『なんたって18歳!』
・放送期間 昭和46年(1971年)10月5日~昭和47年(1972年)9月26日
・時間 毎週火曜日19:00~19:30PM
・系列 TBS系
・放送回数 全52話
優れた映画というのはそれをもう一度見たいと思わせてくれるものであって、見るたびに新たな魅力が生起するような映画こそ真の傑作と呼ぶに相応しい。しかし、テレビ映画というのはどうもそうではないのではないか。優れた回があれば、それ自体をもう一度見たいと思うのではなく、次週に放送される同じフォーマットによる違うエピソードを見たいと思わせるものこそ、テレビ映画というものの基本的な魅力ではないだろうか。これは作品を日々「消費」することを意味する。しかし、テレビ映画を映画としてではなく「テレビ映画」として評価したいのならば、この消費という行為を恐れてはならないし、消費の意義を考察しない限り、テレビ映画を批評的に論じることはできない。繰り返しの鑑賞を前提とした作品の精読は批評の根幹を成す重要な方法論であるが、テレビ映画の場合、その方法が必ずしもうまくいくとは限らない。なぜならそれはテレビに備わる消費という機能を無視することになるからだ。果たして、対象となるテクストを精読することなしに、繰り返し鑑賞することなしに、批評的な分析をするなどということは可能なのだろうか。
なにやら大げさな言い回しになったが、『なんたって18歳!』を見ながら考えていたのはそんなことだった。個々のエピソードはどれも面白い。しかし、それぞれの回をもう一度見て、その面白さを緻密な画面分析や物語解釈で明らかにしたいのかというと、そんな風には全く思わない。早く次の回が見たいだけなのだ。そして、全52話を見終わって確信したのが、これこそが消費されることの意義を最も説得力をもって明証してくれるテレビ映画の傑作であるということであった。
それにしても『なんたって18歳!』をテレビ映画の傑作であるなどと言えば、多くの人が首を傾げたり、そもそもラブコメドラマの名作『おくさまは18歳』(TBS、1970-71)の間違いではないかと思われるかもしれないが、そうではない。夫役の石立鉄男とともにまだ初々しかった『おくさまは18歳』の岡崎友紀は、実はまだ「岡崎友紀」ではなかった。コメディエンヌとしての彼女の才能は『なんたって18歳!』で全面的に開花し、完成され、おそらくは後続する『ママはライバル』、『ラブラブライバル』といった番組において緩やかに下降していくのである。
そう、間違いなく『なんたって18歳!』の最大の魅力は主役の岡崎友紀である。当時、アイドルの代名詞でもあった岡崎友紀は、テレビのスターであったがゆえに、現在ではその活躍が不当に忘却されているように思われるが、テレビ映画の歴史においては、「赤い」シリーズの山口百恵以前で最も重要な人物の一人だったと言ってよいだろう。そして、松坂慶子をはじめとした会社の寮で生活をともにするバスガイド仲間、運転手の平泉征、主任の春川ますみ、そして「三ヶ月先輩」の十勝花子など、脇を固める俳優陣も皆驚くほど生き生きとした演技をみせており、それが実に心地よい。
ケイエム自動車の社長(田崎潤)の娘役である岡崎友紀は、浜田光夫との婚約を母(加藤治子)から無理強いされるのに嫌気がさし、あたかも『おくさまは18歳』で描かれていた結婚生活や家による束縛から逃れるかのように、自由を求めて家出を決行し、父の会社にバスガイドとして忍び込む。周りから「最低最悪」のバスガイドと罵られながらも、お金持ちのお嬢様が身分を隠して俗世の仕事を存分に楽しむという、なんだかよくありがちな設定といえばそうなのだが、そういった設定は実のところそれほど重要でもない。たしかに、秘密がばれないようにと誤魔化しあたふたする岡崎友紀と田崎潤のふるまいはとても可笑しいのだが、そういった設定を無効にするほど過剰化していく演技者の常軌を逸した行為が抱腹絶倒ものなのである。したがってこのテレビ映画は、一応は一話完結ものとして製作されておりながらも、厳密にはそうとも言えないのである。そこには過剰さを徐々に増して変容していく番組全体のうねりがあり、その過剰さの積み重ねが生み出す各回の厚みが、他の一話完結ドラマとは少し違う独特の雰囲気を醸し出している。このテレビ映画が本当に恐るべき傑作だという思いを抱かせる所以は、俳優たちの生き生きとした演技だけでなく、その作品自体が自らの型をまるで生きているかのように自己変容させていく様子を、そしてその過剰さがある地点で飽和し、番組終了が近づくにつれて緩やかに収束していく様子を、一つのドキュメンタリーのように生々しく画面に刻み込んでいることにある。
