ヨーロッパで異言語に囲まれて日本語で書くこと。次々と場所を移動しながら書き続けること。パッチワークのように世界はつながってゆく。モザイク模様になって新しい世界を見せてくれる。そこに新しい文学と新しい作家の居場所が見つかる。それは『ショッキングピンクの時代の痰壷』であるだろう・・・・。

第三回文学金魚奨励賞受賞作家・青山YURI子による14のfragments実験小説!。

by 青山YURI子

 

 

 

 

『大きな国の、あるクラス』

 

© Gerhart Richter

 

 姉と韓国製のラーメンを3つ、手に取り列に並ぶ。ガランとした、業務用スーパーのビニール製のグレイの床。斜めに走るカートの足の跡、音。大、中、小、中、大、太さの違うタイヤの跡が、リヒターの抽象絵画のように行き交っている。弱い線、強い線、雨の日の異なる靴型、カートの堂々と渡っていった線が薄く、細くなり、太くなる。傘や杖の黒ずんだ雨水を引きずった跡、所々溜まった汚水は乾き、エンドウ豆のように腹が連なってふっくらとしている。

 

           *

 

 大きな国の、大きな組織の中にいる。近くに大きな川がある。太くて長い橋がある。ちょうど建物−スーパーの出入り口、大きなガラス扉から出たあたり、軋むようなデザインの橋。欄干は細かい彫刻が施されており、焼けただれたように鉄の表面は繊細に揺らめき、東西南北に動きを軋ませている。上部には歴代の王冠が並ぶ様、少しずつ模様の異なる、小波を載せた楕円が一定の割合で配置されており、数えられるところまで数える。17つ。

 放課後渡ってみよう、と思う。学校とショッピングセンターが複合された施設の小さな窓から橋を眺める。教室の隣にZaraがあり、向かいのスペースには「極度乾燥しなさい」が売りのSuperdryというブランド。学校と商業施設の併合されている建物だ。大手予備校を思い出すような、地下に下りればコンビニがあって、フロア全体の壁は清潔感いっぱいの白と青色。入口に列ができている。おでんや、お菓子、カップラーメン、文房具。四方八方に、マイアミビーチのアートフェアにあるようなポップアートの絵画が並ぶ。そうか、そういう時代が来たのだな、と思った。コンビニにアート作品が置かれ、庶民が気軽に買っていく時代。

 

 遅れて教室に入っていく。覚えている限りの、日本の高校の教室の2倍ほど、覚えている限りの、日本の大学の講堂の、半分くらいの大きさのスペース。

 あと、2、3回しか今学期の授業は残されていない。…私はまだ化学1を知らないけれど、クラスでは化学2に取り組んでいる。化学3、化学4、化学5、6、7…。どこまで続いていくのだろうと考える。化学15、20。200までびっしりと4段の棚に、最下段の右端にまで、ちょうど収まるように順番に並ぶ。化学1~200までのシリーズのために作られた棚だろうか。一段目には当然のように、化学1が適度な厚みを持って、最重要の教科書であるように、自信を持って佇んでいる。続いて2~10までが均等に厚く、その後はグラデーションのように一冊ずつ徐々に薄くなっているようだ。200なんて、新聞に挟まっている冊子のように貧相な有様だった。

 本棚の上にある置時計を見つめる。というより、そこに刻まれている〝時〟を見つめ直す。置時計は、集中を促すほどに主張したものではなく、授業への集中を乱さぬために、そのCasioの銀色の塗料の塗られたプラスチック製のものが選ばれたのかもしれなかった。ミシンの針が長い布を縫っていくように、時間は進められていく。時間が進められていくのを視覚化しているこの作品に、わたしは賞賛の意を込めた視線を送っていた。

 時は今、14時10分を過ぎたところだった。後30分を、どのように過ごそう…。

 昼食後の静かなクラス。ペットボトルのお茶を取り出し、机の下で、2本の指を使って、一度ぐいっとゆるめた後に、親指の腹で、一眼レフの絞りを調節する時、ぜんまいのような形をして、カチカチと音を立てながら回転する黒い輪の部位をいじる時のように、滑らせて、摩擦の音をよく聞きながら、蓋を開けた。右腕を、エレベーターのように意図的にゆっくりと均等のスピードで上昇させて、唇にまで持っていく。

