性にまつわる全てのイズムを粉砕せよ。真の身体概念と思想の自由な容れものとして我らのセクシュアリティを今、ここに解き放つ!
by 金魚屋編集部
小原眞紀子
詩人、小説家、批評家。慶應義塾大学数理工学科・哲学科卒業。東海大学文芸創作学科非常勤講師。一九六一年生まれ。2001年より「文学とセクシュアリティ」の講義を続ける。著書に詩集『湿気に関する私信』、『水の領分』、『メアリアンとマックイン』、評論集『文学とセクシュアリティ――現代に読む『源氏物語』』、小説に金魚屋ロマンチック・ミステリー第一弾『香獣』がある。
三浦俊彦
美学者、哲学者、小説家。東京大学教授(文学部・人文社会系研究科)。一九五九年長野県生まれ。東京大学美学芸術学専修課程卒。同大学院博士課程(比較文学比較文化専門課程)単位取得満期退学。和洋女子大学教授を経て、現職。著書に『M色のS景』(河出書房新社)『虚構世界の存在論』(勁草書房)『論理パラドクス』(二見書房)『バートランド・ラッセル 反核の論理学者』(学芸みらい社)等多数。文学金魚連載の『偏態パズル』が貴(奇)著として話題になる。
三浦 タワマン殺人事件があったんですよね。前回、私が話したみたいに、営業用のスマイルに騙されて事件が起こった。気持ちわかるな。仲良くなれたつもり、というね。
小原 オジサンの気持ち…。
三浦 今日のテーマは結婚制度だけど、あの事件も結局、「結婚」が原因なわけですよ。
小原 そうですかね?
三浦 結婚するからって言われて。結婚という制度さえなければね。なければというのは極端だけど、子供ができたときに初めて結婚、という制度になっていれば、あんな事件起こらない。普通の男女の付き合いには、国家権力は介入しないじゃないですか。
小原 恋愛詐欺もありますけどね。
三浦 その恋愛詐欺が、なぜ成り立つかっていうと、背後には「結婚」がある。いずれ結婚できるとか、そういう望みをほのめかすわけだよ。それで、やっぱり恋愛詐欺が起こりやすくなる。
小原 そうですかね。宗教団体で壺を買わせるとか、さまざまな詐欺が存在する。結婚だけが特別ですかね。恋愛関係を含めて何かの錯誤を相手に催させて、それで金品を巻き上げるんだったら。
三浦 婚姻関係の外の恋愛っていうのは、これは不法行為なんですよ。つまり結婚を仄めかすというのは、法的独占権を餌にするということだから。
小原 あー、いわゆる不倫があればね。でも何か錯誤させて、それが原因で金品を渡したっていうことであれば、それは全部一通り、詐欺でしょう。その上で不法行為があれば情状酌量の余地はあるかも。でも詐欺罪が不成立ってことはないんじゃないの。
三浦 結婚をちらつかせて、期待を持たせて騙しやすくなっている。いったん結婚しちゃったら強固に法的に保護され、なかなか別れられない関係になれるから、結婚に釣られる。その結婚へのハードルがものすごく高いものになれば、詐欺は激減しますよ。
小原 そりゃ「結婚詐欺」と呼ばれるものの数は、減るかもしれませんね。だからといって騙される人の総数が減るかは、わからないけど。
三浦 結婚って、ものすごく確立された慣習というか、法的制度だから。皆さんあまり意識してないだけで、かなり犯罪とか不幸の原因になっていると思いますけどね。
小原 それは思わないな。そういうケースもあるし、そうじゃないケースの方が、むしろ多いので、制度が保持されているんでしょうし。
三浦 多くの人が結婚するから見えなくなっちゃってるだけで、損失の方が多いんじゃないかな。
小原 メリットがあるから、多くの人が結婚しているんじゃないですか?
三浦 結婚制度がない方がいいと言っているんじゃなくて、子供がいる場合のみ結婚を認めるっていう制度がいいと思うんだよね。
小原 そういう考え方はあると思いますね。フランスなんか実情、それに近いようなことになっているし。あの人たちは、子供がいても結婚しないけど。
三浦 だって恋愛と結婚の違いは、やはり次世代を育てる責任を負っているかどうかっていうことで。だからこそ法的に保護する価値があるわけですよ。
小原 田舎のオヤジの結婚式のスピーチみたい(笑)。金井美恵子さんも大昔、そんなこと言ってたなあ。金井さんが言うなら、そうなんだろうと当時は思ったけど(笑)。
三浦 小原さんもそういえば、子供いないですよね。
小原 そうそう。
三浦 子どもがいない場合って、こう言ったらなんだけど、結婚の意味ってありますかね?
小原 どうでしょうね。ただ結婚っていう制度はとても便利。おっしゃる通り社会に守られている。子供もいないのに、いいとこ取りしているかもしれません。
三浦 守られるのと引き換えに、他の人との恋愛関係とか性的関係に入ることを禁じられるわけじゃない。これはどうなんですか?
