大野ロベルトさんの連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『No.003 内向きに開く書物』をアップしましたぁ。翻訳を巡るエセーです。「古いだけでなく、正しいと見做されたものが正典なのだろう。・・・要するに聖書のようなもの。・・・聖典は一つしかなく、二つ目から先はすべて偽書だという理屈が、残念ながら世間ではしばしばまかりとおる。・・・ところで正典は翻訳すればカノンで、原義をたどれば秩序であり規律である。・・・だが・・・カノンが古くはフーガと呼ばれていたことを、この人たちは知らないのである。フーガ、すなわち遁走曲。正典を愛するには、背を向けて走り去りながらでなければならない。秩序と規律は、常に意味と共に遁走を続ける」と大野さんは書いておられます。

 

ちょいと話が脱線しますが、不肖・石川の青春時代には、大学生にとっての〝知恵熱セット〟とでも言ふべき芸術パッケージがごぢゃりました。ヴェルレーヌ、ランボー、ロートレアモン、サドなどを読んでうーんうーんと唸り、人によってはヴィヨンやロンサールへと歴史を遡り、またある人はネルヴァル、ヴァレリー、マラルメ、ジャベスへと進んでゆくのですな。映画では最初の知恵熱はゴダールかトリュフォーあたりで、うんうん熱を出しながら、なぜかアメリカン・ニューシネマや日活映画に熱中したりするのでありまふ。英米ではヘミングウェイやフィッツジェラルド、イェーツやエリオット、パウンドなどが知恵熱の素材で、ピンチョン、バーセルミあたりで力尽きるのでごぢゃる(爆)。

 

こういった〝知恵熱セット〟は現在では霧散してしまったやうです。50年前、100年前、300年前の古典が現在と違うのは当たり前ですが、現代では戦後の長いと言えば長い期間、短いと言えば短い50年間ほどに新たに〝古典〟と呼ばれるやうになった作品の評価が揺らいでいます。あるいは現在の延長線上にある未来から、それら近過去の古典が再評価され、残るべき作品が残ってゆくだらうといふ気配が漂っている。ただ徒手空拳で素晴らしい作品が書ければいいのですが、文学の世界はなかなかそうはいきません。なんらかの形で古典に学ばなければならない。変動の時代といふこともあって、若い作家たちはけっこうな年齢になってから、それも一握りの文学青少年が、自らの意志で知恵熱にかかろうとするやうなところがあるかな(爆)。

 

もち不肖・石川は若い世代を批判しているわけではありません。拠るべき古典を信じ切れないのが現状の文学風土です。そのやうな文学風土が若い世代にとっての同時代・同世代なのであり、その共通基盤からどう才能を伸ばしてゆくのかが若い世代のアポリアです。大野さんは「大陸の詩人は島国に渡り、土地の詩人と出会い、根を張り、芽吹き、よろずの言の葉となった。その子供たちは何世紀かして、七色の舌を持つあまたの詩人たちと出会った」と書いておられます。御維新以降の文学者がやっていたことは、現在でも構造としては変わりません。ただ現代作家の場合、その質は変わってもらわないと困るわけです。文豪などと呼ばれなくても文学史に名前が残っている作家たちは、たいていの現存作家よりも優れた知性と感性を持っている手強い先達なのでふ。

 

 

大野ロベルト 連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『第二回 鞭もて駒を進めよ』 ■