 蓋の開くとき、近くの庭で、新たに花のつぼみが開いたような気がした。口の部分を、下唇に当てた時、急にその花弁がまた元に、収縮してった感じがした。それとも…上から鋭い槍となり、音無く一本に、注がれる水。花弁の上からかけられる。水の重さで、花びらは垂れ、茎は根元で折れてしまった。誰かはペットボトルで水を遣ったことに、後悔をする。わざとではなかったのだ。

 

© Gerhart Richter

 

           **

 

 時間が進み、違う教室に移動する。ここでも、休み時間を取りすぎて、わたしは遅れて教室に入った。今度は建物の下の方。ちょっと薄暗い空間。触り心地抜群のフェルト地の厚いカーテンが掛り、外の光は隙間から漏れる光を除いて87%カットされている。反対側の2、3の窓には、このカーテンの代わりに、焼け焦げた銀色をした、少し汚れて、ところどころ折れ曲がった跡のあるブラインドが使われている。いつまでも不慣れなのは、この教室は、なぜか二階に観覧席もある、小さなオペラ劇場の作りになっていること。スクリーンが私の向かい側、楽譜の様に光の附箋がきれいに延びた、ブラインドを背景にかかっていて、舞台が見えにくい席の観客のために、側面に設置されたものだ。今、顔が大きく映し出され、オーケストラの演奏が流れる。

 舞台上の先生が発言する。「何か、発表できる作品はないの?」わたしに向けての言葉だった。声が、この〝教室〟では響く。どうやら、今日は講評の日で、他の生徒はとうに発表を終えたようだった。どんな作品が出たのだろうか。わたしは、遅くに授業に参加したことに、後悔を感じ始めた。今日は、朝から学校に居たのに。休み時間に図書館に入ったことが全ての元凶であったと思う。先生はわたしが席に着いた時、講評全体の印象について述べ始めていた。その印象は……と先生は話していた。何か、印象派絵画の印象でも述べるように。この先生はいつもアブストラクトな講評をする。受けた印象を、ひとつひとつ、受け取った順に言葉にしていく。前後の言葉は、まったく噛みあわないことも多かった。5つほど事を話し終え、それが6、7つほどまで来ると、だんだんと全体の印象が浮かび上がってくるような話し方。10の印象を言葉にし終えると、その日の生徒の発表課題の全体的な印象は、「象の足の皮のように、僕の言っているのは足の裏の皮のことだが、作品が独立し、このラクダが、その社会批判精神という荷物を乗せ無事に砂漠を横断しきるには、よく水を飲ませること。途中で世話をしてやる介護人が必要だ。その介護人の役割も、君たちが負うのだ。遠くまで歩いていくためには、その体重に、」との事だった。

 

 その後も続いて耳に入ってくる言葉は、教授の感覚の糸によってのみつなげられ、人はそれを全体で眺めることでしか理解出来ない。窓の雨粒でも眺めているようだ。なんとなく彼の話を聞いていると、急に、ぎろりとポールオースターの目が私の方へ向き直す。「そう、そういえば、君の作品について聞いている。」自分に確認するような言い方。まったく、非難めいたところがない。「君、何か発表できる作品はあるの?まだ発表していないのは君と、幽霊のように消えてしまった2人の仲間だけだ。」

 この人は確かグラナダ出身だ。コンペティションでキャリアを作り、35を超えてBFA、MFAを取得、今のポジションにいる。今のポジションは大学講師。いつも洗い古したフリースを着ている。その乾燥しきった砂漠のようなグレーのフリース。肌の上に直接着ていそう。最後まで開けた胸元のチャックの下には白い胸の毛が見えているから…。幾分か脂肪質だけど、肌の質はいいみたい。

 

           ***

 

