
これまでこの時評で、「笑い」の話を何度かしてきました。
「笑い」はむずかしい、と。
どんな読者に、どんな笑いをどんな文脈でどう起こさせられるかは、一義的に決められないからです。狂言でも川柳でも落語でも漫才でも、観客や読者は端からそれを「さあ笑うぞ」と思ってそれらに接するわけです。つまり笑いの「型」があらかじめ決まっていて、演者と観客、作者と読者のあいだに阿吽の呼吸が成り立っている。その中でこそ芸が切磋琢磨されるので、これはこれでりっぱな伝統の営みです。
ところが今日の小説ときたらどうでしょう。そんな「型」なんて決まっていません。「パロディ」になると事情はさらに複雑です。「パロディ」もまた「笑い」の一つですが、茶化すべき対象は何でもござれですから、読者と共有できるような「土俵」なんぞたいていありません。「純文学」にそんなのあってたまるか、くらいのもので (笑)。自由がかえって不自由を招くという話ですね。読み手のほうも、作者がちょいと誘いをかければつい深読みしたくなるもので、そんな読者を欺いてほくそ笑むのも作者の手腕ですし悦楽でもありますが、ひとつ間違えれば作者はわざと「外し」ているつもりなのに、読者から言わせれば意味不明だったり、たんに「すべって」いるだけにしかみえなかったり。なかなかリスクが高いんです。
今回取り上げるのは、「新潮」2025年12月号に掲載された畠山丑雄さんの「叫び」です。この時評を毎月読んで下さっている奇特な、いやありがたい読者諸兄には、何だかハギノって奴、このごろ「新潮」ばかり取り上げてないか、いつもケチつけてるけど新人賞に落選した恨みでもあるのかと疑うわれかねませんが、この作品、ご存じのとおり先の第174回芥川賞受賞作です。先月、同時受賞した鳥山まことさんの「時の家」をこの時評で取り上げましたから(こちら掲載誌は「群像」です)から、畠山さんはパスというわけにはいかないでしょう。ちなみにワタクシ、短編小説は書いたことございませんので、応募しようがありません。
さて物語は、早野ひかるという37歳の地方公務員が主人公。付き合っていた彼女に逃げられクサっていたところへ、川のほとりで「先生」と主人公が呼ぶ奇妙な人物と知り合います。「先生」の影響で銅鐸作りを始めると、満州で罌粟の栽培に取り組んでいた青年が登場したり、天皇の話になったり新しい彼女ができたり万博でハプニングが起きたり……まるで闇鍋みたいな取り合わせで話はあれよという間に展開し、怒涛の幕引きを迎えるという、吉本新喜劇みたいなけったいな小説です。茨木が舞台なので、とうぜん会話は関西弁が飛び交いますが、方言が功を奏しているお手本なので、けったいなと評したのは半分ホメことばです。
書き出しはこんな感じです。最初の段落を全部引きましょう。
土地の名があって、それから人の名があった。己の名が意識にのぼるとして、帰属というより自縛に近いものだったろう。生涯ひとつところで過ごすのも、まだ珍しくなかった。今のように名を変えるのに煩雑な手続きは必要なかったが、どれほど選ぶ余地があったのかは疑わしい。旅に過ごすものも、つまるところからだ一つぶんの場は占めざるを得ない。どころか、時にはからだを失ったものすら場を占める。場に縛られる。ここに至って土地と人の境は消える。ただ立ち現れては、消え入って、忘れられる。無限の雑沓に還っていく。忘却を無数の足が踏み固めていく。やがて遠い雨のような足音も絶え、忘却は地層になる。
(畠山丑雄「叫び」)
どこかの土地の失われた記憶をつうじて、歴史という地層のなりたちを言おうとしてるのかな、めかしこんだ文章で読みにくいなと思いながら次の段落に入ると、
ふいに自分の名前の漢字が思い出せなくなる。
(同)
どうやら第二段落は主人公の独白らしいな、文章はやっぱりめかしこんでいるけど、おっちょこちょいでおトボケな人物らしいぞと思ってさらに次の段落へ。
「えっ米田さん大屋根リングで歌いはるの?」野々花係長が前のめりになって訊くと、
(同)
ここから関西弁の会話が開始され、ようやくいいテンポで進んでいきます。どうでもいいですけど、古都ひかるなんてよくご存じで。こういう固有名詞は大事ですよ。
はっきり言わせてもらいます。AIならぜったい書けないことをあえて書きますが、冒頭から二つの段落は、必要なのでしょうか。「えっ」というこの会話から書き出したほうがよくはないか。作者はもちろん必要だと思って書いたに決まってますし、ライトモチーフを提示しているとも言えますが、その後の展開に比べて、この段落は浮いています。オレにはこんな美文だって書けるんだぞ、これから書くお笑いだけじゃないんだぞ、という要らぬ矜持さえ、ともすれば読者には鼻につきかねない。この意味で不利だしそもそも無用です。このひとは話芸で読者を惹き付けられる力を持っているのですから。「地層」はこの後でおのずと描けているのです。「怒涛の幕引き」と感じたのもテンポのいい話芸によるところが大きいのです。だから漱石みたいな大家ならともかく、こんな勿体ぶった書き出しはやめたほうがいいと思うのは、このひとの作品ばかりではありません。