小原 その人のタイプだと思うんですね。それを禁じられることを非常に不快だって感じる人は、結婚には向いてないんだと思う。
三浦 実際どうかっていう話ではなくて、潜在的にそれを禁ずる意味ってあるんですかね。潜在的に、いわゆる不倫を禁じられている状態に自分を置くということ自体、どうなんだろうって私は思うんだよね。
小原 逆の捉え方もあるんですね。もう他の人とのそういう関係を勘案しなくていい、免除されている。そんな面倒臭いことは考えなくていいんだっていう。
三浦 今は性的自由が尊重されているから、断る断らないは自由だから、そのメリットはもう無に等しいとは思いますけどね。
小原 無に等しいかどうかは、それぞれが感じることなんで。断ることすら面倒臭いし、他にやることがいっぱいあるから、もう関わり合いたくないんですよね。「華麗にスルー」の便利さ。
三浦 その便利さっていうのは、現行の結婚制度そのものがなければ全員が享受できる便利さ、なんですよ。
小原 すみませんね(笑)。
三浦 二者関係としての結婚の意義がいまいちわからないんだよな。
小原 (そりゃわかんないでしょうよ、と思ったが言えず。)
三浦 子供を育てるという以外の意味が、さ。
もう一つの出来事として共同親権の法案が成立したじゃない。あれはどう思いますか。
小原 最初はね、やっぱり危険なんじゃないかと思った。早く旦那さんを排除したい母子家庭にとってはきつくないかって、思ってたんですよ。
でもよく考えたら、DV等のケースでは危惧されるけど、それほど多くないかもしれない、と。男が常に暴力的で妻子に害を為すとは限らないし。そうではない離婚も実はパーセンテージとしてはかなり高いんじゃないか、と。
三浦 これは本当にデータが必要でね。ただDVが原因の離婚は実際、ものすごく少ない。しかも新しい父親からのDVの方がはるかに多いわけだから、再婚後のDVを防ぐっていう観点からすると、やっぱり共同親権の方がいいんですよ。元の父親が口出しできた方がいい。新しい夫に迎合して実母がいっしょに虐待するなんてこと、いっぱいあるわけで。
小原 ケースバイケースだから。DVのケースは、そういう家庭を保護する別の施策を取ればいいだけのことであって、共同親権そのものは確かにメリットが大きいのかなっていう気もしてきた。
三浦 しかも今度成立した共同親権の法案っていうのは、DVとか疑われる場合には簡単に単独親権が認められるし、あと必ず共同親権というわけではなくて、選べるようになったというだけだから。やっぱり良くなったと私は思いますね。今までは強制的に単独親権でしょ。これすごく非人間的な制度だと思うね。
小原 子供にとってもどっちか選ばされるっていうのは辛いこともあるでしょう。
三浦 いきなり親が一人になっちゃうわけでしょ。とんでもない話だよね。
ただ単独親権にできる条件がすごく緩くて、実質上変わってないからダメだって言ってる人も多いね。
小原 何をやってもダメだって言われるんですよね。政治家って大変だよね。
三浦 だから結局、結婚は子供中心のものだっていう意識が広まれば、かなり社会は良くなると私は思います。
小原 わたし、子供だからさ(笑)。わたしのためのものなんだよ。
三浦 養子縁組とかそういうこともできるわけだから。財産を残すとかいう話よ。
小原 真っ平だよ。全部使い果たしてやる(笑)。
三浦 上野千鶴子も実は結婚していたとか。結婚をあれほど批判していた人が。
小原 そうねえ、結婚制度は便利だからね。
三浦 パートナーに遺産を相続させたいからって、そんなもん別に結婚する必要ないんでさ。養子でも遺言書でもいいしさ。
小原 配偶者の方が税法上、有利は有利ですね。まあでも養子にしようと、配偶者にしようと、それは上野さん個人の勝手だからさ。好きにしたらいいと思うけど。ってか、生まれて初めて上野千鶴子さんを擁護したわ(笑)。
三浦 財産を相続するなんてことは、子供に限るっていうふうにした方がいいと思うね。配偶者なんて、他人同士が結婚しましたっていうだけで財産を相続するってどうなのかなって言われちゃう。
小原 財産をそれぞれに作ったんならそうですけど、結婚するとやっぱり一緒に財産を形成するんですよね。奥さんはご飯作ってただけ、って言っても、やはり資産形成には奥さんの力が蔭に日向に寄与している。
三浦 どうなのかな? 子どものいない専業主婦ってどう考えても不可解なんだけど。私はずっと一人だけどさ。確かに家の中、めちゃめちゃ散らかってて不便ではあるが、いちおう一人で暮らしていけるわけですよ。で、これ専業主婦が家にいてね、便利になるかっていうと、そうは思えないんだよね。
小原 他人がいるってことに対するストレスって意味では、そうかもしれないですね。
