
「群像」といえば、かつては新人評論家の登竜門だった「群像新人評論賞」をはじめ、文芸評論家を育てる気風のあった文芸誌でした。思いつくまま挙げても、秋山駿、柄谷行人、井口時男、清水良典、山城むつみ、大杉重男や鎌田哲哉といった錚々たる諸氏も同賞からデビューしています。ポストモダンの波が日本にも押し寄せていた一九八〇年代以降の一時期、時代をリードするほどの勢いをまだ若かった筆者も感じたものです。
残念ながら評論家、とりわけ「文芸」評論家を志そうという人はいつしか減り、同賞も当選作がなかなか出ないまま廃止になってしまいました。いまでも高橋源一郎さんや大澤真幸さんは連載を続けておられるけれども、新しい書き手がなかなか見出せない、ブレイクしないのには理由があると思っています。必ずしも世の中が「文芸」評論家を求めていないわけではなく、何といいますか、空いてしまってるんですよ。この領域はね。ジャンルの概念自体を横にずらさないといけないと思うんです。ちょっとずらすだけで違う景色が見えるはずです。でないと小説家だって不幸じゃないのか。
たとえばSNSを見ていても、とくに哲学をやっている若い人たちを中心に、ハッとするような洞察をほんの数行で語って、それに反応する人も数千ときには万を越えてバズることが日常茶飯事になっています。SNSでは舌足らずに思う人たちはnoteに自分の考えをまとめたり、出版物としてコミケで公開したりさまざまです。つまり言説の交通空間が変わっているのに文芸誌がついていっていないだけで、発表の場を求めているすぐれた潜在的な表現者はたくさんいるとだけ、申し上げておきたいと思います。
さて今回は、同誌が初出で、先の第174回芥川賞を受賞された鳥山まことさんの「時の家」を取り上げます。
鳥山さんのことは、建築士をされているお若い方という以外、何も知りません。選評も誰の評も読んでおりません。あえて予備知識ゼロで書かせていただきます。
作品は四百字詰で二百五十枚弱くらいでしょうか。中編小説ですね。
ひとことでいえば、これは「家」の小説です。しかも明治以来の日本の近代小説がつねにテーマにしてきた「家」ではありません。家族とその中で相克する個人ももちろん登場しますが、かれらは共演者であり主人公はあくまで「家」です。つまり作者が描いているのは制度としての「家」ではなく、ハウスとしての「家」そのもので、それが主人公です。「家」が登場人物たちを踊らせているのです。これはたいへんユニークな着想で、たぶんこれまで誰もこういう小説を描いたことはなかったのではないでしょうか。じっさい読んでいくと、語りは三人称形式ではあるんですが、じつは「家」が一人称で語っているのではないかと思わせる場面がしばしばあるからです。
塀の外にはひとりの青年が立っていた。しばらくの間、そこに立ったままこちらをじっと見つめていた。
青年は周囲をチラチラと見回し始めた。立つ位置を何度か変え、その度にこちらを覗くのを繰り返した。
背の高い雑草をかき分けて北側へと出ると、塀の前で振り返ってこちらを見た。青年の目に映る平家の建物、ついさっきまでその中に自分がいたということが、外に立った青年にはいつもうまく理解できなかった。単調にも映る寄棟の外観の形状の中に自分を柔らかに包み込んでいた漆喰壁や勾配天井の空間があり、そこには濃密な細部が溢れている。頭では理解していながら外に出るとたちまちそれが信じられなくなった。
隣地の桜の枝にとまったシジュウカラがこちらを覗き込んでいた。首の角度をコロコロと変えては枝の上を横に飛び、西面の汚れて曇ったガラスの小窓からしきりにこちらの様子を窺っている。
(いずれも鳥山まこと「時の家」)
引用した四つの文のそれぞれ下線を付した「こちら」には、誰もいません。正確には四つ目の文の「こちら」には、青年がいて小鳥もそれを警戒して見ていますが、「こちら」の出処は青年の視線ではありません。「こちら」の主体は、「家」以外の何ものでもないのです。三つ目の文では、視線の切り替わりが明確で、「塀の前で振り返ってこちらを見た」という文の次からは、カメラが切り替わるように青年の目線で描かれています。これ以降は、この家に魅せられて中に入り込んだ青年にとっては、そこにいたことが信じられないような豊かな経験だったと語られているのです。
ふと青年は動きを止めた。何かの気配を感じ取っていた。全身が硬直し、四つん這いのまま動かなくなった。顔の角度をゆっくりと変えながら五感のどれでもない感覚で気配を探る。周囲には青年を囲うように真っ暗な空間があった。
「誰かいるの?」
は響き、じっとした空気を震わせ、何本もの角材や木版に吸われて消えた。くるりと体の向きを反転させ暗闇を見つめた。そこには誰もいない。しかし青年は確かに何かの気配を感じ取っていた。
それは圭さんも、緑もまた、感じ取っていたものだった。
(同)
偶然見つけた天板を外すと、小さな屋根裏がありました。その中には「家」の心臓があったのです。おそらくはこれも、この「家」をいつくしむ者たちを偶然をよそおって「家」が招いているのでしょう。そう読ませるのです。
この「家」はじっさい生きモノのように描かれます。
