと絵の具を乗せられないから。完成すると庭に出して、できたぞって、家族で展覧会というか、批評会を開くんです。で、みんな好き勝手なことを言うんだ。子供だからさ(笑)。でも親父はにこにこしながら、「ああ、そう」なんて言ってる。絵なんてどう解釈してもいいんですよ。親父は九州の出だから、性格が明るいよね。声はでかいし(笑)。
───小熊さんは、前向きですが、内に悪魔が潜んでいるような感じですね。突然、かなり派手な立ち回りをされたりする。そういうところは政明さんにはないですね。
寺田 ないない。
───だから政明さんと小熊さんは仲良くしてられたんですね。
寺田 それに年齢が、ほぼ一回り違うから。
───二〇一二年は、池袋モンパルナスを代表する画家の一人、松本竣介も生誕百年だと思いますが。両耳が聞こえなくて、昭和二十三年(一九四八年)に三十六歳で夭折した画家です。
寺田 うん、四月に岩手県立美術館で、生誕百年記念の松本竣介展が開かれます。竣介さんの息子の莞さんが建築家でね、彼と二人で、建築家と役者って取り合わせで対談することになっています。四月の十四日です。で、今、岩手県立美術館の館長って、洲之内徹さんの息子さんなんです。原田光さんっていうんだけどね。原田さんっていうのも、いかにも洲之内さんの息子って感じの方でね。目利きです。平塚美術館で長谷川?二郎展が開催された時の特別講演が原田さんで、「長谷川さんの絵はいいものはいいけど、つまらんものも描いてるなぁ」ってお話しされて(笑)。そんなことをおっしゃる方です。
松本竣介『りんご』 昭和十九年(一九四四年)
───洲之内徹さんは、長谷川さんの代表作の猫の絵を、なかば強引に持って行っちゃったでしょう。「猫が同じ姿勢で寝てくれないから、まだ片っ方の髭を描いてない。だから未完成だ」って長谷川さんが言ってた絵を。でもあれは、ほっといたら完成しないというか、画家は手放しませんよ。洲之内さんはさすがに画家という人種をよく知っている。
寺田 洲之内さんは文章がいいからね。よく言われることだけど、洲之内さんは芥川賞なんて取らなくてよかった、希代の目利きを失うことになるからね。芥川賞作家は山ほどいるけど、希代の目利きっていないから。洲之内さんが芥川賞を受賞しなかったことに感謝って書いておられる方もいる。
───洲之内さんは、戦後屈指の目利きの一人でしょうね。
寺田 洲之内さんの美術の基準ってわかりやすいじゃないですか。もしどういう絵をいい絵っていうんですかって聞かれたら、買えなけりゃ、盗んでも自分の絵にしたい絵がいい絵だって。それと、思わず頭を垂れたくなるような絵はやっぱりいいんだと。だから、さっきも言ったように、見る人の目が作品をアートにするんですよ。作った人がアートだって主張しても、自動的にアートになるわけじゃないよね。
(2011/12/16)
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