三浦 マイナスになるかどうかわかんないけど、プラスにもならないような気がするんですね。家事も簡単になってるし。
共有財産って共同で作ったって言うけれども、離婚のときは財産分与って言うけれども、家事のみをやってくれる人がそんなに貢献しているのかっていうのはちょっと疑問ではありますね。
小原 パートナーとして一緒に暮らすということは、たとえ家事担当だとしても家政婦として雇われることとは違いますよね。もし同じに扱われたら即離婚になるぐらい。まあ、状況に応じて話し合いになるんでしょうけどね。
三浦 サラリーマンで給料を受け取っている人の場合には、何もなくても給料が上がるわけじゃないじゃないですか。結婚して家事する人が入ってきたからといって急に上がったりしないでしょう。
小原 サラリーマンの場合にはそうですね。でも二人で一緒にいると、生活がレベルアップしちゃうでしょ。
三浦 そこはよくわからないなぁ。同じ会社に勤めている二人がいて、一人はずっと独身でしたと。もう一人は結婚して、二十年間子供がおらず、奥さんは専業主婦でしたと。で、結婚したからといって昇進しやすいとかっていうデータあるのかどうかわかんないけどさ。
それで、同じような地位にいて、二十年後に離婚しましたと。財産分与で、増えた半分を妻に渡します。ともに独身の生活に戻りました。ある時期、専業主婦と暮らしていたから財産が半分になるというのはどうなんだろう。
小原 離婚を見込んで結婚する人はいないですから。単純にヘタを打ったということでしょう(笑)。
まあ奥さんの出来にもよるって言ったら悪いけど、独身男性が一人で暮らしているのと、よくできた専業主婦と二人で暮らしているのでは、やはり生活のレベルは違いますよ。
三浦 子供がいればその理屈はわかるな。
小原 子供がいれば、違いは誰が見てもわかる、ということですね。
子供がいなければ、その違いを評価できない人はいると思います。そういう人は独身でいればいいんです。だけど結婚している人は、それに対して評価をするという選択をして、合意して一緒にいたわけでしょ。
三浦 合意って、いや、わかりませんよ。若い頃って割とさ、勢いで結婚するじゃない。私も若い頃はもう、すごく好きな人っていたからさ。
小原 大人が婚姻という一種の契約を結んだんですから、その契約に基づいて相手の存在を評価するという決断をしたわけです。離婚はいわば契約解除ですから、財産分与の妥当性を考えるにあたっては、結婚は勢いだったとか、どのくらい好きだったとかは関係ないじゃないですか。
専業主婦の実労時間がどうであれ、芸能人の専属契約と同じで、婚姻期間中は休日もなく家庭に責任をもってもらっていた。その二十年間を享受した後、「このぐらいのことなら自分でもできた」と言い出して裸一貫で追い出すことが理にかなっているのか、という話です。それは高級ホテルに泊まっておいて、「飯食って寝るだけなら安宿でもよかった」と言い出して宿代を踏み倒そうとするのと同じですね。そんな客だとわかっていたら、ホテルも別の客を泊めたでしょう。奥さんだって二十年の間にはもっとマシな男と出会えた可能性があったし、独身時代の仕事を続けることもできた。専属契約とは、すなわち選択肢を奪った対価のことです。自分だけでなく、相手の可能性をも狭めるリスクに耐えられないなら、結婚なんかしないことです。
三浦 だから、子供が居なければ二人とも働けばいいじゃない。なんで子なし専業主婦なの? そもそも財産分与とかそういう制度がなければさ、子供のいない専業主婦も激減するだろうと私は言ってるわけ。
小原 最初から離婚しようと思って結婚する人はいないから、財産分与のことなんか考えてる人は、そもそも結婚しないと思いますね。あるいはアメリカのように婚姻時に契約を結ぶか。
三浦 子供の世話を含む家事は、私は大いに評価しますよ。子供がいれば家事労働も大変だろうし、財産分与も当然ですよ。
小原 子供に対する財産分与ってことですかね。
三浦 いや本人、妻に対するものですよ。子供を産んで育てて貢献するっていうのは、ものすごいことであってね。
小原 それは何に対する貢献なんですか?
三浦 家族を作るということですよ。子供のいる家族とそうじゃないのとは全然違うと私、思ってるわけね。
小原 全然違うけれども、子供を作って、何に貢献するんですか?
三浦 だから国家に対する、国家の損得に対する貢献ですよ。
小原 産めよ増やせよで国家に対して貢献したと賞賛することと、個人間での私有財産の分割問題は、まるで関係ないじゃないですか。
三浦 財産をどのように分与して、国民がどのように生活するかっていうことは、国家にとって重要な問題じゃないの。
小原 問題の審級を混同しています。なんでここで急に国家が出てくるんですか?