 いつの間にか自分のラップトップの画面がスクリーン上に映し出されている。同級生の目の前に晒され、緊張しているように見える巨大なスクリーン。これでは今、私のしていることがばれてしまう。私の秘密の情報がびっしりと並ぶデスクトップ。それに、画面に映し出されたのは春の花見の後の、ブルーシートの上に散らかった食べ物、飲み物の残骸。いくらかこぼれたジュースの小さな水たまり。酒の臭いのする雑然としながら、人の居ない閑散としたデスクトップ。アイコンの合間に無数のフォルダー。画像のサムネイル、生のワード原稿のショートカット。いちごのショートケーキの様に、わたしにとっては、どれも誘惑の匂いを放つ。今すぐ手に取りたい、つまり、今すぐ開いていじりたい。指を白い中に突っ込んで、余計な蠅のような黒い文字を抜き取って、もう一度真っ白にして、はじめの一噛みをやり直したい。わたしの目は獲物を狙う目になって、すぐにでもこれらワード原稿を開いて飛びかかってゆきたくなる。クラスの生徒は、なぜわたしがこんな目の色をしてるのか、不思議に思う。

 とにかく手を付けてみる。指にクリームが付き、中の黒ゴマが前後左右に揺れてゆく。胃にもたれ、食べ飽きればすぐに、パタンと閉めるタイプの扉。表現主義の絵画の様な乱雑に筆跡だけが意識され付けられたタイトルが、背景上に散らかっていた。40人ほどの生徒と一人、82粒の目玉の前で私はワードを開く。ぎっしりとチャイニーズレターとジャパニーズレターがまんべんなく、チャーハンか炊き込みご飯のように混ぜ合わさっていた。先生は聞いた。「なんて書いてあるの?オスティア!(驚いた!)」

 

 「大きな国には、あるクラスがあって…」私はなんとか語り始めた。

 「そのクラスには、舞台仕掛けも演出もありません。ただコンビニがあり、廊下があり、本棚があり、時計があり、教授がいて生徒がいるだけです。

 クラスでは、先生は言葉を述べるだけです。俳優も、小道具も使いません。時計は静かに針を打ち、生徒たちは歓声を上げることなく聞き入るのが普通です。

 そんなクラスの様子をわたしはここに描きました」

 「よろしい。ではその絵を持って、わたしに付いてきなさい」グラナダは大きな目をわたしから引きながら、今度はクラス全体に、彼らの印象を受け取る様子で向けた。「それぞれに絵を腕に抱えるように。下に行く時間だから」

 

 82粒の目玉を持つ列は、軍隊のように2列をなして、12人ずつエレベーターに乗り、地下のコンビニへ向かう。

 コンビニに実際に絵を飾り、どの絵が先に売れるのか、どんな値がつくのか、どの客層がどの絵をレジまで運んでいくのか、自分の作品はコンビニのどの場所にどんな角度で配置するのが好ましいのか、確かめにいくのだ。

 売れたのは、森の絵や、クリムトの複製画、現代のバレエ教室の踊り子をアントニオ・ロペス風のリアリズムで描いた絵などで、わたしが描いたクラスの絵は、ガラス扉の冷蔵庫の上に置かれたままだった。

 売れ残った絵を、一つずつ、見て回りながら、講評は続く。

 (講評1、講評2、講評12、13、14…)

 

 グラナダの目には力がこもり、光が宿り、視線の向きをしっかりと三脚で固定するように据えると、作品を吸収するぐらいにカッと開いた。今咲いた、花のようだった。その力強さの後ろには、芸術家特有の不安感ではなく、芸術を愛す者が芸術に触れ直す時に感じる居心地の良さ、安心しきった感じがあった。

わたしたちはまた、抽象的な観念を、この後延長して30分も聞かされることになったのだった。

 

           ****

 

 学校帰りに、また今朝のスーパーへと行った。それは灰色の大きな塊だった。入口は閉まっており、というより塗り固められており、周りの壁と完全に一体化していた。つまり、国全体が、閉鎖されたような印象だった。

 

© Gerhart Richter

 

 

 

Trip A

 

© James Turrell

 

