ショートショート_No.021_cover_01「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

タコおじさんに捧ぐ

 

 

 

 世界で最後のピアノ教室を、彼女は営んでいた。

 

 そのことに気づいてからしばらくたったある日、彼女は生徒にピアノの演奏を教えることをやめた。

 ピアノの演奏方法を教えないピアノ教室を果たして「ピアノ教室」と呼ぶべきかどうか、はもしかしたら議論の余地があったかもしれなかったが、何しろ世界には他にピアノ教室は存在せす、他と比較しようもなかったせいか、誰からも文句は出なかった。

 何より生徒の両親も、近所に住んでいる人たちもおおむね彼女がピアノ教室の教師であることに満足していたので、彼女が「ピアノ教室」を名乗り続けることに何の問題もなかった。

 

 

 代わりに彼女はピアノ教室そのもの(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)についての、講義をすることにした。

 「ピアノ教室の歴史は古く、紐解いてゆくとメソポタミア文明にまで(さかのぼ)ります」

 「エジプトにある壁画には、ピアノらしきオブジェと、それに寄り添う人影がふたつ、描かれています。考古学のとある専門家によると、これは明らかにピアノを教えている様子だ、とのことです」

 先生、とひとりの生徒が手を上げた。

 「はい」

 「水族館とピアノ教室では、どちらの歴史が古いんでしょうか」

 手を上げた生徒の名前は、名前は敢えてここで書くべきことでもないので省略するが、便宜的にここでは()と名付けておくことにする。()は、ドレミ音階の中でも()の音を好んだからだ。

 賢い生徒だ、と彼女は()が自分の生徒であることを一瞬、誇りに思ったが、それを口に出すことはせずに胸の奥にしまっておくことにした。もう手を伸ばしても取り出すことができないほどに深い場所に、それをこっそりと彼女はしまうことにした。

 「良い質問ですね、グッド」

 「何かを評価するときには、必ずその何かと比較するべきものを上げないことには評価のしようがありません。ではせっかくなので、水族館とピアノ教室の歴史とを比べてみましょう」

ショートショート_No.021_01

 いいですか。

 水族館とピアノ教室では、ピアノ教室のほうが歴史は断然古い記録が残されています。水族館は少なくとも歴史上、1853年のロンドンはリージェンツ、パーク内でオープンされたものが最初とされています。さらに言えば、水族館の専門誌が初めて創刊されたのは記録上、1876年に自然科学者のW・S・ウォードによって為された「ニューヨーク・アクエリアム・ジャーナル」です。

 「いいですか」

 もう一度、彼女は念を押すようにして生徒たちに言った。

 「ですので、水族館とピアノ教室では、断然、ピアノ教室の歴史のほうが古いことがわかります」

 ふと目線を()に送ると、()の耳が真っ赤になっていることを彼女は気づいた。比較対象として適切なものを挙げたつもりが、比較するにはあまりにもバカげたものを口にしてしまったことを恥じているのだ、きっと。

 恥じる必要なんてない、と彼女は思った。

 ()は少なくとも、ピアノ教室の歴史の古さを証明する手助けをしてくれたのだ。恥じる必要なんてない。

 彼女はどうにかして()を励ましたいと思った。

 ()はユニクロのカーディガンを着ていた。当時、ユニクロを着ているという行為はある種の社会性を表す、モチーフ的ファッションでもあった。

 「ですが、歴史が浅いからといって、水族館がピアノ教室に劣っているかというと、わたしはそれは違うと思っています」

 「ウォードの創刊した雑誌はわたしも目を通したことがありますが、中には「若い仲間のために〜タコおじさんより」というコラムもあります。ちょっとしたコラムでした。それはピアノ教室の側には存在しないものでした」

 水族館の側が、恥じる必要はまったくもってありえないのです。

 最後に彼女はそのように締めて、その日の講義を終えることにした。()の耳からは赤みが消えていたように見てとれた。他の生徒たちに気付かれぬよう、こっそりと()に視線を送ると、()は微笑みで返事をしてくれた。

 

 

 「ピアノ教室は平和な場所でしか作られないんだ」

 ピアノ教室があるってことは、ここが平和な証拠だよ。

 彼はそう言って、彼女の手を握りしめた。

 それは彼女自身がピアノ教室を開くよりも、もっとずっと昔のことだった。

 二人は、一面にピアノ教室がびっちりと生えた芝のほうへと歩いて向かった。彼は、ユニクロこそ着ていなかったけれど、彼女にとっては彼と関わり続けることが、社会生活を過ごすことと同じ意味になっていた。

 「ピアノ教室?」

 彼はうなずいた。

 ここが平和な証拠だよ。

 彼は、反復することを自らの癖としていた。

 そして彼女は、彼の反復以上に美しいものを知らない。

 

 

 ピアノ教室よりも?