第11話「なんたって火の用心」は、そういった過剰さの厚みを感じさせる最初の回であった。防災訓練の一環として消防隊への参加を命じられたバスガイド達のドタバタがいつものように描かれるのだが、仕返しのつもりか、最後は包帯で体中をぐるぐる巻きにされたミイラのような十勝花子や所長(藤村有弘)を担荷に乗せて大はしゃぎするバスガイド達。この時、岡崎はカメラに向かって「ちょっとやりすぎたかしら?」とおどけてみせるが、そんな反省は一時のものにすぎず、以後その過剰さは徐々に蓄積されていく。第23話「パリ・ハワイ・ニッポン」で片言の日本語を喋るハワイ人役の尾藤イサオなどを見ていても思うのは、このテレビ映画はその圧倒的強度のギャグによって、もはや視聴者にツッコむ余地を与えないということだ。冷静にツッコむことの野暮さにすぐさま気づいてしまうほど、登場人物のボケは過剰であからさまなのである。我々はそれを呆然と見つめて拒絶するか、さもなくば素直に受け入れて純粋に爆笑する他ない。
そして、『なんたって18歳!』はどこかでたがが外れたのだ。はじめの頃からカメラに向かって直接話しかけるといった物語の古典的ルールからの逸脱は頻繁にあったが、第30話以降くらいだろうか、岡崎友紀が演じる「青山はるか」は自らが現実世界の人気者「岡崎友紀」であることを積極的にばらしだし、婚約者の浜田光夫に追いかけられる設定の脚本に文句を言い(そのせいで彼女は終始走り回らなければならない)、独身だと言う岡田眞澄に対して「つい最近結婚したくせに」などと実際の時事ネタ(1972年に藤田みどりと結婚)に言及したりする。
そして、第42話ではついにスタッフの登場である。十勝花子が後輩のバスガイドをしごいていると、突如画面に男性スタッフが現れる。「高木さん、どうしてここにいるの?」と話しかけながら、逃げるスタッフを追いかける十勝をそのまま追うようにしてカメラは180度回転し、裏にいた大勢のスタッフを映し出す。そして、さらに回転してカメラが元の位置に戻ると、後輩のバスガイドが平然と演技を進行している。「どうなってるの??」とおどけて見せる十勝花子。
そこで映し出されているのは、まさに当時流行していた「脱ドラマ」を彷彿とさせる画面であるかもしれない。しかし、だからといって『なんたって18歳!』全体を脱ドラマなどと形容するならばそれはとんでもない間違いだし、そういった評価は作品の価値を大きく損なわせてしまうことになる。むしろ、単なるお遊びが回を重ねるごとにどんどんエスカレートしていき、最終的には前衛的ドラマと見分けがつかないほどの領域にまで到達してしまう、その変容のプロセスを追跡できることがこの作品が持つ最大の面白さなのである。だからこのテレビ映画はぜひとも全52話を順番に見ていくことをお薦めしたい。作り手の誰もが特別意識することのない、ゆえに止めることのできないこの強迫的な漸進的変容は、番組そのものがまるで自己意識を持った有機体であるかのような奇妙な感覚の発生をわれわれの内に誘発する。
おそらく、こういった変化を加速させた決定的要因の一つは、うつみ宮土理の登場である(第37話~)。平泉征に「まんがねえちゃん」と揶揄されるうつみのキャラクターの破天荒さは、あの十勝花子をも普通の人物にみせるほどに強烈で、他の追随を許さない完全独走状態であるが、うつみのハイテンションに負けじと応酬する岡崎友紀の闘いが、画面全体に巨大なエネルギーを充満させている。しかし、そもそもこのうつみ宮土理自体がこの作品が過剰さを増していったがゆえの結果なのであり、彼女の登場は番組の論理が要請した必然的な事態だと言ってよい。
複数の執筆者が交代で脚本を担当しているため、実はきちんと見ると辻褄があっていなかったりするような箇所もあったように思うのだが、そんな物語上の設定ミスなどは極めて些細なことである。『なんたって18歳!』というこの明朗闊達・抱腹絶倒の作品は、52話全体で繰り広げられる過剰さの積み重ねによる変容過程を見据えることで、ますます不気味な輝きを増して視聴者に迫ってくるテレビ映画の金字塔である。
木原圭翔
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■