 A公園にはそろそろと、静かに人が集まってきていた。年に一度、変わった月が浮かぶ日に、丘の上に集まるような、厳かな儀式が行われる空気がそこにはあった。彰は10年ぶりにその土地に立つと、全く変わらないその空気感に、口をつぐんで昔の記憶に焦点を合わせて行った。その眼は細に辿り着こうとして少し蔭る。この場所にはオレンジ色の明かりが150年間、途切れずに灯っている。滑り台2台分の高さの木の上に、カーテンが子供1人分開かれ、木々の多く茂る中、部屋は壊されず、ずっとそこにあった。そっと、うすらうすら揺れているようにも思われる。部屋を乗せた木の幹は他の木々より一層硬く、手を延ばさなくとも、冷たく人を突き放す表皮の感触が伝わるようだ。空の色も同じだった。夕方6時を過ぎていたが、死んだようにグレーになった空には魚の死骸や、彼らの魂、海の表面に流れ出た石油のような靄が漂い浮いているようで、なんだか薄気味悪い。彰は、毎日空の写真を取っていたが、その日は辞めておいた方がよい気になった。場所がそうさせるのか分からなかったが、何かこの日の空にも、人の様子にも、建物の佇まいにもただならぬものがあって、郊外で緑が多く、普段は美味しいはずの土地の空気でさえも、雑多に肉、魚、野菜の並べられているアジアのマーケットにあるような生の臭さを感じ、肉や魚とともに、彰も水滴で濡れたビニール袋のうちに入っているような気さえした。こんな不穏な空気は、ここ50年間感じたことがない、見知らぬ老人が言う。まだ幼かった頃はよくこの公園で遊んでいたし、近所の人々の顔も覚えている。ハロウィーンでは、一軒一軒訪ねていったこともあった。それを10年近く繰り返したのだから、ほとんどの地域の顔は見知っているはずだ。もともと住人の多い土地ではないこの近辺は、駅から離れており、出て行くひとは多くとも、入ってくる人間、帰ってくる者は少なかった。

 彰はもう一度首を曲げ、290度見渡してみた。公園の周りの家の様子は、何も変わっていなかった。遊具でさえ、塗装はし直されていても同じものが使われており、ベンチの位置も同じだ。どの家も古くなってはいるが、玄関口に立つ錆びた看板には見覚えがあった。自民党の選挙のポスターが貼ってあった家は、今でも自民党のポスターを貼っている。砂も同じ。しゃがんで手に取ると、貝が混じっている。靴を引いて跡を付けると、決まって湿っていて色の濃い砂が見えてくる。彰は子供時代に遠視でつけていた、ゴムバンド付きの黒縁の眼鏡を思い出す。男だけれど、アラレちゃんに似ている、とよくからかわれた。まだ押入れの引出に、他にも遊戯王のカードや、ポケモンのカード(ミュウツーのレアカード)、カバーが透明になっていて、中身の透けて見える初めてのゲームボーイカラー、いくつかのマリオカートのカセットや、女っぽいものをと馬鹿にされないために、見つからぬよう育てていた天使のたまごっち――女の子を大切にするように、大事に育ててはいたが、やっぱり友達の前ではポケットから出せなくて、よくオヤジッチになったものだ――と一緒に、98点のテストの束もしまってあるはずだった。

 今日は小学校のグラウンドの半分の大きさのその広場に、2、30人もの人がいた。それも大人の人ばかり。ある人はブランコにのり、ある人はすべり台を降りていた。一人一人別々で、互いに喋っている者は一組もいない。お互いにお互いが見えていない。それでも、彰はそこに2、30人いることを知っている。彼らも知らないふりをしているだけで、ちゃんと見えているのだろうと思う。彰は、特に遊具に近づく気になれなかったので、ただ湿った土面を、アスタリスクを描くように中心に向かったり離れたり繰り返した。

 トンボが塵のように舞ってゆく。それを保護するように、虫かごを持っている子供は、親は、いないのかと頭を回すが、誰一人としていない。ブランコは4つ並んでいるが、4つとも使われていて、さらに列をなしている人間がいる。手には携帯を持ち、本を腕に抱えている者もいる。ブランコの後ろに危なげにあった兎小屋も、今では空っぽのようだ。檻が外れ、中には枯れ草が満ちている。

