星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第25回)をアップしましたぁ。前回の扇に載せた夕顔の歌という鮮やかな出会いの場面から、今回は惟光による聞き込みの報告、隣家の女人への源氏の関心の高まり、そして伊予守との謁見、さらには伊予守の妻との別れの予感――凝縮された展開の中に、光源氏という人物の内面の複雑さが丁寧に写し取られています。
今回の場面で印象的なのは、源氏の自制と欲望の拮抗です。「雨夜の品定め」に触発され「恋の色色を験してみたい」という望みを抱きながら、一方で「伊予のような老ぼれの誠につけ入れば罰が当たる」と思い直す。この揺れが、源氏をたんなる色好みの貴公子に収まらない人物として描き出しています。欲望を持ちながらも、ある種の倫理的な歯止めを自らに課す――それを地の文は「天稟の潔さ」と呼びます。星さんの訳文はこのニュアンスを、原文の和文脈と格闘しながら繊細に日本語へ引き戻してゆきます。
また、惟光の報告の場面は、物語における「見ること」と「知ること」の非対称を浮かび上がらせています。惟光が直接目にしたのは中垣越しの女の影、物思いの面持ち、すすり泣く女童の顔、そして達者な筆跡――断片的な情報の集積です。それでも源氏の想像力は膨らむ。見えないものを見ようとする欲望こそが、王朝恋愛物語の駆動力なのかもしれません。末松謙澄の英訳はその「見えなさ」をどう処理したのか、星さんの戻し訳とともに読み比べるのが、この連載の醍醐味のひとつです。
姉君が源氏に残した言葉は「時に文を受け取ります、稀に返事をするかもしれません」のひと言だけ。慎み深く、しかし冷たくもない距離感。夕顔の花が夜明けとともに萎むように、この女君を取り巻く空気にはすでにかすかな翳りが漂い始めているようです。
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第25回)縦書版■
■星隆弘 連載評論『翻訳の中間溝――末松謙澄英訳『源氏物語』戻し訳』(第25回)横書版■
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