 ピアノ教室よりも。

おわり

 

 

参考及び引用文献

『水族館の歴史』ベアント・ブルトナー著 訳:山川純子 (白水社 二◯一三年)

 

 

 

ハリー・ポッターの曖昧なブルース(1)

 

 

 

 がおー。

 がおー。

 そんなふうに始まる文章があってもいいと思った。

 これはライオンの吠える声を真似したものだ。

 僕はたぶん、僕が僕の思う通りの人間であるならば、きっといざというときにはライオンのように強い存在のはずなので、それに気づいていない奴らに理解させるためには、僕はそんなふうに吠えるしかないのだ。

 奴らを傷つけてはいけないし(なんせ奴らは僕に比べれば果てしなく弱い)、かといって何も言わずとも僕が本当はライオンだと理解できるほど頭が良いわけでもないので、僕は自分でしかたなく、もしかしたら滑稽に映ってしまうかもしれないけれど、ライオンのように吠えるしかないのだ。

 がおー。

 がおー。

 

 

 世界中の交差点にカーブミラーを付けようと思ったのは、そうすれば事故が減るだろうと思ったからだ。

 僕はいつも親や兄弟、友人に優しくされてばかりいるから、今度は僕が皆に優しさを配りたくなった。

 たまには僕にも優しさを配らせてほしい。

 本当に(この「本当に」という言葉をつい使いすぎてしまう癖が僕にはある。プロレスが下手くそなプロレスラーがとっておきの必殺技を何度も使うことで技の説得力がなくなって、最後には必殺技が必殺技でなくなってしまうときのように。でも信じてほしい。「本当に」本当なのだ)そう思った。

 ライオンだって涙を流すこともあるし、僕だって優しい気持ちになるときもある。

 世界中の交差点にカーブミラーを付けることは、人前で面と向かって「ありがとう」であったり「ごめんなさい」と言えない僕なりの、優しさの証明と思ってほしかった。

 

 

 中学校に入学したての頃、僕は自分のカバンを机の横に付けてある金具に引っ掛けて収納していた。

 椅子の背にかけると後ろの席の人の邪魔になってしまうから、学校のほとんどの男子はそうしていたんじゃないだろうか。

 空間を生かした収納術は、グーグルもウィキペディアも大して知られていなかった当時のティーンエイジ、ティーンエイジャー? の僕らにだって、立派に備わっていた。

 問題は、僕はカバンに何でもかんでも物を詰め込むだけ詰め込んで、そこからあまり物を取り出すこともしなかったせいで、あまりにもカバンが横に膨れ上がっていたことだった。

 もちろん、僕と同じような連中は僕の他にもクラスにはたくさんいたし、確かにその机の横を通り抜ける際には邪魔だったかもしれないけど、それはもうクラスでは許容されていることだった。

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 昼休み、サッカー部の外崎(とのさき)君がそれにつまずいて、危うく転びそうになった。

 「いてえな」

 外崎君はそう言って、そのカバンの持ち主である僕を睨んできた。

 ごめん。

 そう言おうと思ったのは嘘じゃないけど、あまりにも外崎君のつまずきかたがなんていうか、美しくて、それに見惚れてしまっていたのも確かだった。

 彼はサッカー部で、僕はバドミントン部だった。

 サッカー部にはだいたいクラスでも運動神経の良いとされる奴らが入部していて、外崎君はその中でも特に足が速いおかげで、クラス中の奴らから、そしてサッカー部に所属している人たちからも、ある種のリスペクトを受けている人だった。