 彰はなんでここへ来たのだっけ、と考えた。特に理由なんてない。たまたま実家に帰ってくる用事があって、なんとなく懐かしい場所を訪ねてみたくなっただけだ。しかし、そこに居る人間には誰一人として見覚えがない上に、大人ばかり30人も居ようとは。全く想定外だった。

 

           *

 

 すでに闇は階段を降り、地上にまで這っていて、少し離れた住まいの3つの白い明かり、青ざめた遠くの月明かり、塵のようにかすかに映る星、の他には木の上の、1メートル半×2メートル半ほどの大きさの窓が宙に浮かぶのみだった。今では揃って野外映画でも見るように、みな思い思いの場所に立って、あるものは遠くのベンチやブランコに腰かけ、あるものは地面にあぐらをかいて、あるものはシートを広げてその上で、ただその長方形を見つめていた。この異様な光景に、彰は3か月前、ベルリンのクロイツバーグの広場で、学生の作った移民の人権に関するドキュメンタリー映画を、ビール瓶を片手に持って1時間ほど眺めていた時のことを思い出した。あれは、とっても爽やかで心地良い初夏だった。色とりどりのピンポン球をつけた電球の飾りが木に掛けられていて、あるいは木と木の間に吊るされていて、見知らぬ人と目が合っては微笑みながら、あまり爽快とはいえない内容のフィルムを、気持ちよく付近の住人と見つめていた。そんな様子に少し似ているけれど…湿っぽい空気に、人々の間に互いの笑みのないところに、なんとなく違う様子を思い返す。

 見つめる先の部屋のカーテンは黄ばんでいて、それがその明かりのオレンジを更に象徴的にしているのかもしれなかった。全く物音も、物陰もない部屋だ。

 

 この部屋には昔、あるおじいさんが住んでいたらしい。娘が彼を探しに小屋まで辿り着いたとき、消息を尋ねて近所の住人に聞いて回ったそうだ。そんな伝説が伝わっていた。

 それから一世紀半経つが、誰も、娘や老人の姿を目にしたものはいなかった。明かりは当時から灯ったままだが、みな、生まれた頃からそこには明かりがあったので、誰もほうきなどを持ち出して突くこともなく、違和感なく電気を供給し続けて、小屋に立ち入ることなしに、明かりを広場に認めていた。年数の過ぎていくほどに人々はその小屋と電灯に対する神聖な気持ちを宿していき、子供の目にも、神社や仏閣の一種、気軽には触れることの出来ない仏像や、土地を守る地蔵に似た類のものとして捉えられていた。ある失恋をした女子高生たちは、パワースポットだとそこへ彼女らの気持ちを吐きにきた時代もあったほどだ。花を添えてゆく人々もあった。このようにもはや異物も、心の原風景として土地に溶け込んでおり、今日その日まで、人々の意識にさらされずにきたのだった。ちょうど屋根の角には焼け焦げて空いている半径3センチほどの円があり、そこから石を付けた糸を垂らし、落ちた地点から南西へ50メートルほど線を引き、半径2メートルほどの範囲を探ると、むかし海賊が隠して行った宝が見つかる、と言い出した者もあった。しかしそいつは文学ナードだったので、もちろん信じる者などいなかった。彰は子供の頃、その男の家に友達と駆けつけて話を熱心に聞いたものだ、と昔を懐かしんだ。

 だけれど急に、今日は人工的な色の宙の下、人々が一挙に目覚めるようにして、その古くなっても未だ健康そうに、木の間に縛りつけられている小屋を精一杯、現実的に眺めているのだった。確かに150年ほど前には、ここに人が住んで、もしくは度々訪れて、広場以外には雑木林だった土地を、この木の上から眺めていたのだ。

 

