小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ 現代に読む源氏物語』(第041回)をアップしましたぁ。今回は『源氏物語』第五十三帖『手習(てならい)』の読解です。『宇治十帖』の第九帖に当たります。 死にそびれて衰弱した浮舟は、横川の僧都に助けられます。僧都の妹尼が、浮舟を実の娘のように看護します。妹尼は実の娘を亡くしておられたのでした。その娘のかつての婿だった中将は、浮舟を妻にと望むのですが、浮舟は横川の僧都に懇願し、妹尼の留守中に出家してしまったのでした。出家して晴れ晴れとした浮舟は、歌を詠み、手習をして過ごします。

 

熱心に祈祷して浮舟を助けた横川の僧都について小原さんは、『とても優しい方です。そして常識的でもあり存外に話好きでもあって・・・普通の人であります。・・・源氏物語には、今までにも何度もこういった祈祷だとか・・・が出てきています。しかし・・・著者の紫式部自身、そういったことを眉唾だと思っているふしがある。・・・しかしこの横川の僧都の祈祷の成果に対しては、疑いを挟むような筆致がまったく見られない。・・・ごく当たり前に、優れた僧都であればこういうことはある、と捉えられているようです』と書いておられます。

 

また横川の僧都や浮舟の描き方について、『源氏物語は、女性性の生命のエネルギーが制度を駆け上り、男たちの哀れな社会性を凌駕する、というエキサイティングなドラマの側面があります。浮舟は社会的にはちっとも上昇せず、世を捨ててまでしまうわけですが、ここにおいて「社会」を「仏道」に置き換えると、浮舟はその身分では考えられないような扱いを受けるまで「出世」しているのです。どこの誰とも知らないまま、最高の高僧である横川の僧都は自身の僧生命をかけてまで彼女の祈祷をする。それはなぜか。社会的なものを含んだ意味のコードでは、その答えを示すことはできません。意味のコードは現世のものであり、横川の僧都が感じとったもの、浮舟が備えていたものは、現世には属さない何かであったとしか言いようがない。それが「縁」を結ぶのだ』と批評しておられます。

 

第五十三帖『手習(てならい)』は『源氏物語』の中では概して文学的評価が低いのですが、それは改めなくてはならなひでせうね。小原さんは『すばらしい姫として出世することのない浮舟は、すばらしい生育環境にあったわけでなく、音楽の素養もないのです。そんなみすぼらしい姫は、源氏物語の他の美しい姫君には見あたりません。教養を何も身につけていない浮舟は、ただひたすら手習をします。詠んだ歌を書くのです。・・・・それは教養主義的な物語を離れた、他でもない「文学者」の姿に酷似しています』と書いておられます。

 

 

小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第041回) ■