「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

タンス・タンス・タンス

 

 

 

 世界中の叫び声が釣り竿に変わったことに最初に気づいたのは、1匹のブルドッグだった。

 それもただのブルドッグではなく、絵に描かれたブルドッグだ。とんかつにかけるために作られた「とんかつソース」という商品を飾る象徴としてソースボトルの正面に貼られるようになったのは大正時代からだという。そうやって大量に産み出されていったなかの1匹に、彼は混じっていた。

 また、たいていのブルドッグは身体の構造の問題(子犬の頭が母親の骨盤に引っかかってしまうのだ)で、帝王切開で産まれてくるが、彼は自分が自然分娩(しぜんぶんべん)で産まれてきたと信じていた。それを自負もしていた。

 そういう意味ではすこし奇妙なブルドッグだった。

 翻訳される前の文章。

 左利きの遊撃手。

 それらと比較しても見劣りしないくらいの「決して会うことのできない」象徴が、自然分娩で産まれてきたブルドッグだ。

 言うなれば、彼は左利きの遊撃手であると同時に、カリブ文学的な側面(翻訳に焦点を当てて描かれる文学作品が、カリブ文学からは多く出てきていた。パトリック・シャモワゾーしかり、グリッサンしかり)も持ち合わせているということだ。

 問題がひとつあった。

 彼は左利き用のミットを持っていなかった。

 

 

 2番目に異変に気付いたのはジョン・レノンだった。

 ジョンはそれを歌にすることにした。

 イマジン、という歌だ。

 問題があるとすれば、彼は音楽で世界を変えることができると信じていて(もちろん可能性の話をすれば、それはありえるのかもしれないし、少なくともそれに挑戦していない僕は彼を笑うことなんてできやしない)、そして誰かに何かを伝える手段として音楽は最適だった、少なくともジョンにとっては。

 直接的に歌詞にそれを込めるのはあまりクールじゃないという彼なりの美学があったかどうかはわからない。

 ここに歌の歌詞と、和訳したものを一応並べておく。

 

 Imagine there’s no Heaven

 (想像してごらん、天国なんてないってことを)

 It’s easy if you try

 (ほら、簡単だろ?)

 No Hell below us

 (地面の下には地獄なんてないし)

 Above us only sky

 (僕たちの上にあるのは空だけだ)

 Imagine all the people

 (想像してごらん、みんなが)

 Living for today…

 (今を生きているってことを…)

 

 残念ながら、ジョンが本当に書きたかったことはここには書かれてないだろう。なぜなら、ジョンがその「書きたいこと」を言葉にする時点で、ある種の翻訳がジョンの頭の中で為されてしまっているからだ。僕たちはジョンが翻訳した後の文章を見ているに過ぎない。

 だからこそ、翻訳される前の文章に僕たちは絶対に出会うことはできない。僕たちが見ているのはいつも、翻訳された後の文章でしかない。もしかしたら、彼は釣り竿的な何かを伝えたかったのかもしれない。

 ジョン・レノンを銃で撃ったマーク・チャップマンはサリンジャーを愛読していて、ジョンを撃ったその日も『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたことはあまりにも有名な話だ。

 チャップマンはジョンが異変に気付いていることを知っていたのだろうか。もしそうだとしたのならジョンは、その釣り竿でいったい何を釣り上げてしまったのだろうか。

 少なくともジョンにとっては。

 この言葉が気に入ってしまったのでもう1度書かせてほしい。

 少なくともジョンにとっては。

 もう1度だけ。

 少なくともジョンにとっては。

 何か大切なものを失ったような気がしないでもないけど、今はそんなことを嘆いている場合じゃない。左利き用のミットはまだ見つかっていない。

 

 

 サリンジャーの著作に『フラニーとゾーイー』という話がある。クライマックスでは「おばさん」というモチーフがある種のオブセッション(強迫観念)として書かれている。

 実はこの「おばさん」は、サリンジャーの影響を強く受けている日本のある作家も描いている。村上春樹の短編『貧乏な叔母さんの話』に登場する「おばさん」は、サリンジャーの描く「おばさん」像と酷似している。