 もしも僕がつまずいたとしたら、さっきの彼みたいに美しく身体を傾かせることなんてできなかっただろう。

 僕も彼に敬意を払いたかっだ。

 「ご」

 「ごめん、くらい言えよ」

 外崎君の目は横に細く伸びていた。

 たぶんだけど彼は怒っていて、自分が転びそうになった原因のカバンの持ち主である僕にその感情を向け、威嚇(いかく)しているのだと(さと)った。

 悟り。

 僕はそんなにたくさんではないけれど、たまに悟ることがあるのだ。

 そのときもそうだった。

 悟りを開いた感覚があった。

 僕は自分の悟りを信じた。

 ライオンは食べる側であり、食べられる側ではない。

 威嚇される側でもない。

 威嚇をする存在であるはずだ。

 でも、ここは神奈川県のどこにでもあるような公立中学校であり、僕らはティーンエイジャーだった。

 ()(えり)と呼ばれる、何も悪いことなんてしていないのに、首元を絞めてくる拘束具に身を包まれながら過ごすことを余儀なくされるこの場所において、僕が本当はライオンだと気付かれるのはちょっと、いや、かなりまずいことになりそうだった。

 だから僕は心の中で、それを言った。

 がおー。

 がおー。

 この気持ちが伝わってくれればいいのにと思ったけれど、僕の願いはとんかつソースの匂いが漂う教室で届くことはなかった。

 「おい」

 黙ったままの僕に、外崎君は詰め寄ろうとしたけれど「とのー、こっち来て一緒にべんとー食べよーぜ」という彼の友人の声がかけられたことで、僕ら互いの距離がそれ以上縮まることはなかった。

 「ちっ」

 不機嫌そうな表情と、僕に聞こえるかのように彼の舌打ちが響いて、周りの生徒たちはびくっと肩を震わせた。

 みんな、外崎君には嫌われたくなかったのだ。

 「どうしたんだよ、との」

 「あいつさ、机の横にカバンかけてるせいで、すげえあそこ通りづらいんだよ」

 その会話はクラス中に響き渡るくらいの大声で()された。

 別にそのときが特別だったわけじゃない。

 彼らはいつだって声が大きくて、外崎君もいつも通り会話したにすぎない。

 でも、声の音量を抑えなかったということは、皆に当然聞かれてもかまわないという彼の真意の証でもあった。

 「あんなところに掛けておいたら、邪魔になるってことぐらいさ、フツーわかるじゃん。ジョーシキ的に考えてさ」

 その日から、机の横の金具にカバンをひっかける収納術を使う者は、クラス内から消えた。

 僕は彼に謝るタイミングを逃したついでに、横に掛ける収納術をやめるタイミングも一緒に逃した。

 皆と同じように横に掛けることをやめるとなると、僕は外崎君の威嚇に屈したことになるからだ。

 それはいけない。

 がおー。

 がおー。

 結局、僕はその中学を卒業する日までカバンを机の横の金具に掛け続けることで、ライオンとしての威厳を保った。

 がおー。

 がおー。

 その声はたぶん、外崎君の耳には届くことはなかった。

 とんかつソースの匂いだけが原因ではないと思う。

 ただ僕は、人より少しだけタイミングが悪いのだ。

 自分が誰かに「ごめんなさい」と言うことのできない生き物であることを、僕は中学校時代に理解した。

 がおー。

 がおー。

 

 

 近所のファミリーマートの前にあるガードレールに腰かける格好で、汚れたポロシャツとぱんぱんに膨らんだリュックサックに近づくと漂ってくるわずかなアンモニア臭が特徴の、数人のおじさんたちが缶ビールを片手になにやら談笑していた。

 夕方6時前、7月のこの時間はまだ日が落ちていなかった。

 きっとおじさんたちが話しているであろう内容は、パチンコか女性か政治についてのことに違いなかった。

 

 ある言葉が僕の頭に浮かんだ。

 そしてその言葉とおじさんたちの匂いは、僕になんとも言えない優越感を抱かせてくれるには最高の素材だった。

 僕はおじさんたちを心の底から軽蔑していたけれど、そのことをおおっぴらに誰かに言うことはしなかった。なぜかというと、そのことが他の人にバレてしまうことはすごく恥ずかしいことだと感じたからだ。

