yomyom が終わってしまう。「ありがとう!」という表記に、一瞬そう思った。実際には「次号から電子版に移行します。」ということだった。それでも終わってしまう、という感覚は拭えない。ありがとう、が気になるのだ。それは何に対するありがとうなのか。今までありがとう、ならばやはりいったん終了します、だろう。おかげさまで移行できます!というウキウキ感は特にない。

 

 ない、というのは今回の誌面からなので、始まったらどうなのかはわからない。ただ、鳴り物入りの変化よりは変わらなさをアピールしているようで、単にのっかるものが違うだけ、という雰囲気でいこうということだろうか。そうすると、ありがとう!はただの挨拶だ、ということになるか。

 

 この記事だってウェブで読まれるのに、人様の雑誌の何にそんなにこだわるかと言えば、あのパンダである。yomyom は小説新潮の別冊という位置づけだそうだが、新潮文庫の雑誌であるとも聞いている。文庫というのがそもそもハードカバーの単行本を携帯しやすくしたものだから、書物の形態の変化をさらに押し進めた、とも言えるのかもしれない。だとすると変化なしをアピールするのも妙だ。

 

 正面から考えれば、すなわち「新潮文庫の100選」の、そして yomyom のイメージキャラクターでもあるパンダとがっぷり四つだ。となると書物の形態への愛着を語らざるを得ない。なにしろパンダだ。読んだ?とパンダに迫られるとき、そこにはやはり重量感がつきまとう。

 

 そこんとこ、はっきりしてから移行してくれ、と言いたくはなるのだが、今は誰に対しても「はっきりしろ」とはなかなか要求しづらい状況であるのは確かだ。それに乗じて人をダマすような輩はおいといて、あの大新潮に書物への愛のかたちを定義せよ、というのすら厳しいかもしれない。大新潮、などという呼び名も新潮さんにはたぶん迷惑で、イヤミに響く可能性が高いと思う。

 

 なぜならその「大」はかつての文学への幻想を前提としたものだから、今となっては生き残れない代名詞のように映るからだ。新潮が成したものが「大」に値しない、と言っているのではない。新聞社系の出版社の後塵を拝しながら、よど号事件で週刊誌の立ち位置を定めた週刊新潮を中核とする新潮社は、資本規模としては中小。それに比して成し遂げた実績をして「大」新潮と呼ばれる。

 

 文学の世界で成し遂げたことだって、赤坂の文藝春秋ビルという盤石の経営基盤を持つ文學界によく対抗しようと、少なくとも努力を怠らなかったのは音羽や神保町の大出版社ではなかった。矢来町の漱石宅跡にある中小企業、新潮社は文学の世界においても「大」と呼ばれるに値する。

 

 しかしそれは戦後の状況が作り上げてきたものでもある。今、その文脈にとらわれることはすなわち滅びを意味する怖れが高い。その危機感あってのあれやこれやであるなら、そこを白日の下にさらすべきか。そうであればこそ、よど号事件のときの大逆転が再現されるかもしれない。「大新潮」の呼び名は、名誉と迷惑のダブルバインドで手足を縛っていることは想像に難くないが。

長岡しおり

 

 

 

 

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