冒頭から四つの段落を経て青年が登場するまでは、息の長い「家」の描写が続いていきます。作者が建築士だから書けるという文章ではありません。生きて呼吸し、体熱を持つ存在として作者が思いを注ぎ入れてはじめて書ける文章です。
温度は時間の情動であり、湿度は情緒である。互いに作用しながら揺らぎ押し寄せる。何度も何度も繰り返す。
(同)
情動と情緒の違いは何かという疑問はさておき、作者が「家」にひとかたならぬ思いを抱いていることはこの後、エンディングまでこれでもかと続く「家」の、それをいとおしむような描写によくあらわれています。
「家」は藪さんという人物がじぶんの家として設計し建てた四間四方の平屋でした。かれが病で亡くなってからは川岸緑という女性とマルタという一匹の犬が住み、数学の塾を開きます。マレーシアに赴任中だった夫が帰国し、彼女がいなくなってからは圭さんと脩さんという夫妻が住む。夫の転勤で二人が引っ越してからは空き家となり、解体の話が進行しています。そこへ子どものころここに出入りし、藪さんからスケッチを学んだ青年が、失われる前に「家」の姿を描いておきたいと中へ忍び込み、内部の姿や表情をひとつも洩らさないよう部屋ごとに丹念に描いていく。この「家」に刻まれた住人たちの記憶がそこで代わる代わる掘り起こされていくわけです。そこには震災の記憶もあれば塾の教え子との交流の記憶もある。親の離婚と夫婦の危機もある。藪さんと棟梁たちとの記憶も、青年との遠い思い出もある。記憶は「家」のすみずみにまで沁みついていて、自ずから語り出すのです。ダイニングの真ん中に立つ籐巻きの柱が、漆喰の壁とそれにつけられた傷が、洗面台のタイルが、収納の扉が、引き戸や引き出しの取手が、ナラのフローリングが、玄関の窓ガラスが。
「家っていうのは時の幹やから」
(同)
藪さんが青年に語ったとおりです。このことばは全編をつらぬく一本の太い柱です。
失われた記憶を編年体のように順繰りに叙述していくのではなく、「家」が自らに刻まれたそれぞれの痕跡ごとに持ち主の思い出をたどっていくように、記憶はさみだれ式に語られます。とうとう「家」は解体されますが、その様子を青年は黙ってじっと見つめます。おそらく青年は作者自身の投影で、「家」が消滅するまでの立会人であり、生き証人として「家」から選ばれたのでしょう。
このようにユニークな小説ですが、にもかかわらず、この無作為な過去と現在の交錯は、そもそも「時」とはなにかという人間にとって根源的な問いを先鋭化するよりも、むしろオブラートに柔らかく包んでいくように思えてならないのです。
これは以前、別の作品を論じたときにも申し上げたことですが、重複をおそれずに言いましょう。「時」がもたらすものはなにか。致命的なまでの喪失、そして出会いです。この物語はどうでしょうか。あの震災で誰よりも大切な友人や、実母を失った。病で最愛の奥さんを失った。両親が離別した。塾に通ってきた少年との出会いと別れ……なるほど、登場人物たちの誰もが何かを失っています。それは誰しもが経験することです。
ところが作者自身の意図はともあれ、この「家」の内部世界ではそれらの記憶が飛び交っては融解し、過去と現在は等価となって、その世界の住人たちは(各世代の住人どうしには、接触はありません)、というより読者は「時」を必要としなくなるようにみえるのです。もちろん、そんな世界にあえて浸りたいというひともいるでしょうし、それはそれでいいかもしれない。けれどそのいわば墓地の浄福はあるとき外部から、この「家」のように暴力的に壊滅させられることになる(逆に、そのようなメタファーとしてこの作品を読むこともできます)。
以前論じた作品もそうでしたが、作者はいくたびもくり返し過去へアクセスし、「時」の重層化をはかろうとしています。しかし「時」は惜しみなくすべてを奪い、平然と自らの裡に呑み込んでいく底の抜けた他者です。誰にも止めることのできない「時」のこの力を見つめながら、それでもなお、つねに「いま」を問い、生き続けるしかないこの生という最大のジレンマ、すなわち「いま」という「存在の差分」を描くこと。
それをリアリティをもって描けるのが、小説というジャンルの特権です。長いからというのが単純な理由ですが、次のような文章はどうでしょう。
その晩のおかあさんの話はなんだったでしょうか。ノンちゃんはおぼえていません。とにかく、ノンちゃんは、お話なんかうわのそらで、夢中で「昔」のことを考えていました。「昔」がノンちゃんをしめつけました。「昔」でなく、「いま」自分はこうして、おかあさんのお話を聞いている……なんというふしぎなことだろう。おじいちゃんのおとうさんにも、やはりその人のおかあさんから、このようにしてお話を聞いた「いま」があったはずです。でも、それは「昔」になってしまいました。けれど、「いま」ノンちゃんは、こうしておかあさんといます。「いま」は! 「いま」は!
(石井桃子集1「ノンちゃん雲に乗る」岩波書店)
「時」というものの本質が、その特異性がたった数行で、みごとに語られていることがおわかりになるでしょうか。
石井桃子という童話作家がそれに成功したのは、埋めることも融解することもできないこの不可解な「存在の差分」を身をもって経験し、生きていたからにほかなりません。
萩野篤人
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