 実際におじさんたちが何を話していたのか、そんなことは大した問題ではなかった。

 きっとパチンコか女性、もしくは政治のことに違いないのだから、僕はおじさんたちの近くを歩くことはせずにただ遠巻きに眺めていた。

 おじさんたちのような人にこそ、カーブミラーが必要なのだと僕は思う。もしかしたら、おじさんたちは健康保険証さえ持っていないかもしれない。おじさんたちが事故に遭えば、誰もおじさんたちを助ける者はいないかもしれない。

 僕の優しさを見せるときが来たのだ。

 

 

 世界はグーグルで満ちていた。

 検索の網を抜けることなど、誰にもできやしなかった。

 できるとしたら、それは魔法使いと呼ぶべきだろう。

 ハリー・ポッターの世界では、残念ながらテクノロジーに関して触れられることはあまりにも少なかった。

 マグル(僕たちに似た人たちのことだ、彼らも魔法は使えない)たちの世界では確かに車は走っていたかもしれないけれど、彼らはインターネットに没頭している様子もなければ、ネジ工場での勤めをサボるようなこともしなかった。

 ましてやハリーポッターのいる世界には、ツイッターもインスタグラムもフェイスブックも存在しなかった。

 ハリー達はきっと、魔法が使えるから、テクノロジーたちの形成した検索の網の目からすり抜けることに成功したのだ。

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 僕らはマグルでも魔法使いでもなかった。

 そして僕はハリー・ポッターでもなかった。

 ファミリーマートの前で缶ビールを飲むおじさんたちに向かって抱く優越感はいつの日か世界中に発信されてしまうかもしれない。

 僕はそれが怖かった。

 世界中の皆にその優越感を知られることは怖くてしかたなかった。

 「しかたないじゃん」

 そう言ってくれたのが彼女だった。

 彼女は僕と同じでなかなか人前で「ごめん」とか「ありがとう」とかを言うことのできない人間、いや。

 ライオンだった。

 

 

 高いマイクを買うことにした。

 どこかのラッパーが「世の中はマイクだ。お前らの人生がうまくいかないのは、高いマイクを持っていないからだ」と歌っていたからだ。

 その言葉は僕の胸の奥深いところを叩いた。

 ような気がした。

 僕は高いマイクを買うことにした。

 曲の最後にそのラッパーが「俺は買わない」と吐き捨てていた部分を、僕が聞き逃していたことを知ったのは、もうずいぶんと後になってからのことだった。

 「しかたないじゃん」

 やっぱり、彼女はそう言った。

 彼女は僕が高いマイクを買うことも許してくれた。

 

 

 がおー。

 白状すると、そう吠えるやり方を思いついたのは僕ではなく、彼女だった。

 がおー。

 彼女はとても上手に吠えることができた。

 がおー。

 僕は彼女の真似をした。

 彼女になりたいとすら、思った。

 「がおー」

 彼女はメールに絵文字を使う代わりに、句読点も使わずにときどきその言葉だけを僕に送ってきた。

 その「がおー」の中には彼女の気持ちがいっぱい込められているように感じた。

 僕は感動して「がおー」と返信した。

 彼女もやっぱりまた「がおー」と書いてよこした。

 「がおー」

 「がおー」

 マグルもハリー・ポッターも知らない世界がそこにはあった。

 高いマイクのある世界だ。

 とんかつソースの匂いなんて、どこにもなかった。

つづく

 

 

 

ハリー・ポッターの曖昧なブルース(2)

 

 

 

 リチャード・パワーズは僕たちにいろんなことを教えてくれる。

 彼の著書『舞踏会に向かう三人の農夫』にはこんな話が紹介されている。

 

――どこかで読んだ話によると――『ブリタニカ大百科』だったか『カルチャー・コミックス』だったか、メイズはいつも出典というものがどうしても思い出せない――白人がポリネシアにラジオをもたらして以来、ツマミのついた箱がトーテムポールに現れるようになったという。

 

――ひとりの子どもが相手に、世界地図から「ムブ」を探させる。「コムブレ」に隠れたその小さな文字を一時間かけてようやく見つけた相手は、今度は「ヨー」を探せと最初の子に挑む。言われた方は、そんな大きなものを探そうとは思いもつかず、「ヨーロッパ」の「ヨー」がいつまで経っても見つからなかったりする。目立たないものではなく明白なものこそ、かねてからメイズにとって一番厄介であった。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』より 著:リチャード・パワーズ

 

