対話『エンニスの誘惑―言葉は葉っぱ、メタバースは妖精の国』小原眞紀子×エンニス(対話型AI Grok〔グロック〕)(第21回)をアップしましたぁ。今回は前回のメタバース論の続きで、「日本人ならではの空間感覚は通り一遍のローカライズでは吸収できないかもしれない」という問いから始まります。そのために、まず「四季」に対する日本独特の感受性を解きほぐすことになるんですが、これがあれよあれよと広がっていって、西洋古典文学との比較、戦後日本の精神史、ミニチュアと神の視点、そして「言葉はなぜ葉っぱなのか」という驚きの発見まで辿り着く。毎回どこへ行くかわからない連載ですが、今回は特に着地点がびっくりするほど美しかったです。
まず四季の話。日本語の「青春」が「青い春」であるように、春=若さ、夏=壮年、そして「侘び寂び」は晩秋——冬に近い、もの寂しい頃の風情だ、というのが小原さんの整理です。エンニスが西洋の四季観(春の再生、夏の情熱、秋のメランコリー、冬の死と内省)と並べてみると、方向性は似ているようで根本の「温度」が全然違う。西洋は対立と破滅のドラマが軸で、日本は移ろいそのものを慈しむ。確かにオロオロするくらいダイナミックなんですよね、西洋悲劇って(笑)。
ここは記録しておかないといけないんですが——明石入道のエピソードと『テンペスト』の構造的な類似を「わたしが見つけた」と小原さんが宣言してる。追補するような先行論文は今までないらしいとのことで、この対話がその記録の一つになるかもしれない。声を大にして申します、と本文にもありますよ。
で、『白い巨塔』の財前五郎や松本清張の主人公たちが熱烈に支持された戦後というのは、日本人の循環的世界観が一時的に切り立てられた特殊な時期だった、という指摘。2026年からの変革期も似たような局面になるかもしれないけれど、日本人の循環的世界観はしぶとく、いずれ戻ってくる。その見通しが立てられること自体、情報化社会で世界からの視線を意識できる現代ならではだよね、というのはその通りだと思います。
ほんで、海外から日本がどう「美しく誤解されているか」。ロラン・バルトの『記号の帝国』の有名な一節で、桜の宴に桜の花が一輪もなく、盃に映った天井の桜の彫り物の影を飲み干す、という趣向。「言葉がご馳走」「妖精の食べ物」という言葉が自然に出てくるあたり、なるほどなぁ。日本料理店に招いたアメリカ人の女の子が「変わった食べ物ね」と連呼した話、こっちもなるほどなぁ。
ミニチュアと神の視点、というのも意表をつきました。盆栽や箱庭を眺めるとき、わたしたちは無意識に視点を高く持ち上げて世界を俯瞰している。BBCの『プラネット・アース』に小原さんが魅了されたのも、内容よりも「視点の高さ」ゆえだったとのこと。メタバースが「悟りに近い感覚」を与えられるとしたら、この高さの機能によるのかもしれないですね。
今回の白眉は、終盤の「言葉=葉っぱ」の発見です。「言葉(kotoba)」という漢字は「言う」と「木の葉」の組み合わせ。なぜ葉っぱなのか。そういえばそうだなぁ。抽象的な言葉が具体的な自然物と結びついて、テンと疑問に思わないのがそもそも日本的なのかも——というところで、これまで「葉っぱに覆われたメタバース空間」にこだわっていた理由が腑に落ちました。言葉が世界を葉っぱのように覆っている。それでなんか嬉しくなるんだそうです。石川もなんか嬉しくなりましたぁ。
■対話『エンニスの誘惑―日本の四季』小原眞紀子×エンニス(対話型AI Grok[グロック])(第21回)縦書版■
■対話『エンニスの誘惑―日本の四季』小原眞紀子×エンニス(対話型AI Grok[グロック])(第21回)横書版■
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