* コルネリス・デ・バリューア「蒐集家のギャラリー」1635年頃、レジデンツ・ギャラリー(オーストリア)蔵。
『無名草子』は、ひとりの寂しい老尼の登場で幕を開ける。八十三歳という高齢であり、しかも、仏道に入った人であるにもかかわらず、この老尼は非常に人間臭い。長い人生がそろそろ終わろうというのに、生き甲斐もなく、死後に誇れるような形見もない。そんな孤独に堪え兼ねて仏教に帰依したのはいいが、悟ることも、安楽を得ることもできない。
老尼は朝ごとに花籠を持ち、自分の涙のようにも思える露を払いながら、相変わらず悲観的な思考を続ける。「いよいよ頭の雪積もり、面の波も畳みて、いとど見まうくなりゆく鏡の影も、我ながらうとましければ……」つまり、白髪は増えるし、皺は増えるし、もう鏡を見るのもいやになる、というわけである。なんだか俗っぽくも思えるが、結局これがいつの世にも変らない老いへの悲嘆であろう。そうしてぶつぶつ言いながら花を摘んで歩くうちに、老いを託つ時間が長すぎたのか、もう日が傾いてくる。そこで老尼はどこでもいいから休む場所はないかと、「三界無安、猶如火宅」(この世は安らかなことがない)とまたしても後ろ向きにつぶやきながら歩いてゆく。すると、最勝光院という寺の大門が開いているのである。
と、以上が導入部だが、それは決して孤独な老人の愚痴を並べただけの、笑いを誘うような文章というわけではない。例えば「頭に雪が積もる」、「鏡の影」という表現は、次のような和歌を連想させるものである。
むばたまのわが黒髪に年暮れて鏡の影に触れる白雪
(紀貫之、拾遺集、雑秋、一一五八)
あらたまの年のをはりになるごとに雪もわが身もふりまさりつつ
(在原元方、古今集、冬、三三九)
行く年の惜しくもあるかな真澄鏡見る影さへにくれぬと思へば
(紀貫之、古今集、冬、三四二)
一首目の歌では、「黒髪」と「白雪」の対照が、一年の終わりに鏡を覗き込む行為を通して、年の瀬の感慨と、老いてゆく自らの姿とを重層的に表現している。年末に降る白雪は、老年の象徴としての白髪という意味を獲得することで、自然の景物を超えた概念となる。
二首目の歌で対照されているのは、「あらたま」と「をはり」である。つい先日、新しい年がはじまったと思ったら、もうその年が暮れようとしている。したがって「降る」雪は、時を「経る」ことで自身もいよいよ「古」くなってゆくことを実感させる。
三首目はふたたび貫之の歌である。ここには雪は登場しないが、一首目と同様に鏡が登場する。しかし「真澄鏡(ますかがみ)」とは何だろうか。それは「増鏡」の古い形であり、その「真に澄んだ鏡」は、時を経るほどに「増し」てゆく思い出と、蓄積されてゆく感情を映す鏡なのだ。二首目の「ふりまさり」にも、この「増す」の反復があると言える。そして一年の終わりである冬は、人生の冬を象徴する。死にゆく我が身を思うにつけ、心は暗くなりがちである。「暮れる」のは年だけではなく、心でもある。
要するに、老尼による老いへの嘆きには、過去に積み上げられてきた和歌表現による連想が生かされているのである。「頭の雪」「鏡の影」などのキーワードにより、当時の読者は容易に上に挙げたような和歌を想起することができた。そしてそのことにより、単に老いを拒絶しているだけのように思える老尼の言葉に、より普遍的な、限りある人生に対する情念を織り込むことができるのである。
さらに『無名草子』の場合、そこに仏教の文脈もはっきりと設定されていることは無視できない。主人公が尼であること、そしてその主人公に仏語をつぶやかせることで、和歌による連想に、さらなる無常観が付け加えられている。
『無名草子』が書かれたのは、『古今集』や『拾遺集』が編まれたのよりもはるかに物騒な時代のことである。そこへ来て末法思想も広まっている。釈迦の死後から二千年を経て、世は末法の時に入った、という考えが広まるのは平安中期であるが、十一世紀に入ると、摂関政治の衰えと共に武士が台頭し、いよいよ動乱の世となる。有力な諸寺には腐敗が目立ち、僧侶たちも武器をとり戦に参加するようになる。末法の世には何をしても悟りに達することができないと言われるが、当時の社会情勢はまさにこの思想を裏書きするものであった。現代人であるわれわれにも、末法ならぬ世紀末に特別な意識を持つ傾向はある。二十世紀の末、国内外の大災害やテロリズムの話題を耳にしながら、ときおりノストラダムスの人類滅亡の予言を思い浮べることがあったのは記憶に新しい。ましてや千年前となれば、人々の不安は比較にならぬほど深刻であったろう。