二十年間連れ添った奥さんと別れるとき、二人で財産をどのように分割すべきかという人事上の問題と、国家に対する貢献とは無関係ですよ。
三浦 だって法律で決められるんだよ。財産の分与の仕方っていうのは。
小原 法律だからって、国家さえ持ち出せば何でも正当化されるわけではありません。民法の原理は、あくまで当事者間の契約に基づき、両者の利害のバランスを取るものです。国家的価値を勘案するような民法があるとしたら、そもそも違憲です。離婚の人事も民事に準ずるものですから、「法律で決められるんだよ」ということなら、法に従って分与したらいいんじゃないですかね。
三浦 じゃあ、なんで恋愛関係の場合には財産分与が起こらないのかってことですよ。たとえば十年間、恋愛関係でした。結局は別れました。財産分与なんかないでしょ。
小原 それは制度に基づく「婚姻」=「契約」がないからです。契約がなければ、民法だって構造上、発動のしようがないでしょう。
三浦 確かに子供がいたら結婚制度も意味がある。子供がいる結婚は、私は大いに認めてるわけ。
小原 三浦さんがその意味を認めようと認めまいと、結婚制度は現存している。その制度をわざわざ自ら選んで婚姻=契約を結び、長年にわたって相手の専属的な家庭内労働を享受していた事実があるならば、それに対する対価を求められるのは仕方ないんじゃないですか。
三浦 いや、だから、そうならないシステムの方が、子供のいない専業主婦なんてものが激減することになっていいだろう、と私は言っているんですね。その方が経済的にも正常。子供のいない女性はどんどん働けばいいじゃない。
小原 いいだろうと、わたし個人も思いますけど、人の価値観は多様です。
だいたい世の中にはさ、すごいお金持ちっているんですよ。奥さんに働いてもらいたいなんて、露ほども思わないおうちがいっぱいある。それでも伴侶が欲しくて結婚する。子供がいようといまいと、労働力を得たくて結婚する人ばかりではないんです。働き方だっていろいろだし。どこかに宮仕えして、給料もらうだけが働き方じゃない。
三浦 それは別に、男だけが金持ちっていう前提は取っ払ってもいいでしょうね。
小原 もちろんそうですよ。いわゆる専業主婦で、不動産をいっぱい持っている人もたくさんいる。そういう専業主婦なら子供がいなくても許す、とかですか? すると国家への貢献とやらはどこいくんですかね。
三浦 いや、子供のいない専業主婦っていうのが女性に極めて多いという非対称がおかしい、と私は言ってるわけです。女性の場合だけ、それが許されるじゃない。
小原 そりゃ、主婦ってのは女性を指す言葉ですからね。ただ家にいて、労働者でない男の人もたくさんいますよ。
三浦 いるけれど、公認されないよね。そういう生き方っていうのが。
小原 とんでもない。それこそファイアー、成功者じゃないですか。四十歳ぐらいまでに資産を作って、サラリーマンをやめて、資産運用なり趣味的な仕事なりで暮らすっていうのが今、男の人の一つの目標になってますよ。
一方で今は皆、元気なのに六十歳、六十五歳ぐらいで定年になって、あとは年金や老後二千万円を目指して貯めた資産を運用して暮らす。つまり六十歳や六十五歳になると自動的に皆ファイアーするとも言えるわけですけど。それより若い頃に勤め人から足抜けする成功者って、いっぱいいるんですよ。そうなった男の人って、専業主婦以上に何もやってませんよ?
三浦 そういう男も、子供が要らないんだったら結婚する意味はありませんよ。男だろうが女だろうが子なしならただの恋愛関係でいいでしょ。そもそも男だけなの? 独力で勤め人から足抜けって生き方を目指すっていうのは。
小原 女性はファイアーしようとしまいと、どっちみち家事はするし。
三浦 だから、そのような役割分担が決められている、暗黙的に決められたってことが、やっぱり私はおかしいと思うわけですよ。
小原 役割なんかないですよ。資産を持って自由に生きている男の人は、奥さんが嫌がっているのに家事労働なんか押しつけない。面倒なら家政婦を雇えばいい。
料理が好きな男の人もいますよ。そういうカップルは、労働力とか役割とかじゃなしに、ただよりよい生活のために適当に動いている。子供がいても、大変ならシッターがすべて世話をします。それでも互いに伴侶として必要で、心の支えだと感じている。そんな人たちに面と向かって、意味のない結婚だからよせ、って言えますか? あたしゃよう言わん。こういう人たちは人数的には少ないかもしれないけど、高額納税者です。国家への貢献、ということを言えば、ですけどね。
いずれにせよ自分の周りの半径五十メートル以内にいるサラリーマンを基準にして、世の中全体の原理原則を見極めるのは困難だ、ということです。勤め人でなければ、彼らを雇う側であったり、自営業者であったりして、奥さんとそれこそ一心同体で働いてますし。多様な家族の関係性に対して、外からの類推であれこれ言うのは僭越でしょう。
三浦 ここで話を広げると、いろんな背景から同性婚の話も絡んでくるわけです。なぜ私が、子供のいない結婚は認めない方がいいと思っているか、なぜデキ婚を基本にすればいいと思っているか。そうすれば、つまり異性婚に制限をかければ、同性婚が認められていないという不満がなくなってくる。同性カップルも、養子をとって子供を育てるぞってときにお役所が結婚を認めればいい。そしたら異性婚も同性婚も平等になるじゃないですか。子供がいる人は、同性だろうが異性だろうが、結婚させましょう。子供がいない場合には結婚を一律に認めない。それで同性愛差別が解消です。
小原 それは一つのやり方かもしれない。
三浦 ついこないだも、二丁目に行ってゲイの方々とお話ししてきたんですけど、そしたら同性婚に関しては別に望んでなさそうだった。気ままな生活をしたいと思っている。「結婚しないの?」とか言われないぶん楽だって。
でも子供を一緒に育てるってことになったら、やっぱり落ち着きたいでしょう。結婚っていうのは、子供を育てるかどうかですよ。
小原 二丁目にいるそのゲイの人は、そうかもしれないけど、周辺の聞き込みだけではどうかなあ。
三浦 では小原さんは? 今の結婚制度に、特に異論はないんですか?
