Interview:筒井康隆インタビュー(2/2)

筒井康隆:昭和9年(1934年)生まれ。同志社大学文学部で美学芸術学を専攻。展示装飾を専門とする会社を経てデザインスタジオを設立、昭和35年SF同人誌「NULL」(ヌル)を発刊。江戸川乱歩氏に認められる。代表作に「アフリカの爆弾」「時をかける少女」「家族八景」「大いなる助走」「虚航船団」「残像に口紅を」「文学部唯野教授」など。「筒井康隆全集」(第一期)24巻。創作を開始した当初より演劇から多大なる影響を受け、俳優としても活動。ホリプロ所属。平成5年、マスコミの用語自主規制に抗議して断筆宣言。平成8年、主要文芸出版社3社から自主規制の撤廃の覚書を勝ち取り執筆再開、さらに5社と覚書を締結する。泉鏡花文学賞、谷崎潤一郎文学賞、川端康成文学賞、日本SF大賞、紫綬褒章受章。

 

筒井康隆氏は日本におけるSFの大御所として知られている。しかしその手法はナンセンス、パロディ、メタフィクションと多岐にわたり、存在そのものが 〟 SFとは何か 〟 を逆照射し、定義する。ひとつだけ確かなことは、欧米において文明批判の方法論であったSFは日本でも 〟 筒井康隆 〟という存在を介し、あらゆる制度への批判精神そのものとして機能してきた、ということだ。社会における組織、また文学そのものが批判とおちょくり、パロディに晒され、様々な波紋を拡げてきた。筒井康隆とはそれを巻き起こし、そこに耐える 〟 存在 〟 として常に私たちの視界に立っていた。今回はエア・インタビューとして、筒井康隆氏の肉体存在をあえて封印し、宙を飛び交うテキストで、しかし変わらぬ存在感の波紋の強さを確認する試みである。

文学金魚編集部

 

 

■文学的知性について■

編集部  政治集団にかぎらず、あらゆる組織は教条主義的になる可能性を必然的にはらんでいますよね。筒井さんはそれにとても敏感で、組織の種類を問わず、徹底して茶化しておられる。それは一方で、人間の集団というものに何か別の可能性を見い出している、ということはないでしょうか。それが権威をまとったとき、もちろん冷やかしの対象になると同時に、言葉にならない力、どうしようもなく人間を支配したり迷わせたりする力にもなる。反発するけれど、無視もできない、というような。

 以下は、文学金魚の若い書き手から筒井さんにお尋ねしたいことだそうです。その組織が一種の権威をまとった教育機関である場合、そこから生まれる非生産性、本質的な矛盾点があるわけですが。

 「筒井さんの『文学部唯野教授』は、文学理論を物語化したという意味でデイヴィッド・ロッジの一連の作品に通じるところがあるように感じますが、文学理論のレクチャーとしてきわめてよく整理されたものだと思います。しかし実際の「文学部」では、文学作品の精読や解釈というものと、理論研究というものが縦割りになっており、実際に理論を援用しながら作品を分析するというような授業は少数派で、そのような授業ができる研究者も少ないと思います。筒井さんは大学での文学教育をどのようにお考えでしょうか。また、昨今の「文系不要論」と、それに対する「反知性主義への抵抗」という動きについて、何かお感じになるところはありますか。」

 

筒井  小生の「文学部唯野教授」を批判して、大学の教授たちが「あんな講義をするや
つはよくいるよ」などと言って笑っていましたので、小生安心していたのですが、そうでもないようですね。でも今は何かを専門にするよりも学際的な学問の方に日が当たっていますから、特に文学理論研究にこだわることもないでしょう。

 文学部不要論は困ったことですが、諸科学には文学的基礎も必要だし、あらゆる学際的研究には文学的知識が必要です。つまり文学の何たるかを知らなければ生産性がなく何ごとも始まらないんです。象牙の塔に引き籠っているつもりならともかく、何か新しいことをやろうとするなら、専門知識だけでは絶対に無理なので、そこには文学的知性がなくてはなりません。もし文学部がなくなったとしても、文学を学ぼうとする人、教えようとする人がいなくなるわけではありませんから、さほど心配しなくてもいいのではと思います。

