No.019_文學界_01

 

 

 雑誌や業界ごとのカルチャーは確かにあると思う。自然主義的私小説が、ほぼ日本独自のものといっていい芸術形態であることを僕も疑わない。日本語で書く作家である限り、その影響は陰に日向について回るだろう。ただ暗黙の了解のうちに私小説を文学の中の文学、すなわち純文学として規定してきた「文學界」=芥川賞は、実質的にはその時々の社会風俗を巧みに作品に取り込む作家たちによって支えられてきた。私小説から風俗小説や大衆小説へと微妙に舵を切り、流行作家として読者に愛されるようになった作家たちがその評価を高めたのだと言っていい。

 

 もちろんあくまで純文学にこだわる作家たちもいた。一九七〇年代から八〇年代にかけて、内向の世代と呼ばれる古井由吉、後藤明生、日野啓三らが自然主義的私小説よりもさらに人間の精神に食い込むような書き方(エクリチュール)を始め、僕らは確かにそれに魅せられた。彼らの作品が純文学の将来を保証するものだと信じて疑わない時期があったのである。しかしその期待は霧散してしまった。正直に言えば、僕はなぜ彼らの作品をあれほど夢中で読みふけったのか、もうわからなくなってしまっている。乱暴な言い方かもしれないが時代が変わったのだ。あるいは残酷な言い方かもしれないが、彼らが示唆した純文学の方向性が決定的に間違っていたのである。

 

 もう十年くらい前になるが、SF業界では半年間ほどほとんど新刊本が出ないどん底の時期があった。今、自由詩の世界がそれに近づいているようだ。口語自由詩を確立した萩原朔太郎は〝自由詩〟という呼称を使ったが、戦後になり〝現代詩〟が自由詩の呼び名に入れ替わった。「現代詩手帖」という詩壇で唯一の純文学誌が刊行されたこともそれを後押しした。詩人の入沢康夫が「詩は意味伝達の道具ではない」と言ったように、現代詩は言葉の力だけで何事かを表現しようとする詩の形態で、それゆえ難解で独りよがりな象牙の塔だとも批判された。だが詩にさほど興味のない僕らですらそれを文学にとって意義ある作品だと信じ、それなりに熱心に読んだのである。しかし現代詩の可能性もまた霧散してしまった。

 

 今詩人たちは、どうやら〝現代詩〟という呼称に苦しめられているようだ。文学者に限らず人間には自分の居場所が必要である。嫌悪していても拠るべき場所がないよりましなのである。短歌や俳句よりも圧倒的に創作者人口が少ないにも関わらず、自由詩が詩の世界で特権的地位を占めてきたのは現代詩のおかげである。露骨な言い方をすれば現代詩人の多くが外国語(外国文学)に精通した大学教授であり、常人にはよくわからないけど高尚なことが行われているのだろうと見なされてきたのである。しかし現代詩の可能性は潰えポスト現代詩の姿はいっこうに見えて来ない。そのような状況の中で、詩人たちはかつては特権的だった現代詩のイメージや「現代詩手帖」誌にしがみついている。〝詩は本質的に自由詩である〟と言っただけで生理的に反発せざるを得ないような状況が生まれているのである。

 

 恐らく近い将来、純文学業界でもSFや自由詩の業界で起こったような事態が起こるだろう。もちろん底を打てば後は上がるしかない。そういう意味ではどん底を体験するのは悪いことではない。また小説の世界は少なくとも自由詩の業界よりも遙かに老獪である。従来の路線(アイデンティティ)を維持しながら、徐々に新たな可能性を含んだ文学の方にシフトしてゆくだろう。ただ「文學界」に〝選ばれた〟作家たちは、ほぼ必然的に「文學界」カルチャーを守る使命を負うことになる。しかし純文学が活路を見出すのは既存の文学的価値を固守する作家たちではなく、それを相対化できる作家ではないかと思う。

 

 「アツオさん、じんつぁさん、みんなわがんなくてもよ、この人はわがっべえ」

 清は祖母の肩を小さく叩いた。敦夫は不思議そうな顔で答える。

 「かあちゃんだべ」

 「ああ、ほらなあ、あんたんごとはわがんだべ」

 祖母は、からかいたいといった様子で敦夫に質問を続ける。

 「誰のかあちゃんや」

 敦夫は和やかに笑った。当然、といった様子だった。

 「おれなだ」

 そして祖母は言った。

 「親だと思ってんなだ。違うがもしんねげど」

 何も分からないということの次に、何かが分かるということがあるのではない。分かることと、分からないことは、いつでも並べられている。少なくとも、敦夫の世界ではそういうことになっている。

