
NHKの「朝ドラ」と「大河ドラマ」が筆者はけっこう好きで、ほぼ欠かさず観ています。理由は一つ。たいてい面白いからです。理屈抜きで面白い。しかも連ドラだから、つまらない回があってもやめられないんです。
「朝ドラ」は半年ごと、「大河ドラマ」は一年ごとに新しい物語に代わります。時代設定も主人公もすべて入れ替わります。これ、式年遷宮みたいにすごいシステムです。初めのうちはもの珍しさも手伝って観ますが、何となく居心地が悪い。けれど長くは続きません。すぐに馴染めるよう、あちらさんも手は打ってきます。その手に乗せられてもいいか、と思わせるところがさすがです。馴染むほどに止められなくなる。平日の朝8時と日曜の夜8時になると、忙しい手を止めてテレビの前に座り込むのが習慣になる。
ところがふしぎなことに、ついこの間までかぶりついて観ていて、終わってしばらくはロスが続いた前のドラマのことは、すっかり忘れてしまいます。そりゃ主人公と主題歌くらいはおぼえていますよ。だけど主人公のダンナ、あれはハテ誰が演じてたっけ? とかザラです。
おそらく、これらのドラマはわたしたちの「日常」に溶け込み、その一部と化すからでしょう。忘れるのは必然なんです。それは過ぎゆく日々の象徴であるとともに、日々そのものだからです。
第131回文學界新人賞を受賞された、村司侑さんの「ソリティアおじさん」を読んで思ったのは、「日常」のこのそのもの性です。主人公で物語の語り手・古井瀬瑠奈は、とある味噌の製造販売会社の社員で、もと同じ社員だった彼氏と同居中。彼氏は怠惰な日々を送りながらたまに職探し。ある日、長年勤めたベテランで彼氏の上司だった人が亡くなり、渋る彼氏に代わって通夜に参列する。その人は定年が近づくにつれ仕事をせずソリティアばかりやっていた、いわゆる窓際族だった。それが作品のタイトルの由来になっているのですけど、通夜で知り合ったその人の娘からの勧めがきっかけになって、気は優しいけど甲斐性のない彼氏と別れることにした、とまあありふれたお話です。
ありふれた「日常」のただ中にひそむ怖ろしさを描いたり、「日常」の中の非日常を描いたり、「日常」の脆さを描いたり。文学や映画ではよくあることですよね。けれど「日常」がどこにも傾斜することなく、「ありふれた」そのもの性をそのまま描く、もしくは描いたように思わせる。もっと言えば、それが読者・観客の「日常」にまで浸透する。これはとうてい容易なことではありません。この作品はそこまで狙っているように思えます。さあ、どうでしょう。
その魅力は、何と言っても語りの力にあります。
「きょう、ちょっとひらめいてん」まじめな顔で海史が言う。
「だし汁沸かして、人参やら、きのこやら煮て、酒粕入れてな、白味噌と麦味噌、半々溶いて入れたらうまいんちゃうかって」
へー発明やんな。
「名づけて粕汁」
なんか知っとるわそれ。
おこたに呼ばれて、ふたり斜めに座る。いただきますをして、おなかがあまり減っていないことに気がつく。お箸があまり動かないのがばれたらしく、秘密の話のように海史が教えてくれる。
「そんな時間かからんやろうし、いまは軽く食べといて、あとでまた食べたらええやん」
うん。
こういうところは気が利く。それが少し悔しい。煮物をちょっと食べてみるとかぼちゃの風味が生きておいしい。それが少し悔しい。
(村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」)
上手いですねえ。まず、日本語の日常会話の語り口は、関西弁でなくてはならないのではないかと思わせるほどに方言がよく効いている。その軽妙さは標準語の無機質さや硬質さ、重力からその場を解き放ちます。
次に語り手自身の台詞は極力「 」で括らず、地である一人称の語りとの境界をあえてぼやかすことで(「へー発明やんな」「なんか知っとるわそれ」「うん」)、独白なのか発声されているのか読者には判別がつかないことです。これはよく用いられる手法ではありますが、もしこれが、いま引用したように「 」で括られた彼女の台詞だったら、この場面ははるかに陳腐な会話表現にすぎなくなるでしょう。一人称の語りとは、言語のもつ本来的な世界表現のあり方なので、そこに取り込み切れないものが他者の声としての「 」です。その意味で、これはふさわしい手法なのです。
さらにいいと思うのは固有名詞の配置です。「人参」「きのこ」「酒粕」「白味噌と麦味噌」「かぼちゃ」……これらは二人の「日常」を描くのにとても重要です。これが散りばめられるからこそ「おこたに呼ばれて、ふたり斜めに座る」「それが少し悔しい」という台詞が生きてくる。作家を志望する若い人は、こういうところをぜひ学んでほしいと思います。
スマホにメッセージが入っている。
お通夜の件、努さんにもう言った?
努さん、にちょっといらっとする。転職先の某ホワイト企業では社員同士ファーストネームで呼びあう文化だったとかで、いつからか、かつての職場である三山味噌の社員まで下の名前で呼ぶようになったらしい。ここで働いていた頃はそんなことなかったくせに、しゃらくさい。
(同)
同じシートの反対側におじいちゃんとおばあちゃんが仲よく座っていて、その向かいでは、お勤め帰りでお疲れのおねえさんが眠り込んでいる。喪服でご一緒するのが少し申し訳ない。
(同)
こうしたことばの端々に、主人公の、ひいては作者の繊細さがあらわれています。
肝心の「ソリティアおじさん」のことが間接的に、噂話ていどにしか描かれないのも面白いですね。物語世界の中心であるべき部分をあえて秘匿する。見せないことによって成り立つ「日常」もある、ということでしょうか。作者の意識はこの作品世界のすみずみにまで行き届いています。そして、あらゆる場面をオブラートかクッションに包んだように柔らかく描き出すために、読者はこの作品世界に心地よく身を委ねることができるでしょう。
しかしですねえ……ケチをつけるつもりはありませんが、筆者はこの作品世界に浸り切っていたいとは思いません。浸り切れるのがすぐれた作品の指標では今日、もはやありませんけれど。何だかよく出来過ぎてるんです。精緻なジオラマを前にしたら「ああ、すごいね」って拍手したくなるけどそれで終わり、って気分なんです。それならば筆者は「朝ドラ」や「大河ドラマ」を日々ボケっと眺めている「日常」のほうを選びます。そんなの知ったことか、あなたのいうその「日常」ってのは、文学と何のかかわりがあるんだい? と言われるでしょうか。
そうじゃありません。
筆者はただ、文学も「朝ドラ」並みの戦略性をもって自らの「日常」を創り出して見せてはくれないか、と言いたいんです。その手に乗せられてもいいか、と思わせてほしいのです。それを拒むのが小説なんでしょうか。そんなことはないでしょう。ちなみにこれは、戦争や虐待が「日常」である人と毎日が日曜日、朝からボケーっとして「朝ドラ」を眺めては泣いたり笑ったりしている人の「日常」とは異なるという意味ではありません。後者の「日常」だって、地獄も極楽もやくたいのない日々も味わい尽くしたからこそ、頭を空っぽにして「朝ドラ」を眺められる、そんな人もいるでしょうから。そもそも「日常」とは何かという、根底的な世界のとらえ方を問題にしているので、その答えがこの小説なのか、と問われたら、筆者はイエスとは言えないだけです。
萩野篤人
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