だから『無名草子』に「三界無安、猶如火宅」という『法華経』の言葉が引用されるとき、そこには仏教の無常観のみならず、その無常観を拡大するものとしての仏教の存在そのものが強調されることになるのである。主人公の老尼も、出家してその世界の住人となっている。老尼の世界に対する一種の諦念は、そのまま自らの人生に向けられたそれと重なり合う。
要するに『無名草子』の冒頭箇所は、膨大な描写を行う代わりに、ほんのいくつかの表現を引用することで、老尼の置かれた文化的状況と精神状態とを、かえって明確に規定することに成功しているのである。それはまるで老尼の孤独を、他のテクストとの関係によって埋め合わせようとするかのようでもある。
さてこのようなことを可能にしているのは「間テクスト性」に他ならない。この概念は、『ドストエフスキーの詩学』などを著したミハイル・バフチンの言う「多声性(ポリフォニー)」に端を発している。小説の登場人物は、それぞれに独自の声を持っている。ある小説をまえにして、登場人物たちはいずれも作者の分身である、と言ってしまうことは容易い(そして時には、それが有意義である場合もある。例えば三島由紀夫の『鏡子の家』の場合のように)。だが小説を純粋にテクストとして捉えた場合、そこに存在しないはずの作者の分身として登場人物を見ることにはやはり違和感がある。登場人物はテクストが存在するかぎりにおいて、やはり実在する人間である。つまり小説は、彼らの言葉を引用することによって成り立っている、と言うこともできるわけである。もちろん、これを敷衍すれば、「多声性」を作りあげているのは登場人物の「声」に限った話ではないということになる。テクストそのものが、様々な「声」の反響によって形づくられる対話なのである。
この「多声性」を元に「間テクスト性」という用語を導き出したのが、それまでロシア文化圏の外では知名度のなかったバフチンを西洋世界に紹介したジュリア・クリステヴァであった。彼女は『セメイオチケ』所収の文章でこう述べている。あらゆるテクストは「引用のモザイク」であると。テクストは単体で独立してそこに存在するのではなく、すべて過去のテクストの引用によってから成り立っているのである。完全に新しい言葉など存在しない。それはすべて過去に、誰かが、何らかの形で使用した言葉の再利用であり、再解釈であり、コラージュである。
もちろん、間テクスト性は物語のテクストにのみ当てはまる概念ではない。例えば、掲載写真の絵画を見てほしい。
コルネリス・デ・バリューアの「蒐集家のギャラリー」と題されたこの作品は、1635年頃のものである。大きく切った窓からたっぷりと陽が注ぐギャラリーで、紳士淑女が美術品を鑑賞している。画中に描かれている多くの絵画のなかには、実在するものもあるだろうし、また、実在の絵画の似姿であったり、ある系統の作品の典型であったりする例もあるだろう。机の上には、貝殻や科学の実験器具、中国の磁器といった、好奇心をあおる小物も配置されている。つまりこの作品は無数の絵画やオブジェからの引用で成り立っているのであり、この作品を観る者はその強調された間テクスト性ゆえに、この入れ子式の絵画をとくに愉しむことができたのである。事実十七世紀のオランダではこの種の絵画が流行し、「好事家のギャラリー」と呼ばれる一つのジャンルを形成していた。それに、バリューアの一家は画商でもあり、これらの絵画は、即売会でカタログの役割をしていたとも考えられるのである。
間テクスト性を巧みに発動させることで、『無名草子』の冒頭箇所はわずかな言葉で、多くの和歌により蓄積されたイメージの群と、末法の世界観とを取り込んでしまう。しかし『無名草子』全体で見れば、このような間テクスト性はまだまだ序の口なのである。
大野ロベルト
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