(板垣真任「トレイス」)

 

 今月号は文學界新人賞の発表号で、板垣真任氏の「トレイス」が受賞された。主人公は浪人が決まった高校三年生のタダオで、家族は痴呆が進んだ祖父・敦夫を抱えている。タダオの両親は家電店を経営している共働きで、受験勉強しなければならないとはいえ、比較的暇なタダオが徘徊癖のある祖父の面倒を見なければならないことになっている。食事や排泄は問題ないので、狭い町の同じようなルートを徘徊する祖父の後を付け、無事家まで連れ帰るように母や祖母から頼まれているのである。

 

 「トレイス」の書き出しは「おれ、わかんなくなっちゃったよ」である。それは作品中で何度も繰り返される。祖父の様子を見ながら、タダオは「何も分からないということの次に、何かが分かるということがあるのではない。分かることと、分からないことは、いつでも並べられている」と考える。〝わからないこと〟が「トレイス」の主題である。このエニグマに解決の糸口をつけてくれそうなのは近所に住む瑞樹という女性である。二十代半ばで兄の幸三が経営する理髪店を手伝っている。

 

 祖父は徘徊中に通りかかった人に手当たり次第に話しかけた。たいていの人はそそくさと逃げてしまうのだが、瑞樹は違った。タダオは祖父と瑞樹が親しげに会話する姿を目撃した。別々に祖父と瑞樹と話すうちに、タダオは二人が自分が知り尽くしているはずの狭い町には存在しない場所のことを言っているのに気づく。タダオはそれがわからなくなってゆく祖父の謎を解く鍵ではないかと漠然と考えるようになる。しかし兄の幸三は妹は病気なんだと言って、タダオが瑞樹と話すのを激しく嫌う。小説のラストでタダオは幸三と瑞樹が近親相姦の関係にあることを知る。謎は謎自身のしっぽをくわえるように放置されるのである。

 

 今号には佳作となった小笠原瀧氏の「夜の斧」も掲載されている。こちらも老人と暮らす若者の話である。主人公・京太の父・藤一郎はかつてはリサイクルショップを経営していた。しかし経営する気力を失って店を差し押さえられ、今はアパートの一室で京太がアルバイトで稼ぐ金で細々と暮らしている。父は痴呆ではないが、リサイクルショップを再開するのだと言って、アパートの部屋はもちろん外にも粗大ゴミを拾ってきては積み上げている。

 

 京太には光次郎という弟がいるが、荒んだ家庭のせいでグレて少年院に収監されてしまった。今は出所しているが、働きもせず、ときおりアパートに来ては飯を食べてゆく。京太が冷蔵庫に入れておいた冷や飯にお湯をかけ、キャベツに醤油をつけて食べるような飯である。京太はここで飯を食うなら金を入れろと光次郎に迫る。それほど京太は逼迫している。しかし光次郎は「そうですよね、仕事は続かない、生活費はできる限り切り詰めるけど、ホームレスはできないから、結局家族のお世話になる。きっと、まだ、他人のことを自分の一部だと思いたがってるんでしょうね」とうそぶくばかりである。

 

 小説である以上、働かなくなった父親によって生じた歪んだ親子関係は、なんらかの形で変容しなければならない。もちろん純文学作品なのだから、通り一辺倒なヒューマニズムで作品を終わらせることはできない。それは大衆文学の専売特許である。

 

 光次郎が(中略)向きをかえ、京太へ一歩踏み込んだ。「おまえだった」と布団をおりる。「そのたちの悪い笑顔だよ」と重い足をあげる。「おまえはいつも他人面して、自分は悪くないと被害者面して、誰とも向き合おうともしないで、そのくせ、いつだってまわりを注意深くうかがっていた。母ちゃんが窓から飛び降りたとき、(中略)こうして悲しんでいる姿を見せていれば自分の本心は見透かされないはずだという打算で最後まで行動しやがった。(中略)自分のなかの子供を殺すあの苦しみを味わうことからいっさい逃げるために親父にぎりぎりの食べ物を与え続け生かしながら、親父に罰を与えたい願望を叶えるための手段として、自分の心を犠牲にすることなく親父と永遠に縁を切るための道具として、俺を使おうとしやがった。この膿袋が。おまえのその暗さが、家族を壊したんだ」と押しつぶされようとする姿で寄っていく。