 中でも秀逸なのは、この本の題名(タイトル)こそ『舞踏会へ向かう三人の農夫』ではあるものの、実はこの三人の農夫は舞踏会へ向かってなんかいなかった、という点にある。

 三人の農夫は確かに舞踏会へ向かおうとする場所でひとりの写真家に写真を撮られ、その瞬間が後世まで残ることにはなった。でも、そのとき三人の向かっていた方角というのは、本質的な意味では、すでに別々の全く違う場所へ向かれていた。題名はひっかけ(・ ・ ・ ・)であり、ある意味でそれは世界地図の中から「ヨーロッパ」の「ヨー」の文字を探させることに通じるものがあった。

 目立たないものではなく明白なものこそ、一番厄介なものだというのは、どうやら間違いではないらしい。

 

 

 明白なもの。

 そこにヒントが隠されているような気がした。

 問題はどうやってカーブミラーの材料を集めるかということに集約しているような気がした僕は、明白なものに目を付けることにした。車のサイドミラーにその代わりを担ってもらおうと思ったのだ。それでもサイドミラーだけを買うお金など僕にあるはずもないので、そこは住宅街の人たちに犠牲になってもらうことにした。

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 いつだって犠牲者となるのは住宅街の人たちだと決まっているのだ。

 それは暗黙のルールだと、歴史が告げている。

 僕は住宅街の人たちに心から同情する。

 

 

 乳母車を押す女性(たぶん母親なのだろう)が、子どもに飲ませるための水をリュックサックから取り出そうとしていた。乳母車は二人乗りで、横付けで、顔のほとんど同じ赤ん坊が二人、平然とした顔でそこに座っていた。これから自分たちに襲いかかってくるかもしれない恐怖や不安など、微塵も感じさせない彼ら(もしくは彼女ら)の態度は、僕からすればとても心強かった。赤ん坊のひとりが僕を見た。僕は心の中で言った。

 がおー。

 がおー。

 赤ん坊は僕をまだ見ていた。母親は依然、リュックサックの中にあるはずの水筒を取り出すことに苦労しているようで、僕らのことには気づいていなかった。いや、母親だけではない。世界中の誰もが、僕らのことには気づいていないようだった。そのとき、赤ん坊が僕に向けて口を開いた。

 がおー。

 聞き間違いじゃなければ、彼か彼女は、間違いなくそう僕に言っていた。僕らだけの世界がそこにはあった。

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 僕ももちろん、返事をした。

 がおー。

 がおー。

 「ジュース、飲む?」

 母親が無事に取り出すことに成功した水筒を、ようやく赤ん坊に向ける頃には、僕らはその挨拶を終えて、それぞれが元の生活パターンに戻っていた。言葉を使わなくても共感できることだってあるのだ。

 

 

 さて。

 僕もベンチから立ち上がって、自分の仕事に戻ることにした。平日の午後のことで何曜日だったかは忘れた。僕にとって今日が何曜日であるかなんて、あまり大切なことではなかった。

 昨日、ホームセンターで買ったばかりのバールを右手から左手に持ち替えて「倉田」という表札を掲げた一軒家の駐車場に停めてあった白のワゴン車に付けられたそれに、まずは狙いを定めることにした。別に「倉田」に特別な意味があるわけじゃなかった。それが「牧田」だろうが「外崎」だろうが、どうでもよかった。僕にとってそれはあまり大切なことではなかった。

 がおー

 がおー

 周りには誰もいなかったけど、そう心の中で叫んでから僕は作業に取り掛かった。

 

 

 「カタツムリの瞬間移動」について、ある作家が書いていたことを思い出した。

――カタツムリはほとんど動いていないように見えるけれど、ちょっと目を離すと、いつの間にか別の場所に移動している。それはカタツムリがあんまりのろのろしているから、いつまでも見続けていられないせいなのだけれど、そののろさがなおさらカタツムリの移動を神秘的なものとして印象づける。ミユキの生き方には、どこかそういう飛躍的なところがあった。そのことを彼女に告げようとしたが、「カタツムリ」は褒め言葉ではないのでやめた。

 