 「最後に見かけられたのは、1865年、2月3日、節分の日」

 そう彫られた石碑が立っていた。彰は、よく跳び箱代わりにしてこの背の低い石盤を、前から飛び越え、後ろから飛び直し、時にはその少し丸みを帯びた上面の頂点に、ゲームボーイを乗せながら、バランスを取らせる遊びをしていた。石碑の後ろにはタイムカプセルを埋めたこともあったが、今日まですっかり忘れていた。無論この人ごみの中ではそれを掘り起こせるわけもないが、台風で吹き飛ばされたように慌ただしい年月の中で、楽しくもけたたましく過ぎ去っていった日々に、今もう一度想いを馳せていた。まだ何も知らなかった頃、土に直接埋めたロッテのブルーベリーのガムや、イカのヨっちゃん、ヨーグルトの味のする小さな壺に入ったクリームの食べかけは、ティッシュにくるんで埋めたとしても、もうとっくに蟻やミミズの餌食になっている。傍に埋めた、ツノとカクと名付けたカブトムシの死骸でさえも…。子供の頃はまったく怖くはなかったその石碑も、木も、今ではこうして大勢の人間と顔を同じ角度で下げて、上げて、見つめていると、地中や幹の不気味な虫が、体を這ってくるようだ。虫の死骸を底に敷き詰めたブーツを履いているようだった。

 

 さて、この日同時に人々の内に湧き起こった、「そういえば、この小屋の中には、死んだ一人の人間の、遺骸が入っているはずである」という突発的な、誰もが知っていながら物語の渦の底に咲く一輪の花の脇に葬ってきたある一つの事実に関する共通の認識が、夜7時、地面をぐらぐらと揺らしていた。皆で海の中、同じ船に乗っているようだった。皆、同じ気持ちでその小屋を眺めていた。皆、後ろで手を組んでいた。

 その仕草は、世界共通だ、と彰は思う。その手に携帯が収められていても、犬をつないだ紐が流れていても、皆同じポーズで何かを考えている。ここの家には、誰が住んでいたのだろう。その、伝えられているような、娘の父親であるのだろうか、それとも、まったく別の人間であろうか。当時は戦争に行きたくなかった人間が、林の中に隠れ家を作って逃げ込み、住むことは珍しくなかったそうだ。彼もまた、理不尽な世界へと送りだされるのを拒み、非国民だと言われ責められても、断固戦争を拒否し、ストライキを続けていたのか。昔、この広場は、その人間の自足自給を支える畑になっていたそうだ…。

 

 それ以上のことは、誰一人として知っていなかった。

 今思えば150年もの間、それがやり過ごされていたことが不思議だが、この慌ただしい動きの中で数世紀、みなそれぞれの生活をやり過ごすことにいっぱいになっていたのかもしれない。今やっと、事実は見つめられようとしていた。

 ガタン、と音がした。おーい、みんな、手伝ってくれ。一斉に人間は振り向いた。やはり彼らは互いに気が付いていたのだ。それなのに、なぜ会話を交わさなかったのか、そう違和感を覚えた彰もまた、その場所の暗黙のルールに沿って、一言も声を洩らさなかった。

 長い、長い梯子を、引きずりながら担ぎ出してきた中背の男を、見つめる人々の顔にはどこか真剣な、悲壮感が漂っていた。冬を迎える寂しさからかもしれなかった。見慣れているものに手を加える畏れから来ているものかもしれなかった。ただみんな、そんな表情を隠そうとするように、うつむきがちに、梯子を抱える男のそばへ、早足で駆け寄っていった。丁寧に、「ご苦労さまです」と一人の男が言った。動乱を見つめる人々の顔には、ほんのりいけない期待感の籠った困惑した表情を、皆一様、能面のように張り付けていた。

 ガタン、と梯子の端を、小屋の扉付近の太枝に掛けると、衝撃で明かりは今やっと消え、辺りは真っ暗になった。何世代もの子供の記憶に残されたその電気は、今150年ぶりに消え、皆が同時に、今ようやく夢から覚めたような気分だ、と思った。

 

© James Turrell

 

(第02回 了)

 

 

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* 『ショッキングピンクの時代の痰壷』は毎月12日にアップされます。

 

 

 

 

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