 余談ですが、「小説を書くのに今までで一番役に立ったことは何ですか」という質問をよく受けます。その度に小生、「小学校で字を習ったこと」と答えています(笑)。

 

『文学部唯野教授』

筒井康隆著

定価:1,080円(税込)

発行:2000年1月 岩波書店刊

 

編集部  ご自身の肉体感覚に忠実に執筆を始められ、テクニックを磨かれて、また言語的な拡がりから筒井ワールドが形成されたわけですが、読者を惹きつけてきたものとして、女性の登場人物の存在もあるかと思います。

 最近、またもテレビドラマ化された『時をかける少女』の儚く香り高い抒情性は不滅のものですし、また私たちが学生の頃、七瀬は(特にSF好きなオタク少女たちの)憧れのヒロインでもありました。いずれの女性たちも特権的で内面的であり、笑いと残酷さをもって追い詰められる男の登場人物とは対極にあるようです。女性の登場人物に対する理想やお考え、また彼女たちを作り出すのには、どのようにしておられますか。

 

筒井  「時をかける少女」「火田七瀬」「パプリカ」など、理想的なヒロインは多く書いていますが、この人たちはそれぞれ違う発想から生まれていて、それはテーマが異なるからです。自然と性格も異なります。他にも理想的なヒロイン、魅力的なヒロインは長篇、短篇に限らず多く書いていますが、お忘れにならないで欲しいのは特に初期の息品によく出てきたどうしようもなく駄目な女性たちで、これは今でも副主人公としてしばしば登場しています。ツイッターなどで読みますと、主婦たちの意見として、「筒井康隆の小説は嫌いだ。中年女性や主婦などはことごとく悪く書かれているから」というものがあります。「くたばれPTA」の主婦たちがその代表なんでしょうね。

 いずれにせよ、理想的で魅力的なヒロインというのは、男性主人公たちが理想的なのと同じであり、どうしようもない女性たちというのも、男性の悪役と同じ割合で登場するのですから、特にそのようなヒロインを意識なさることはないと思います。現在爆発的に売れている「旅のラゴス」の人気も、多くはラゴスその人の人気なのですから。

 

『旅のラゴス』

筒井康隆著

定価:529円(税込)

発行:1994年3月 新潮社刊

 

 

前衛について

編集部  また、やはり若い書き手から質問です。「前衛について。一度確立された前衛は、そのときの方法論をアイデンティティとして執拗に繰り返すことでむしろ後衛的なものに堕するということが間々あるように思います。筒井先生は前衛でありつづけることについて、どのように考えられていますか?」。

 これに補足しますと、小説というジャンルについては本来的に後衛たらんとするところがあるのではないか。

 筒井さんの作品は、もちろん知的な批評精神に満ちたパロディ、SFとして読まれてきたわけですが、そういう書き方は他の人、とりわけ(書くことを失った)純文学作家の実験として取り入れられてきました。ただ、筒井作品のように多くの読者を獲得するに至っていません。

筒井作品が愛され、広く読まれてきた理由は、意外とその細やかな抒情性(言葉を変えれば後衛性かもしれませんが)にあるような気がします。あらゆるものを相対化し、登場人物をこれでもかと追いつめながら、筒井さんはすごくいい人なんじゃないでしょうか(笑)。

 

筒井  ありがとうございます。昔はともかくとして、今では自分でも驚くほどの善人ですよ(笑)。

 SFを書きはじめてすぐ、自然主義リアリズムで書いていてはどうにもならんと思いはじめました。星新一は「内容が自然主義ではないのだから、その上書き方まで前衛的になっては、読者には何がなんだかわかるまい」と言っていたのですが、ぼくは当時の最前衛の文学作品を読み、その手法をSFやエンタメに取り入れるということをやっていました。ぼく自身がよいと思った前衛作品の魅力を自分のSFで読者にもわかってもらいたかったからですが、この時ですでに最前衛ではなかったわけですね。

