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 安井浩司はインタビューで「重信の前衛俳句は、言語派というよりも、モダニックな美意識に支えられた俳句運動だったような気がします」と語っている。「モダン」(Modern)は「現代的」という意味だが、「モダニズム」、「ポスト・モダン」という用語があるように、芸術の世界では独特の使われ方をする言葉である。安井が使っているのは「モダニズム」の意味で、日本を始めとして、フランスなどのヨーロッパ文化先進国の〝現代〟より遅れている(という意識を持っていた)国々で起こった文化運動の総称である。俗な言葉で言えば、〝先進文化に追いつけ追い越せ運動〟だった。

 

 明治維新後の日本の欧化主義はモダニズムに当たるわけだが、モダンやモダニズムという言葉が定着したのはおおむね大正時代からである。詩人たちは江戸後期に最盛期を迎えた漢詩をあっさり捨て、ヨーロッパ詩を模倣した自由詩を短期間に作り上げた。小説家たちも幕末の勧善懲悪的な「読本」の世界を捨て、ヨーロッパ的な小説文体をあっという間に構築した。それが可能だったのは、ヨーロッパと同質ではないにせよ、江戸後期にはすでに近代的自我意識が日本人の中に芽生えていたからである。詩人や小説家は欧米文化の基盤が個の自我意識にあることを素早く見抜き、自らの中に強固な自我意識を育みながら、明治・大正時代の新たな文学を作り上げていったのである。しかし俳句の世界で〝モダニズム〟運動が起こるのは、自由詩や小説の世界に比べてかなり遅かった。

 

 正岡子規の俳句革新運動や、子規高弟の河東碧梧桐による無季無韻俳句にも近代的自我意識が影響しているが、それがはっきり表れたのは昭和初期の「新興俳句」運動からだろう。日野草城が新婚旅行を主題にしたエロチックな「ミヤコホテル」連作を発表してスキャンダルを引き起こしたのは、昭和九年(一九三四年)のことである。当時の俳壇がいかに保守的風土だったのかがわかる出来事である。ただ新興俳句運動初期に活躍した水原秋桜子、山口誓子、日野草城らの俳句は、現在から振り返ると有季定型花鳥諷詠を主軸とする高浜虚子の「ホトトギス」とそれほど違わない。明確に従来とは異質な作品が現れるのは、新興俳句運動後期、具体的には高屋窓秋、西東三鬼、渡辺白泉、秋本不死男、富澤赤黄男らの出現によってである。赤黄男は言うまでも高柳重信の師である。

 

 戦時中に三鬼は「機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク」を詠み、白泉は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」、赤黄男は「戛々とゆき戛々と征くばかり」といった戦争批判俳句を詠んだ。それらが特高警察による新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)を引き起こしたわけだが、俳人が強固な自我意識を基盤に、明確な社会批判思想を作品で表現したのはこの時が初めてだった。ただ彼らは社会運動家として、俳句を手段に社会批判思想を表現したわけではない。新興俳句運動の俳人の多くは生粋の俳人であり、戦後になると社会批判思想をほとんど表現しなくなる。つまり新興俳句運動最大の特徴は、俳句で社会批判思想を表現したことにはない。本質的に集団的文学にならざるを得ない俳句文学に、初めてモダニックな〝自我意識問題〟が表れたということである。

 

 この自我意識問題は、戦後に富澤赤黄男を師と仰ぎ、「俳句評論」誌などで前衛俳句運動を展開した高柳重信によって先鋭化される。乱暴な言い方をすれば、集団的座の〝文芸〟である俳句と決別し、それを近代以降の〝文学〟に高めるということは、俳句を自我意識文学化するということである。重信は政治とはほぼ無縁の芸術至上派だが、重信の前衛俳句の核になったのは強固な個の自我意識である。重信が従来の俳句定型に新たな多行俳句形式を対峙させ得たのは、自らの自我意識を信じたからだと言って良い。また重信が同時代の現代詩人たちに接近した理由もそこにある。現代詩人たちは個々の自我意識の赴くまま、ほとんど孤立した形でそれぞれの詩の形式を作り上げていた。現代詩への強い興味は、富澤赤黄男や加藤郁乎、安井浩司らにも見られる。