小原 ないですね。
三浦 私はもう、今の結婚制度は諸悪の根源だと思っているからね。
小原 やはり自分の利害に関わると、思うところが出てくるものでしょうね。今は特に不満や不便を感じない、っていう意味で、異論はないですね。不満があれば、離婚すればいいだけだから。
三浦 いくつのときに結婚したんでしたっけ?
小原 二十九です。
三浦 やっぱり二十代か。私も昔は結婚批判なんて別にしてなかったし、若い頃に恋愛がうまくいっていれば結婚した可能性はあると思いますね。当時、一番好きだった人が私のアプローチにしかるべく乗ってくれていたら。現実は、断るでもなく、みたいな感じで生殺しにされちゃったんで。それがうまくいってれば、私も結婚して、結婚観も変わっていたかもしれない。三十代ぐらいになってくると、だんだん世の中がわかってきて、一人で過ごしている時間も長くなってくると、スタイルができちゃって。
小原 すべての人に関わる制度を変えたいというモチベーションが、たまたまのポジショントークになるのは、どうなんだろう。それを言ったら、わたしが特に変えたいと思わないのも自分の立場によるものかもしれないけど。
三浦 世の中を見ると、結婚ってなんか、すごいトラブルの原因になってるじゃないですか。
小原 お金とか学歴とか、人が欲望を掻き立てられるものはすべてトラブルを起こす。だからなくしてしまおう、とはならない。運動会で一等賞をなくすために、徒競走そのものをなくすぐらいなら、別にいいかもしれないけど。
だいたい十人十色、十組いれば十通りの結婚があるでしょ。「結婚とは」って理論で括るってのが、そもそも独身者の発想というか、特権というか。
三浦 でもさ、法制度への賛否っていうのはそういうものだから。やっぱり最大多数の最大幸福を目指すべきなんで。
小原 はっきりした反証が出てこないかぎり、やはり現状が最大多数の最大幸福と見做されるんですよね。
三浦 そうなのかな? だって結婚という法的な枠組みなしで一緒にいる方が自由だし、自由意思で一緒に居続けるという実感が強くならないかな。
小原 別に強くならなくていいです。もしすでに世の中がそういうふうになっているなら、それが一番いいと感じるかもしれませんけど。全員フランス人ね。ただ、現状を意図的に変えようとすると、また鬱陶しいことが増える。鬱陶しいことから守ってくれるのが結婚のいいところなのに。
三浦 鬱陶しさを無くすとしたらユートピアを想定することになるけど、ユートピアではやはり徹底して子供中心、子供なくして結婚なし、っていう制度にならざるをえないんじゃないか。
小原 そこまでラディカルに社会を変容させるのであれば、子供も社会が育てるようになってるんじゃないかな。子供は親が育てなきゃいけないっていう、その枠組み自体もどうなの?