 でもやはり読者に理解されたい、読まれたいという思いがあり、最低限、理解可能なものにし、さらにどんな読者にでも最低限楽しんでもらえるエンタメ性を持たせました。純文学の雑誌に発表した作品にしても、いずれも基本的にはエンタメです。それがよく読まれてきた理由ではないかと思います。SFを馬鹿にしている純文学作家たちにしても、ほとんどは本物の前衛というのがよくわからなかったのではないかと思います。だからなんだか見せかけの前衛みたいになってしまう。前衛というのはまず、面白くなくてはならない。

 ロマンティシズム、センチメンタリズムはエンタメの基本形なのかもしれませんし、ブラックユーモアやスラップスティックだって、叙情性の裏返しとか照れ隠しといった側面があるんでしょうね。

 

『虚人たち』

筒井康隆著

定価:761円(税込)

発行:1998年2月 中央公論社刊

 

編集部  制度を退屈だと思って壊そうとするのですから、「前衛というのはまず、面白くなくてはならない」とは至言ですね。若い書き手の質問にあるように、それがまた制度化すると顰め面しくなります。

 前衛も後衛も、結局は人間のすることなので「ブラックユーモアやスラップスティックだって、叙情性の裏返しとか照れ隠し」というのはまさに「筒井康隆」さんそのものと感じます。私たちが若い頃から読んできた筒井作品の切迫感とは、すなわち筒井さんが登場人物を追い詰めながら、どこかヒヤヒヤしていたり、救いはなくていいのかと躊躇していたり、内心は同情していたりというところに由来するのではないでしょうか。推察すると、その柔弱さ(?)を振り払おうとする筆が、逆に鬼気迫る雰囲気を醸し出していた気がしますが。

 

『朝のガスパール』Kindl

筒井康隆著

定価:659円(税込)

発行:2013年7月 新潮社刊

 

 

■創作の原点について■

筒井  おやおや。今度は質問ではありませんね。まあ、勝手に喋りますが。

 ご存知でしょうけど、ぼくは昔、役者志望でした。とにかく喜劇を演じたかった。その夢が閉ざされて、しかたなく小説を書き始めたのですが、これがなかなかうまくいかない。そこで、自分を主人公にしてドタバタを演じさせたらいいと考えて、初期の作品でもおわかりの通り、「おれ」を主人公にしたスラップスティックSFを書き、人気を得たんです。一人称が合っていたんですね。リアリティもあったんでしょう。

 その後、SFというのは一人称では書けないアイディアもあるので、次第に他の文体も手がけるようになりましたが、これはやはり熟練したためでしょう。いろいろなものを書いているうちに、アイディア次第で文体を変えるべきだと思いはじめ、それがアイディアそのものにまで及びはじめたんです。ついには大江さんから、「筒井は作品ごとに文体を変えている」とまで言われるようになりましたよ(笑)。

 同じアイディアで書くことを避けはじめたのがいつ頃だったかわかりませんが、とにかく、ファンの連中がうるさい。同じギャグを使っただけでも「あれと同じギャグだ」ですからね。でもそれがぼくの、いわば誇りになりました。今までで似たようなアイディアで書いたのは、締切に迫られた時、「ビタミン」に似たような「ホルモン」というのを書いた。その時だけの筈です。

 

『筒井康隆 現代語裏辞典』

筒井康隆著

定価:1,210円(税込)

発行:2016年5月 文藝春秋社刊

 

編集部  合いの手のようになってしまい、申し訳ありません(笑)。ただお聞きしたいことの核心は、だんだん見えてきた気がします。

 文学金魚は各大学のスタッフや院生に協力をいただいていますが、特定の大学の等の雑誌ではなく、新しいかたちであっても出版社です。新人賞も備えており、おおざっぱなコンセプトとしてはジャンル横断的な創作の原理を探る原理主義者(笑)が集まっています。その私どもにとって、筒井さんの作品が特定のジャンルに囲い込まれずに広がりながら、何か強い中心を持っているように映ることが最大の魅力です。