 

 ただ安井が重信は、「俳句史の一本道に繋がる本格的俳人だった」と書いたように、重信はどこかで従来の俳句伝統を信じていた。それが晩年の山川蟬夫名義による有季定型一行俳句になって表れている。また重信は「俳句評論」に君臨する、一種の従来型俳句宗匠でもあった。重信において自我意識問題は先鋭化されたが、解決の糸口を見出したわけではない。それは重信門下の前衛俳人に引き継がれることになる。加藤郁乎と安井浩司がその双璧である。郁乎と安井の俳句は重信系の多行俳句ではないが、本質的に集団的座の文芸としての俳句と切れている面がある。郁乎と安井、それに大岡頌司が結社を持たず、孤立した俳句作家になったのはもちろん偶然ではない。

 

吉田一穂が『球體感覺』序において「加藤郁乎の句は現代詩のフラグマンであるとしても、もはや俳句ではない」と断言するとき、すでに早くも暗雲が立ちこめていたというべきだろう。いちはやく反・俳句を用意し、『えくとぷらすま』に向かった加藤郁乎は、高柳の〈俳句〉という作品(・ ・)に対して、〈作品〉という俳句(・ ・)をこそ用意したように思える。そこでは(中略)いわゆる俳句従来の変容にあらず、〈俳句〉から、俳句形式の確定要素を捨てることで書かれる〈作品〉への問いがあった。まず自律としての〈作品〉が定立することで、受容される〈俳句〉化の、近来はじめて見られる真の前衛風景である。

(安井浩司『放物線の行方 加藤郁乎以後の俳句』)

 

■加藤郁乎処女句集『球體感覺』(昭和三十四年[一九五九年])より■

冬の波冬の波止場に来て返す

昼顔の見えるひるすぎぽるとがる

切株やあるくぎんなんぎんのよる

天文や大食(タージ)の天の鷹を馴らし

一満月一韃靼の一楕円

 

 郁乎は俳人の加藤紫舟(ししゅう)を父に持つ生粋の俳人だが、詩人の吉田一穂(いっすい)を師とし、同じく詩人の窪田般彌(はんや)を盟友としていた。郁乎の処女句集『球體感覺』は前衛俳句運動はもちろん、戦後を代表する名句集の一つだが、師の一穂は「加藤郁乎の句は現代詩のフラグマンであるとしても、もはや俳句ではない」と的確に批評している。

 

 「冬の波冬の波止場に来て返す」、「一満月一韃靼の一楕円」という句に表れているように、『球體感覺』の句は文字通り言語的な円環を描いている。また「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」、「切株やあるくぎんなんぎんのよる」は言葉遊び(オノマトペ)の作品であり、そこで目指されているのは一種の無意味(空虚)である。作者の強い自我意識が感じ取れる句だが、どこか空虚なのだ。形式的に言えば、いずれも五七五に季語の俳句定型を守っている作品である。しかしそれを打ち破ろうとする不穏な欲動を、一穂は敏感に察知している。

 

 前衛的意図を有季定型にくるんで処女句集で表現し得た郁乎は、重信以上に俳人らしい俳人だったと言えるだろう。だからこそ郁乎は、自我意識が生み出した多行俳句形式で俳句定型をねじ伏せようとする重信の限界(あるいはその陥穽)に気づいたのである。郁乎は第二句集『えくとぷらすま』で、一気に重信系前衛俳句の頂点にまで駆け上がる。

 

 安井は『えくとぷらすま』で、「加藤郁乎は、高柳の〈俳句〉という作品(・ ・)に対して、〈作品〉という俳句(・ ・)をこそ用意した」のであり、そこにあるのは「俳句形式の確定要素を捨てることで書かれる〈作品〉への問い」だったと書いている。それは「自律としての〈作品〉が定立することで、受容される〈俳句〉化の、近来はじめて見られる真の前衛風景」であると批評している。重信がその形式はともかく従来通りの「俳句-作品」を書いたのに対し、郁乎が書いたのは「作品-俳句」である。

 

■加藤郁乎句第二句集『えくとぷらすま』(昭和三十七年[一九六二年])より■

落丁一騎対岸の草の葉

白紙こそ初めなる法則の者!