 ここで両方の「おばさん」の特徴を書き出して、それぞれ比べてみることにする。何かを明白にするためには、今わかっていることを目の前に書き出してみるといいということを教えてくれたのは、昔僕を雇ってくれていた小さなIT企業の社長が教えてくれた教訓だ。社長は僕と同じ苗字で、僕のことを下の名前で読んでくれた。取引先の文房具店と打ち合わせしに外出するときは僕を助手席に乗せて、「寝ていいから」と言いつつ、日本橋のとある目的地にたどりつくまで永遠かと思われる時間、ありとあらゆる教訓を僕に話して聞かせてくれた。

 今にして思えば、あの人ももしかしたら何かしらの異変に気付いていたひとりなのかもしれない。叫ぶわけにはいかない、けれど黙ってそのままにしておくのも良いこととはいえない、そう判断して止まらない会話を続けてくれていたのかもしれない。

 「いいか」

 「はい」

 「迷ったときは、今わかっていることを書いてみろ。きっと何かが見えてくる」

 「はい」

 「忘れるなよ」

 「はい。あ、でも」

 「なんだ」

 「それでもし、何も見えてこなかったら」

 もし、何も見えてこなかったら。

 残念ながらその先は覚えていない。僕はいつだって肝心なことばかり忘れてしまう。だから何も見えてこなかったときの話はやめにしておこう。良い方向へ向かうことだけを期待するんだ。

 サリンジャーの書いた「おばさん」は、正確に言えば「ファットレディー(太ったおばさん)」という記載になっている。彼女は1日中ポーチに座って蝿を叩きながら、朝から晩まで「馬鹿でかい音」でラジオをつけっぱなしにしている。すさまじい暑さの中、彼女はたぶん癌(がん)を抱えている。

 村上春樹の書く「貧乏な叔母さん」のほうの「おばさん」は、どんな結婚式にも必ずひとりはいる、そういう存在らしい。彼女はほとんど誰にも紹介されず、誰にも話しかけられず、スピーチも求められない。氏は彼女のことを「程度の良い(でき)死体」とさえ書いていて、あるときそれは物語の主人公の背中にいつの間にか貼り付いている。その姿はある人から見れば、かつて自分が飼っていたけど癌で亡くなった秋田犬の姿にも見てとれる。

 

 

 だめだ。

 わからないことが多すぎる。

 

 

 ひとつ、思い出したことがある。

 春樹氏の書いた「貧乏な叔母さん」は、小川洋子と吉田篤弘が共同著作として出した『注文の多い注文書』という1冊の中に収録されている「貧乏な叔母さん」にも登場する。

 けど残念なことに、今その本は手元にはない。だからそこに出てくる「おばさん」がどのくらいサリンジャーと村上春樹の書く「おばさん」に近いかどうか、は比べることができない。

 そしてジョンの死後、いったい何人もの人々が異変に気付いているのはわからないけど、彼らも「気付いてしまった」人たちなのかもしれない。

 すべては少しずつ繋がり始めている。

 そんな気がする。

 

 

 仮説をひとつ、立ててみる。

 もしも、かのブルドッグがジョン・レノンとすでに出会っていたとしたら、どうだろうか。

 彼ら(便宜上、ここではそう書かせていただく)は川のほとりで魚の泳ぐ姿がわずかに水面に映るのをなんとなく眺めている。釣り竿は持たないし、叫ぶこともない。左利きのミットもそこにはない。

 雨は降っていないから、傘をさす必要はない。

 ジョンの唇が動いて、その後にブルドッグの顔の皺が寄る。彼らはたぶん、何かを話している。僕たちにその会話は聞き取ることができない。

 僕たちはどこにいるのだろうか。

 たぶん僕たちは神様でも天使でもないから、上空から見ているというわけではなさそうだ。でも確かに僕らは彼らが川のほとりで何か会話している様を思い浮かべることができる。

 たぶん、僕らはみんな癌を抱えているからだ。

 そう思うと、つじつまが合う気がする。

おわり

 

 

 

メッシが恋をした日

 

 

 

 メッシが恋をしていたかもしれない日、僕は退屈を持て余していた。

 5こ下の後輩から電話がきた。

 「先輩、いまヒマでしょ」

 「なんでそんなことがわかるんだ」

 「この時間にわたしからの電話に出るんです、ヒマに決まってます」

 時計は午後7時を指していた。

 僕はあまりにも退屈すぎることに嫌気がさして、ドラマ古畑任三郎のDVDボックスを借りて全話見直しているところだと素直に告白すると先輩としての威厳、もしくは沽券(こけん)にかかわるんじゃないかと思って、それを言うのをためらってしまった。

