鶴山裕司さんの文芸批評『東洋学ノススメ』『No.003 日本文学の原点-馬場あき子中世文学論(下編)』をアップしましたぁ。馬場あき子論完結編です。作家のタイプは様々ですが、たいていの作家は作品を書くことに憑かれています。とにかく作品を書くという試行錯誤を重ねることによって、じょじょにその思考の方向性を定めてゆくわけです。作家思想を中心にして言うと帰納的方法論です。

 

鶴山さんはその逆です。日本では珍しい演繹的作家でその批評の多くは原理論です。ある思考に到達してからそれが作品として展開してゆく。〝作家的苦悩〟といった文学神話には縁遠いとも言えますし、もしかしたらそこからさらに高次の作家的苦悩に突入なさるのかもしれません。ただま、これは善し悪しの問題ではなく作家のタイプです。また作家と優れた思想家を兼ねた文学者は漱石を始めとして一握りしかいません。ちょいと無責任な言い方ですが、鶴山さんの文学展開は、成功するにしろそうではないにせよ見物でふ。

 

んで鶴山さんは馬場あき子論の末尾で、『二十一世紀初頭の現代は室町初期の世阿弥の時代に似ているかもしれない。(中略)二十一世紀初頭に生きることを余儀なくされた文学者にできるのは、「前時代までの文学と芸能の綜合整理」だけかもしれない。それは次代の決定的に新しい文化の基盤となるだろう。しかし大局的に見れば、非在の陥没点として歴史の中に埋没するかもしれない。(中略)恐らくそれは同時代には理解されない〝秘伝〟となるだろう。ただ世阿弥のように最も追い詰められた者だけが、色あせることのない秘伝を書くことができる』と書いておられます。先行きはバラ色ではなく、とても厳しいといふ認識はお持ちになっているやうです。

 

 

鶴山裕司 文芸批評 『東洋学ノススメ』『No.003 日本文学の原点-馬場あき子中世文学論(下編)』 ■