(小笠原瀧「夜の斧」)

 

 作品のクライマックスで、弟の光次郎が斧を持ち殺してやると叫んで父親に迫る。しかしその斧は、いつの間にか止めに入った主人公の京太に向けられることになる。仕事であれ親子関係であれ、強い責任感を自覚して子供から大人に成長しきれなかった男三人家族の中で、京太が一番たちが悪いと罵倒する。子供のままの意地の悪さで父親を飼い殺しにして自らの憎悪を満たし、同じ憎悪を抱く弟の光次郎に父親を殺すよう仕向けていると指弾する。光次郎の斧は京太に振り下ろされるが、彼は死にはしない。家族が抱える心の闇は近親殺人未遂という形で、再び生きている家族の中に差し戻されるのである。

 

 今号にはもう一作、佳作に選ばれた森井良氏の「ミックスルーム」が掲載されている。ゲイ小説にスキャンダラスという意味であれ新鮮味があるかどうかは評価が分かれるが、主人公は軽い精神疾患が原因で仕事を辞めている。上京した主人公は、「部屋」と呼ばれるゲイの出会いの場に出向く。そこで主人公は見知らぬ男たちに輪姦される。茫然自失の主人公は、シャワールームで自分を犯した男の一人と会話する。男はおまえも楽しんでたじゃないかと悪びれた様子もない。男は着替えて「部屋」を出て行くが、時計を見るともう乗るつもりだったバスの時間が過ぎている。主人公は着替えて男の後を追う。「お願い、帰れないの。今夜一晩だけ、俺と一緒にいて、間に合ったら、そう彼に頼むつもりだった」とある。

 

 今回の新人賞三作に共通しているのは強い閉塞感である。問題は明白であるはずなのに、近親相姦や近親殺人未遂といった形で、問題は問題そのものの中にとぐろを巻くように差し戻される。あるいは主人公たちは、「今夜一晩だけ、俺と一緒にいて」と嫌悪し憎悪しながらも自分の居場所に留まり続ける。このような解決はもちろん、進むべき方角すら見いだせない強い閉塞感が現在の文学の姿なのだろう。その意味で新人賞三作は優れた純文学作品である。しかし問題が提起されたからには、作家はいずれ解決を求めて新たに書き出されなければならない。

 

 少し前に短歌界で父親の死去をテーマにした連作が賞を受賞し、その後、父親が健在だとがわかって議論が巻き起こった。短歌界の議論だから例によって曖昧なまま終わったが、そこで問われていたのは短歌は作家の実生活を詠む芸術だという暗黙の了解である。それは私小説についても言えるだろう。板垣氏の家族に痴呆老人がおらず、小笠原氏に幸せな幼年時代の記憶しかなく、森井氏がゲイではないとしたらどうだろう。彼らが書いた作品は完全なフィクションだということになる。すべて虚構(嘘)だとすれば、なぜこのような重苦しいテーマを選び、なんの解決も示さずに問題を先送りしたのかの理由が問われる。また私小説でかつ内容が完全なフィクションであることは、従来の私小説とそれを護持するメディアへの痛烈な批判として作用するはずである。

 

 乱暴な言い方をすれば、テーマは重苦しいがその解決の糸口、つまりプロットが立っていない小説はだいたいにおいて純文学に分類される。そのような内的独白から構成される小説は、作家が作品世界よりも一段高い審級にいて問題を相対化して捉えていないと、一般読者からは支持されない。作家が世界を俯瞰するような審級に立って初めて読者の姿が目に入ってくるからである。作家がまず自分自身の救済のために書いた私小説を優れた文学作品だと認知させるには外的要素が必要だ。あからさまに言えば、あの数々の有名作家を輩出した芥川賞でも受賞しない限り、一般読者の興味を引くことはない。その意味で純文学の世界は特殊である。あるタイプの作家を売り出すことができるのは、その売り方のノウハウを持っているメディアだけなのである。

大篠夏彦