ついでに言うと、畠山さんの作品には過去の近現代の、とりわけ日本のさまざまな小説の影を感じますが、それには触れません。
先生について語るときひとが変わったようになる、とよく言われる。
(同)
という「先生」のキャラクターはユニークで、この物語の中心円であり自らトリックスターを演じる主人公が一方にあるとしたら、他方の中心円を構成していて物語の起爆剤となっているのが「先生」です。けれど、主人公がその「先生」の考えを熱っぽく語るこの場面は会話にしたほうがよかったと思います。国家論のようなものが語られているのですが、まったくつまらない主張だからです。続いて語られる天皇とか聖性についての話も、ほとんど意味はありません。もしこれが自己パロディなのだとしたら、登場人物の会話に入れないと効果はありませんから。
ただ、この主張に続く会話、
「ほな早野さんの先生は聖なん?」と皮肉まじりに訊かれても、
「わかりません」と真面目に答えることしかできない。
「聖でないものにはひとが聖かどうかはわからないんです」
主人公のこの答えだけは唯一感心しました。ついでばかりで恐縮ですが、つけ加えますと「聖」であるものには、じぶんが「聖」であることを証しすることだけは不可能です。このことは宗教の本質に、ひいては信仰の本質につながる重要なポイントです。
歴史の中に埋もれた人びとの「叫び」を描くなら、別のやり方もあったのではないでしょうか。別の時評で以前お話ししたおぼえがありますが、パロディが生きるには、それが対象とするものの本質を射抜いたうえで、それを宙に浮かせ、茶化すだけの知見と言語的才覚が必須です。真実は往々にしてパロディになる。裏返せばパロディの中にも一片の真実がある。これがパロディの特質です。言語的才覚はあるけれど知見はない、それゆえ前者も活きないのが作者の現在地です。ようするに国家や天皇のような読者の目を引く問題に触れておきながら、それをパロディにできるところまで達していない、パロディにするならもっと勉強なさいということです。ありていに言ってしまえば、この作品で理屈を述べるところはことごとくダメです。主人公も「先生」もせっかくユニークで魅力的なキャラなのに、パロディとして不満が残るのは、このためです。
手厳しいことを言ったのでここからはホメますが、銅鐸についての蘊蓄は意味がないだけに面白いし、メタファーとしての鐘のひびきは全編に浸みています。プラネタリウム前で中高生たちを前にした主人公の語り口調も引き込まれます。川又青年の満州でのエピソードと坑道――「坑道」、これもメタファーです。村上春樹なら「井戸」ってとこですよね。既視感がありますけど悪くはありません。新しくできた彼女である長田しおりとのエピソードもいい。こうしたエピソードの積み重ねは、積み重ねそのことに読み応えがあって、作者の力量がいかんなく発揮されていると思います。
とりわけ印象に残る場面を引きましょう。
早野は窓を開けた。吹き込んできた風を孕んでカーテンが膨らみ、壁に吊るしていた銅鐸が微かに揺れて、淡い響きを放った。早野は余韻に耳を遣りつつ、想像の中で、ベランダの柵を取っ払い、小さな罌粟畑を中空にどこまでも広げていく。蕾だった罌粟は次々と、歓喜の叫びのように花開いて地平線にまで達し、いちめんの銀世界のような、ひかり輝く白さが大地を覆った。大陸を渡る冷たい風が吹き、笑いが漏れたように花畑が揺れて鼻をつくような青臭い匂いが運ばれてくると、それらの丈高い罌粟に混じって、開襟シャツ姿のよく日に焼けた顔がこちらを見つめていることに気づいた。川又青年だった。
(同)
時と時とが出逢う交点を描いていて、本作のピークのひとつです。このような時と場所の交差点を描くのに長けているのが、作者の美質でしょう。
ラストシーンは笑えます。いいオチです。カタストロフ=カタルシスですね。笑いの本質の一端がそこに表現されています。ここまで来れば、読者にはもはや明らかでしょう。主人公の早野こそが作者の描きたかった新しい「聖」像だろう、と。
これも以前、時評の中で書いたことを最後に復唱して終わりましょう。
――笑いはどんな対象であろうと、それ自身であろうとさらなる笑いに変えてしまいます。タブーも閉域もなく、異なる垣根を次々と乗り越え、あるいは横切っていく。それは笑う側にとっても笑わせる側にとっても、人間という存在に与えられた特権的な恵みというほかありません。笑いとはその本性からして、世界に、自己と他者に相対する精神の、永遠の乗り越え形式であり、運動そのものなのです。
萩野篤人
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