大篠夏彦さんの文芸誌時評『文芸5誌』『No.105 文學界 2016年10月号』をアップしましたぁ。岸川真さんの「坂に馬」を取り上げておられます。大篠さんは『中上健次を彷彿とさせるような小説である。物語の力とは、まずは小説を読ませる力、次のページをめくらせる力くらいの意味である』と批評しておられます。まず読まれなければ何も始まりませんよね。時代の変化を考えれば本を読む人が少なくなったのは当たり前のことです。それを前提として、作家の側も読ませる仕掛けや努力が必要になったということです。

 

 誰かはっきり言った方がいいと思うが、創作批評は本当にレベルが低い。最初のうちは面白かったが、もう手の内が透けて見える。小学生の借り物競走じゃあるまいし、オリジナル・コンテキストを無視して思い付きで海外思想をランダムに繋ぎ合わせ、何か言ったつもりになってもムダだ。ポスト・モダニズム時代の初期には何か新鮮な思想を生み出すのではないかと期待されたが、そんな期待はとうの昔に吹き飛んでいる。日本文学には固有の文脈がある。自分で考え抜いた主軸思想を持った上でサブ的に海外思想を援用しなければ、うまく機能しないのは当たり前である。

(大篠夏彦)

 

大篠さん、創作批評を批判しておられます。創作批評とは『批評家が小説をダシにしながら自己の考えを語っている』創作化した批評のことです。大篠さんは『たいていの小説よりも創作批評の方が〝お利口〟に見える。ただそれは幻想だ』と書いておられます。

 

石川も基本的に大篠さんに賛成です。ちょいと前まで一番批評のレベルが低かったのは「現代詩手帖」などに掲載される詩論で、論旨すら通っていなかった。詩人さんたちは、詩的であることを論理を無視して好き勝手に書いていいことだと勘違いしてるみたいですね。でも「現代詩手帖」的評論を読んで、詩を書き始める人はほぼいないと思います。またこの詩的批評は文芸評論にも拡がっている。タームとジャーゴンで煙に巻いていますが、たいていは論旨が通っていない。〝ではないか〟とか〝だろう〟といった曖昧な推測で終わる批評、誰が読みますか。

 

評論というものは基本的に、勉強のために読むものです。読者は評論を読むことで、今までわからなかったことに解答を得る、あるいはその筋道をつかむことを期待している。だから評論家はキレモノでなければならない。この明快なキレモノ評論を書いた上で、プラスアルファがあれば批評家は尊敬されます。まず素裸になって、自分の考えだけで評論を書くことですな。そこからしか批評の復権は始まらないと思います。

 

 

大篠夏彦 文芸誌時評 『No.105 文學界 2016年10月号』 ■

 

 

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