 もしそのような中心があるとしたら、端的に言って、ご自身の創作の中心が何であるとお考えでしょうか。初源的な演劇的「肉体」に近いものとして、よいのでしょうか。

 

『偽文士日碌』Kindle

筒井康隆著

定価:454円(税込)

発行:2016年8月 角川書店刊

 

筒井  幼い頃から人を笑わせるのが大好きであり、ご近所の人を集めて何か面白いことをやろうとして何も出来なかった恥ずかしい思い出があります。その後学校では、面白いことを言って級友を笑わせることには成功したものの、わが人気を妬んだ優等生たちから「あいつは嘘つきだ」というひどい噂を流されました。そんな目に遭いながらもずっと、何か面白いことを、と考え続けていましたね。漫画を描いたのもそのひとつでしょう。その結果、何か人前でやろうとする時には技術に長けていなければならないこと、人を笑わせるとそれを嫌う人も必ずいること、などがわかってきたんです。

 演劇学校で演技の訓練を受けましたが、当時大阪から演技者として身を立てるのは困難でしたから、あきらめてしまいました。その後SFとめぐりあって小説を書き始めましたが、この時に演技の訓練を受けていたことはたいへん役に立ちました。

 創作の原点はやはり喜劇役者としての肉体性にあるでしょう。お話ししたような初期の頃のドタバタ・スラップスティックがそれですが、ずいぶん悪口を言われましたよ。「ここからは何も出てこない」「文学性ゼロ」とかね(笑)。それでもそれが自分にとっていちばん面白いんだから仕方がない。書き続けているうちに、「あれだけ言ったのにまだやってる」「どこかトロいのではないか」と馬鹿扱いされました。その後歳をとってきて、身体が思うように動かなくなり、ドタバタ・スラップスティックができなくなったので、しかたなくブラック・ユーモアや言語実験、メタフィクションなどを書きはじめたんですが、それ以来、突然文学賞をあちこちから貰うようになったんです。そうなってくると、そうなって初めて「やはり昔のドタバタの方がよい」などと言うやつも出てきてね。そんなら初めから褒めとけっていうんだ(笑)。

 

『七瀬ふたたび』

筒井康隆著

定価:594円(税込)

発行:1978年12月 新潮社刊

 

編集部  そもそも、その「文学性」とは何なのかを問うことが文学の営為だと思いますが。それで今のお話でも、すごく面白いことをおっしゃっています。「その後歳をとってきて、身体が思うように動かなくなり、ドタバタ・スラップスティックができなくなったので、しかたなくブラック・ユーモアや言語実験、メタフィクションなどを書きはじめた」というのは、よく考えると、いやよく考えなくても既成の文学概念を揺るがす言葉で、びっくりします。執筆する内容とそのときの肉体は密接に関係している、ということですか。

 

筒井 これは、重大な作家の秘密を明かしてしまいましたねえ。でもこれは他の多くの作家にも言えることではないかと思います。いきのいい現代小説を書いていた作家も、自分を主人公に投影していたか何かで、老年になるとだいたい宗教的になったり歴史小説を書き始めたりしてるじゃありませんか。これは私見ですが、やっぱり動き回って活躍することに疲れてくるんだと思います。宗教上の人物や歴史上の人物は少なくとも自分じゃありませんものね。

 まだ調べたことはありませんが、病弱な作家と健康的な作家とじゃ、やっぱり書くものは違ってくると思いますよ。試みに堀辰雄の病歴だの、健康な作家が病気になった時の作風の変化などを調べると面白いと思いますが、誰かやってみませんか。心を病んだ作家の場合もいろいろと参考になると思います。惚ける前後の武者小路実篤だの、気違いになる前後の誰それだの。あ。これは少し違うかな(笑)。

 

編集部  先生、調子が出てきましたね。これから先はキケンかもしれません。お約束の期限が迫ってきて残念ですが、続きは別の機会に、また面白いかたちでお願いいたします。本日はありがとうございました。

(2017/02/16)

 

 

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■ 筒井康隆さんの本 ■

 

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