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 この本については、前に書かなかったっけ、とページを見返してしまった。なぜそんなことを思うのか。あまりに多くの人がこの本について言及していて、それが自分の言葉だったように勘違いするのか。そんな間抜けなことがあるなら、他の本についてだって同じように錯覚していいはずだが。

 

 しかし自己と他者を混同するというのは、ある意味ではこの本にふさわしくて、よく無意識的なものを象徴しているのだ、と言われているようだ。それは著者が心理学を専攻していたことや障害児の教育に従事していたことからも定説のように述べられている。ただ、そのように映る最大の理由はもちろんこの作品そのものにあり、なんとなく謎を含んでいるように感じるのだ。

 

 謎は多くを語らないこと、沈黙の中にあるもので、ここではウサギがそれを体現している。森の中で、男の子はさまざまな動物たちと出会い、彼らは思いおもいのものを携えてついてくる。賑やかでもあろう行列で、ウサギだけが何も持たず、黙って男の子のそばを離れずについてくる。

 

 華やかというより、たいていはけばけばしい色づかいの絵本が当たり前の現在、黒一色のこの本はそれ自体、沈黙に似ている。内容は結構、楽しいもので、男の子は動物たちとはんかちおとしや何かをして遊ぶのだけれど、何もしようとしないウサギを描くためのたたずまいであるかのように見えてしまうのだ。もしこれが派手な色づかいの本なら、ウサギの存在は単なるアクセントに過ぎないものになるかもしれない。

 

 この絵本についての他者の言説を読み、「食べ残し問題」というのがあることが知れた。男の子たちがたどり着いたひらけた場所に、ケーキや何かがあった。絵で見るとホールのまま、まさにおあつらえ向きにあった、というふうに見えるし、原文ではそれについて何も説明していない。ただそこにあった、ということなのだが、日本語訳では、他人がピクニックをした跡に残されていたことになっている。

 

 そうすると、彼らは他人の食べ残しを食べたのか、という疑問が提示されるという。この本の初版の頃なら、森の中で他人の残したご馳走に行き会えるなんてラッキー、ということだったろうが、現代の子供たちは潔癖にしつけられている。しかし、なぜそんな説明を付け加えたのか。

 

 『もりのなか』は確かに心理テストみたいな感じもあって、気を散らす色彩のないところ、また「さて、あなたの心に残るのはどの動物ですか」といった質問が続きそうな気配がないこともない。そして心理テストなら、「ここにケーキがあります」というときにその由来は問わない。

 

 私たちは意識と無意識のせめぎ合いを生きている。ケーキがそこにあったとき、誰かが残していったものだろう、と考えるのは普通の意識であり、物語は普通の意識に支えられている。しかし、それがそこにある、というところから問答無用に始まるのもまた、物語だ。無意識は物語の揺籃で、物語は成長するとこの揺籃を押しやり、意識的な言語を紡ぎ出す瞬間もまたある。

金井純

 

 

 

 

■ マリー・ホール・エッツさんの本 ■

 

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