 「ほら、やっぱりヒマなんだ」

 「ちがう」

 じゃあ何をしてたんですか、と訊かれた。

 「なんていうか、いろいろ勉強してたんだよ」

 「いろいろ、ですか」

 「うん、例えば古畑任三郎(ふるはたにんさぶろう)の好物なんて知らないだろ」

 「ああ、あの昔のドラマの」

 古畑任三郎のことを「昔のドラマ」と呼ぶには僕は抵抗があったけれど、それについて議論するのはやめておくことにした。世の中には掘らないほうがいい穴だってある。すべての穴を掘る必要はない。

 「古畑任三郎はね、酢豚(すぶた)が好きなんだよ」

 「ほんとですか」

 「間違いない」

 「先輩」

 「なんだ」

 そこまで確信があるってことは、今ドラマを観てたってことでいいですよねと言われた。僕は昔から勘のするどい後輩が嫌いだ。

 「いいか、メッシだって恋をするんだ。僕がドラマを観たっていいじゃないか」

 「メッシだかメッシュだか知りませんけど、昔のドラマを観るくらいにヒマであれば、今すぐこっちに来てください」

 僕は彼女がサッカーをほとんど見ないことを思い出した。思い出しながら、なお電話口に向かって(わめ)くことにした。

 「僕の勉強を邪魔するつもりか。僕は行かない。やらなくちゃいけないことがあるんだ」

 いいですか、と後輩。

 「古畑任三郎が酢豚に関して明言したのは50回近いお話のなかでたった2回だけです。それだけで酢豚が好きと決めつけるのはいかがなものかとわたしは思います」

 あ。

 「先輩の勉強がどれほど無駄なものか、わかったのなら今すぐ来てください」

 電話が切れた。

 

 

 もちろんすべての穴を掘る必要はない。

 けれど、自分が掘った穴に関しては責任を持つべきなのかもしれない。

おわり

 

 

 

ピーターはもういない

 

 

 

 夢でキリンジのエイリアンズを歌う夢を見た。

 伴奏してくれる人の顔を見ることはできなかったけど、奇妙なくらい音楽に対して真摯な考えがある人らしく、歌い出しの音が低すぎるという理由で何度も練習させられる羽目になった。夢のなかでくらい好きに歌わせてほしい。

 曲の歌詞に「まるで僕らはエイリアンズ」という部分がある。

 なぜか僕は間違って「つきうるえうぶらわん」と覚えていた。

 いったい僕の何がそうさせたのだろうか。それをただの間違いだと思いたくはない。たぶん、僕のなかで何かが起きてエイリアンズは「つきうるえうぶらわん」になった。

 

 

 それは、peterをピーターかペーター、どちらで読むか迷うこととは違う気がする。もっと言うと、僕は「ペーラー」と呼ぶべきだと思っているけど、今はそんなことはどうでもいい。

 大切なのは、それを「ぺーラー」と呼んでしまった瞬間から、ピーターもペーターもどこかに消えてしまうかのような感覚に陥ってしまうところにある。

 

 

 もうひとつ。

 それまでクルウィシュビク(Kruijswijk)と呼ばれていたオランダ国籍の自転車選手が、2016年5月にクライスヴァイクと呼ばれるようになった。オランダ語の発音を再現すると「クライスヴァイク」の表記がより近いからという理由からだ。

 ときどき、考えることがある。

 クルウィシュビクはもうこの世からいなくなってしまったのだろうか。少なくとも今、レースを走っているのはクライスヴァイクだ。

 クルウィシュビクからクライスヴァイクに変換されたとき、何かが失われてしまった。それはたぶん、もうずっと取り戻せない何かだ。

 僕はそれを悲しみと呼びたくない。

 それはどちらかというと「翻訳の美しさ」と呼びたい。

 僕が知る数は少ないけれど、たぶん世の中には他にもクルウィシュビク的な人がいるはずだ。

 世界には多くのピーター、そしてペーターがいる。

 けど今走っているのはクライスヴァイクだ。

 それが悲しみであるはずがない。

 「つきうるえうぶらわん」と歌っていた僕も、どうかそこに加えていただくわけにはいかないだろうか。

 いかないだろうか。

おわり

 

(第29回 了)

 

 

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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月6日と24日に更新されます。

 

 

 

 

 

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