三浦 社会で育てるっていうのは、非常に抽象的でさ。
小原 結婚制度をそこまで変える必要性ってのも、ひどく抽象的ですよ。
三浦 いや、結婚を子供がいる場合に限定するっていうだけの小さな変更だから。
小原 それは結婚制度の改革ではなく、結婚という概念をなくしたい、ということですよね。あるいはその言葉の定義を変えたい、と。
もしユートピアを夢見るなら、それを子供中心にしたいと言うなら、不幸な子供をなくすことが子供中心の本質でしょう。ユートピア的には、やはり社会が子供を育てる方向にいくんじゃないですかね。
三浦 でも社会が育てるっていう具体的なイメージは、人によって違うじゃないですか。またそこで議論が起こらなきゃいけないわけで、やっぱり家族で育てるっていうのが一番わかりやすい。これまでのそれこそ文学的な遺産っていうのは、それを前提にしていて。で、父親・母親っていう概念がもし薄くなったら、これまでの文学作品の理解もおぼつかなくなってくるし。
小原 わかりにくいからやめよう、みたいな雑な話なら、そもそも結婚制度を変えるなんて大仕事はできないですよね。
それに、現実の人の幸福に直結する制度に関する話で、文学的な遺産がどうのこうの、ってズレすぎてませんか。飢えた子供の前では文学なんか不可能に決まっている。文学もまた、現実に即して変わるべきもので、人の幸福を犠牲にしてまで保護されなくてはならないなら、過去の文学遺産なんか滅びればいい。
三浦 いや、愛し合ってる二人が一緒に暮らすっていう形態は私は否定しないわけだから。いくらでも同棲していればいいでしょ。それが結婚という法的な保護に値しないと言ってるだけの話だよね。
小原 保護に値するものが子育てだけだ、というなら、子育ては徹底して保護されるべきでしょう。「愛し合ってる二人」の定義はさておき、両親がいる家庭が唯一の素晴らしい子育て環境だっていう、その固定観念もしっかり検証されなくてはならない。
三浦 いや、死別する場合もあるし、もうそれは仕方がない。
小原 仕方がないとか、あるとか、それって第三者が決めることなんですかね。そういう上から目線が片親家庭を不幸にしてるんじゃないですかね。
三浦 そういう子供は今もいるし、だからそのように結婚制度を変えても別に悪くはならないわけですよ。それだけの話ですよ。
小原 制度を大きく変えるのは社会的なコストが膨大にかかるから、それに見合うだけの結果が見込めないと、限りある予算の無駄にもなるから。「別にそうしてくれたっていいじゃないか」という要望を出すのは勝手だと思いますけどね。
本当に子供中心、子供にとって何が一番いいのかっていうことを真面目に考えていて、そのためには現状の結婚制度も壊したいとまで言うんだったら、子供にとって本当に理想的な生育環境は何なのかってことからちゃんと検証されないといけない。「ただ雰囲気として、お父さんとお母さんがいて、みたいなのがいい感じだし、そこからこぼれ落ちちゃった子供は今だっているんだから、新制度で救われなくても別にいいんじゃない」なんて話なら、「子供のため」なんて言い出すのはおかしい。
三浦 法制度が、子供が必須であるというふうに表向き変われば、結婚する当事者の意識、子供に対する意識ですね、大いに変わるじゃないですか。
小原 それは「結婚」の概念が変わるわけだから。変わるのは意識ではなく、言葉の定義でしょう。
三浦 今はそうじゃない人が多すぎるんですよ。
小原 子供を作る覚悟と結婚の意志とが直結しない、ということですね。田舎のオヤジもよくそれを批判するし、批判は自由だけど、それは子供たちの幸福のためじゃないですよね。自分たちのイエとか、固定観念的な価値観を守りたいだけですよね。
何が納得いかないかと言うと、「子供」が単なる口実に使われている。「独身者や同性愛者が肩身の狭い思いをしない社会にしたい」ということなら、それは賛成です。だけど、そのために結婚制度をいじりたい、となるとLGBT法案と同じ批判を受ける。それを避けるために「子供のため」と言い出している気がする。子供の福祉は、独身者や同性愛者の「お気持ち」どころではない重大な課題です。そんなことを言い出せば当初の結婚制度うんぬんなんか吹っ飛びますよ、と言っているんです。
三浦 いや、だから子供というのは、社会的貢献全般の一つの象徴なんですよ。
小原 そうでしょうね。子供のことに切実な関心があるわけない。
三浦 つまり社会への貢献ということですよ。なぜ男女の関係を国家が保護するか。たとえば男性同士・女性同士の友情関係、男女の友情関係を国家は保護しませんよ。友人関係を保護して税制を優遇するとかしてない。男女の恋愛関係も保護する価値を認めない。ではなぜ結婚を保護するか。子供を作って家族を作り、子供を育てて次世代を育てるってことになるから国家が関与するわけですよ。それしかないんですよ。
小原 審級の混同がすごく気になります。「法」と言うべきところで「国家」という言葉がちょいちょい出てくる。「法」と「国家」は同一ではないですよ。
