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 料理の絵本である。写真でなくてイラストであることで、今ひとつはっきりしないところがあって、それがかえってよい。このように出来上がらなくてはならない、という強迫感が薄いのだ。そもそも自分で食べてしまうものだし、その家それぞれのものになればよい。

 

 レシピとは文学だ、とまで気取る必要はないと思うのだが、イラストで示されたレシピは、ある世界観のようなものを与える瞬間がある気がする。そこにはまず世界から与えられたものとしての材料がある。そしてその再構成としての料理。その料理は再び、我々自身を再構成するための材料となる。だから料理に示される自意識、オリジナリティは最小限のものである。

 

 写真には細部まで写りすぎるから、自意識なりオリジナリティなりが写り込み、そうなるとそちらにウェイトが置かれることになる場合がある。イラストは写真よりは描き手の個性が出るものだけれど、それだけに対象と自我とがきれいに分かれるところがある。

 

 写真で構成された料理本は、ごく実用的なものは別として、もしある世界観を示そうとすると、料理研究家の生活スタイルをリアルに描写した形をとることになる。そこでは料理はその生活、その世界の象徴としてはたらくことになるわけだが、読者が各家庭でレシピを再現したとき、その皿が置かれるテーブルが本の中の世界とかけ離れていることは言うまでもない。

 

 そんなことは当然だけれど、それでも本を手にしたときに見えていた世界像がくっきりしていれば、読者を一種の強迫観念へと追い込む可能性もある。世界は多様だし、どの瞬間にも変容するので、料理とはまさにそのような変容そのものを示すのだ、ということなのだが。

 

 『まあるいごはん』の目次には、さまざまな国々を彷彿とさせる楽しい言葉が並んでいる。そこにあるのはフランスのイメージであり、東南アジアのイメージである。そしてどこの国にも属さない、あわただしくも普通の家庭のイメージ。それは描線と色であり、言葉であるから誰をも追い詰めない。あるべき理想ではなく、通りすがりに振り返った光景の記憶のようだ。

 

 実際には、たとえば当の料理研究家の生活そのものだって、そこに写し出されたものとは、ずれがあるに相違ない。虚像がうとましいわけではない。ただ虚像が、そこにあるものの魅力を失わせることがつまらないのだ。そこに、そのままあるもの。それが世界を構成している。

 

 本を、絵を、料理を作る者もまた自分自身であることによって、対象を解放する。巻末にあるのは、著者の友人たちによる簡単レシピだ。いやレシピとも言えないような、たらこにコーヒー用ミルクをかけただけとか、茄子を炒めただけとか、いずれもやってみたくなる。たらこや茄子は世界において与えられたそれそのものとして、その描線や色が生きいきと思い浮かぶのだ。

金井純

 

 

 

 

 

 

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