遺書にして艶文、王位継承その他無し

()にまたとない大鴉もう還らない否が群れ

処女の月の環に砂かぶる哲学の石

盲ひの絵師が撃ち落とす絵は星菫の棺の上

どこかで火戯(はなび)が凍る・・・斧が自らを鍛つ

楡よ、お前は高い感情のうしろを見せる

七五調については石膏の割れが応へよう

詩人も皇太子もにんじん色の百科をさげて

老少年が種無し水瓜を縊るのだらう

卵は留まるか流れるかする氷島だらう

野巫(やぶ)の外では神が球根をおきかえてゐる

小川に暦を洗って時の両面を追ふとき

眺望に老いて高らみやがてわれらはうたとなる

むすめまたは母がウパニシャッドの門を診せてる

このソノラマの死へいざ桂冠の金枝篇!

 

 岩成達也という詩人がいて、彼は自由詩史上初めて明確に自由詩を定義した詩人である。自由詩はその名の通り、表現上何の制約もない芸術形態である。散文でも行分けでも良いし、小説としか思えない物語でも、俳句や短歌を連ねたような作品でも自由詩として成立させることができる。岩成によれば、自由詩を成立させるのは作家による「自由詩の宣言(デクラレーション)」である。作家がこの作品は自由詩であると宣言し、読者がそれを肯えばどんな言語形態でも自由詩は成立する。

 

 また岩成は、自由詩を成立させる大きな要因(読者が自由詩だと認知する指標)として、詩人による世界認識を挙げている。あらゆる意味で制約のない自由詩には書き方(「書法」)の決まり事が一切ない。書法は詩人ごとに異なり、また時代によって変化してゆく。社会情勢が大きく変われば詩人の書法もそれに呼応して変化しなければならないのである。それが不定形の言語表現である自由詩の存在理由となる。岩成はそれを「詩的関係の意義は、言葉を介して新しい世界認識を(私達に)可能ならしめる点に求められる」、「一つの新しい世界把握には、一つの新しい書法が対応する」と述べている。

 

 読めば誰でもわかることだが、郁乎の『えくとぷらすま』は形式的にも内容的にも、もはや従来の文脈で言う句集(俳句)ではない。郁乎本人が『えくとぷらすま』を句集だと宣言しない限り、句集と認知することはできないのである。また読者(俳人たち)の認知も必要である。同時代のほとんどの俳人が、即座に『えくとぷらすま』を句集だと認めたのは驚くべき事態である。郁乎の『えくとぷらすま』によって俳句文学は、ある意味で自我意識文学の極北である自由詩と同等のレベル(「真の前衛風景」)にまで達したと言うことができる。

 

 ただ『えくとぷらすま』以降、前衛俳句が自由詩と同質の自我意識文学に進んだとは言えない。自由詩とは異なり俳句には型があり、前衛俳人といえどもそれを棄却することはできない。俳句が座の文芸から近代的文学になるためには自我意識の導入が不可欠だが、自我意識は俳句文学の原理と絶対的に抵触するのである。郁乎の『えくとぷらすま』が、前衛俳句はもちろん現代俳句のメルクマールになったのは、この句集において作家の自我意識が極限まで肥大化し、かつ縮退しているからである。(下編に続く)

鶴山裕司

 

 

 

 

国書 安井浩司「俳句と書」展

 

 

 

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