子育てに国家への貢献という側面があるのは、その通りです。それに報いるには、直接的な子育て支援や優遇措置をいくらでもすればいい。一方で結婚制度は「国家」によって保護されているわけではありません。憲法や民法、すなわち「法」に規定がありますが、それは一般の契約も同様です。
先ほどから聞いていても、具体的には税控除といった経済面しか出てきていない。それは結婚制度の問題ではなく、税制・年金法の問題です。実際、配偶者控除・第三号被保険者など、どんどん消えていく方向です。
それでもなお「既婚者は国家によって保護されている」となぜ感じるのかというと、既婚者に向けられた許容的な社会の雰囲気が「国家」に裏打ちされているように、独身者・同性愛者に誤解されているのではないか。もちろん社会の意識改革はあってしかるべきだけど、社会の意識はなかなか変わらない。だから「国家への貢献がない」とかで強制力をもって「既婚者」タイトルを剥奪して歩くことで、それを持たない人を慰めようとする。その発想はLGBT保護と同じですよね。
三浦 でも結婚にまつわる事件が、もう頻繁に起こってるじゃないですか。現実に、この愛人と一緒になりたいのに離婚できないから配偶者を殺してしまった、とか。くだらない事件がたくさん起こってるんですよ。
それはつまり介入すべきじゃないところに法律が介入してるから、そういう事件が個人レベルで起こってしまうわけですよ。
小原 犯罪者基準で、制度改革するんですか? 離婚できないから殺すなんて、短絡的なパーソナリティを基準に? 法律が介入しているのは殺人事件に対してであって、当事者の感情には何も介入してないでしょう。
三浦 法律は要らぬ感情を作り出しますからね。恋愛は本来、自由でしょ。なのに円満に離婚できなかったら慰謝料を絞り取られるんですよ。不法行為になってしまうからね。
小原 離婚しなかった場合の不倫の慰謝料とかって、微々たるもんですよ。離婚に至ったら目的を達するわけだし。それに婚姻が事実上破綻している、と認められたら離婚成立しますね、時間かかるけど。その程度の縛りで殺人事件に至るのはパーソナリティの問題でしょう。結婚制度のせいだ、なんて子供がごねてるのと変わらない。
三浦 だからこそ、なんで国家がそんなことに意固地に介入しなきゃいけないのって話でしょ。子どもが居なければ一方の言い分でさっさと別れさせればいいじゃない。恋愛関係では国が余計な口出ししないんだから。
小原 だから国家なんか介入してませんよ。結婚は当事者同士の一種の契約ですから、民事に準じます。民事上の契約違反に対しては損害賠償金が発生するでしょ。民法は当事者主義で、国家とは無関係です。むしろ絶対に国家介入があってはいけない。国家権力の象徴たる警察の「民事不介入」ってのもそういうことです。
三浦 論理関係として、法制度が個人の恋愛感情を縛るっていうこと自体が非人間的なわけですよ。友情でもいいですよ。個人関係を縛っていいのは、子供に対する責任が認められた場合だけだと私は思いますね。
小原 法は別に恋愛感情を縛ってない。不貞行為は婚姻という一種の契約の違反なので、契約解除および損害賠償の対象になる。非人間的かどうかを論理関係で説明できるとは思いませんが、もし非人間的だと思うなら結婚しなければよい。自由意志で結婚という一種の契約を結んだ以上は責任が生じるし、それを国家のせいにはできない。相手も婚姻=契約によって縛られてきたので、その時間的損失や機会損失に対する賠償責任が有責側に発生するのは当然です。
三浦 有害なものを放置して「使わなければいい」というのは通用しないと思いますね。結婚制度のせいで離婚裁判が増えて、他の重要な案件を扱えなくなってるわけじゃない。弁護士がやたら儲かるとか、裁判所も忙しくなるし、そんな子供もいないような夫婦のくだらない離婚裁判なんていうものがたくさんあるわけですよ。世の中にはもっと重要な案件があるじゃない?
小原 そう言うなら、離婚裁判以上にくだらない裁判も山ほどあるでしょう。
三浦 他にくだらないものがあるからといって、離婚裁判を正当化する理屈は成り立ちません。それにくだらなさでは離婚裁判が一番くだらないですよ。
小原 そんなことはないと思いますよ。人と人が契約を結ぶところ、必ずトラブルがある。三十万円ぐらいの少額訴訟、百万程度の相続の争い、刑事では悪口を広めただの、面罵されただの、自転車を倒されて青アザができただの。
もとは夫婦であった男女であれ、利害が対立する他者同士ですし、休日のない長年の家事労働を金銭的に換算すれば千万単位になる可能性すらある。他の民事裁判と比べてどっちがくだらないかなんて決められないと思うんですね。
三浦 でも普通の民事裁判はね、社会にとって必要なシステムで発生するわけで。ところが結婚制度さえなくなれば、子供のいない離婚裁判なんて無意味なものはなくなる。
小原 それはトートロジーで、「そもそも結婚制度なんて無駄だよ」という価値観でなければ、その論理自体が破綻します。
さらに裁判を受ける権利は基本的な人権です。第三者が自身の価値基準でくだらない裁判だと決めつけて、他人から裁判を受ける権利を奪おうとするのは、重大な人権侵害です。「そんな人権侵害をよしとする三浦何某の表現の自由なんて奪った方が、国家に貢献できる」と言われたらイヤじゃないですか?