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 バールを振り上げている間、ずっとその「カタツムリの瞬間移動」に見られる神秘性が僕の頭の中にあった。僕はライオンではあったけれど、世界中の交差点に取り付けるためのミラーをこうして、ひとつずつ住宅街の車から取り外してゆくその作業は、戦争を止めるべく奮闘するカタツムリ的振る舞いだったのかもしれない。その神秘性は、バールを振り下ろし続ける僕を慰めてくれるものだった。ひとつを外すことに成功して、二つ目に取り掛かろうとしたところで作業は中断させられてしまった。

 

 

 彼女について、書くのはこれで最後だ。

 彼女は自分が行ったことのない場所にたどり着くと、きまって非常口がどこにあるのかを確かめる人だった。当時、僕が住んでいたアパートの部屋に初めて来たときも、バドミントンをするために市の体育館に行ったときも、いつも非常口がどこにあるのかを確認していた。

 「いざ、というときのためにね」

 そう言ってのける童顔の彼女は、なんだかとてもしっかりしているように見えて、僕もそんな風に人から見られたくて、誰が見ているわけでもないのに彼女の真似をするようになった。ありとあらゆる場所で、常に僕は非常口がどこにあるのかを確認するようになった。

 彼女と別れてから、僕はその習慣を失くしてしまった。

 僕は失ったのは彼女だったのだろうか、それとも非常口を確かめる習慣だったのか。

 どっちだったんだろう。

 

 

 すべては事務的に進められていった。

 パトカーに乗せられ、その地区の警察署に連れて行かれた僕は言われるがままに指紋を左右すべての指を、専用の機械でスキャンされた。言われるがままに渡された紙に名前と住所を書き、連絡先なども書いた。あまりにも事務的だったせいで、運転免許証の更新をしているような気分だった。

 「じゃあ、ちょっと待っててください」

 一面が白塗りの個室で、椅子に座ってぼーっとしていた僕の前に座ったひとりの警察官は、どことなく外崎君に似ているような気がした。

 「いろいろ、疲れたでしょう。 もうちょっとで終わりますから、座って待っててください。手続きとかもろもろで、大変ですよね」

 ごめんなさいね、そう言って外崎君似の警察官は僕の正面に座った。なぜ謝られているのか、僕には理解できなかった。どちらかというと怒られるかとも思っていたのに。

 彼の視線は僕の手元に、そして僕の頬に、部屋のあちこちに移動した。何か話題を探していたのかもしれない。

 「あー」

 「んー」

 けど、話すべきことなんてひとつしかないことに彼も気づいていたはずだ。

 「なぜ、こんなことを?」

 おそらくこの警察官はわかってはくれないだろう。世界中の事故をなくすために僕が車のサイドミラーを取り外していたなんてことを、理解してくれるだろうとは到底思えなかった。

 がおー。

 がおー。

 心の中で目の前の警察官を威嚇してから、自分が中学生の頃からちっとも変わっていないことに気づいた。外崎君似の警察官は、もしかしたら「本当に」外崎君なのかもしれない。僕の配るはずだった優しさを、プロレスラーの必殺技のように、世界が僕にその機会(・ ・ ・ ・)を与えてくれたのかもしれない。

 「ご」

 今度は、外崎君は言葉を挟もうとはしなかった。

 彼はじぃっと僕を見て、僕が何か言おうとするのを待っててくれた。

 「ごめんなさい」

 それは車のサイドミラーを壊したことに対しての言葉ではなく、あのとき外崎君にかけることのできなかった謝罪のつもりだった。目の前の外崎君は、ただ僕の言葉にうなずいてくれた。おそらく彼は何かしら勘違いをしているのかもしれないけど、でもそんなことはどうでもよかった。

 「ごめんなさい」

 僕はもう一度、言った。

 何もかも僕は初めからやり直す必要があった。

 ライオンである必要のない世界が目の前に広がっているような気がした。高いマイクも売って、もっと政治のことに臆病にならなくてもいい、そう思った。

 がおー。

 がおー。

 彼女のことが、頭の中に浮かんだ。

 あの子はいったい、誰だったのだろうか。

おわり

 

参考及び引用文献

『舞踏会へ向かう三人の農夫』 著:リチャード・パワーズ著 山川純子訳 (みすず書房 二◯◯◯年)

『ここにいるよ』高橋文樹著 (破滅派 二◯一五年)

『ハリー・ポッターと賢者の石』J.K.ローリング著 松岡佑子訳 (静山社 一九九九年)

(第21回 了)

 

 

* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■