三浦 だって子供がいない結婚制度は語義矛盾で、すなわち無駄でしょう。
小原 その語義は今、三浦さんが定めた語義じゃないですか(笑)。
子育てだけをそこまで重視するなら、そもそも「結婚」の語義にこだわる必要はないんじゃないですか? ひたすら子供の理想的な成育システムを構築すればいいのであって、なぜそれをあえて従来の結婚制度に結び付けたり、伝統的な「結婚」の概念を変えたりしたいのか、わからないです。
三浦 では、なぜ同性婚が認められていないか。結局、子供ができる可能性がないからでしょ。だから現状はあくまで子供中心なんですよ。
小原 現状ということなら、子供がいない専業主婦で優雅に暮らしてる人がいる。それは制度のエアポケットであり、既得権を享受している。それはそうですよ。だから税制・年金改革も進んでるでしょ。さらにそこからどのようなユートピアにするか、という話だったんじゃないですか。
三浦 そう、そう。
小原 それでも旦那さんが、奥さんを遊ばせておきたいというなら、どうしようもない。世の中にはすごく貧乏な人もいれば、なんか知らないけれどもすごいお金持ちもいる。世の中はそもそも不公平なものなんです。その中で皆、現状の制度をできるだけ利用して有利に暮らそうとする。それはそんなものでしょう。
三浦 だからそんな有利さは百害あって一利なしというのが私の立場。理想的に言うならば、やはり私は、結婚を根本的に子供中心に変えるというのが世の中をよくするっていうのはもう間違いないと思います。子供を結婚の必要条件にする。
小原 話が堂々巡りになっていますが、そのために「結婚」を子供中心に変える必要なんか全然ない。そこまで言うなら結婚制度そのものを破壊してしまって、子供の生育環境として理想的な別の制度をもっとラディカルに検討すべきです。結婚制度をちょっといじって子供中心に変える、なんてこと自体、無駄に「結婚」に捕らわれている。だって、結婚に守られた家族制度が子供にとって一番理想的なのかどうかも、よくわかってないでしょ。
三浦 なるほど。でもね、社会で育てると言っても、誰かが中心になって育てるわけですよ。誰か子供に馴染みのある大人がいなきゃおかしいわけでしょ。入れ替わり立ち替わりで知らない人がやってきてもしょうがない。
小原 でも、それがカッブルである必要が本当にあるのか。一人でいいかもしれない。男と女、お父さんと母さんという絵に書いたような形が本当に理想的なのかどうか。そこから問わないと。
三浦 二人でも三人でも、一人でもいいけれど、やはり限られた人数の単位が必要です。子供っていうのは二人の遺伝子から生まれるんですよ。そうすると率先して自主的に育てる意欲を持つ大人はほぼ二人いるだろうっていうのは自然なわけです。その自然な欲求を認めると、たいていの場合は遺伝子上の親二人になる。
小原 自然、自然ってさ、論理的に説明ができないことを、自然な、って言いだすのはヘンじゃないですか。それを言うなら「男女二人が自然に結びついて制度で守られるのはとても自然」という美辞だって通ってしまう。
三浦 それだったら、あらゆる恋愛関係を保護しましょうよってことになるでしょ。そんなの無理じゃないですか? 友情関係も保護しましょうとか。キリがないですね。
小原 物理的に難しいからダメ、という話ではなくて、原理的な話でしたよね。だから「婚姻届を出す決心がついた人だけ」という足切りが生きる。たった紙切れ一枚ですが、そんな紙切れを出せないのには理由があるんでしょう。「正式に契約を交わす」というのは常に大きなハードルじゃないですか。
三浦 だから、そのハードルをなくす必要がある。
小原 なぜですか?
三浦 気の迷いで結婚してしまうってことは、いくらでもあるわけですよ。
小原 大人のすることに、気の迷いかも、っていちいち保護する必要はないでしょ。
三浦 ある制度を作っておいて、それで損失を与えて、それを保護する必要がないっていう言い方は。覚せい剤を放置して、依存症になった奴が悪いというのは、ちょっと酷だな。
小原 まず婚姻は覚せい剤とは違っていて、すなわち損失になるとは認められない。仮に気の迷いだったとしても、気の迷いで職業を選んだり、不動産を買ったりすることは特に保護しないのに、なんで婚姻の契約からだけ過剰に守ろう、大の大人に婚姻届けを出させまいとするんですか?
三浦 同性愛者に同等の権利を認めていないからです。子供のいない異性関係がなぜ同性愛関係より優遇されるんですか? まあ「子供ができる可能性」とか、「自然」という理屈なんだろうけど。結局ね、今「自然」をなぜ出すかっていうと、子供のためには自主的に好んでその子供を育てる大人が必要なんですよ。その候補としては、やはり血の繋がりのある親二人なんですよ。
小原 そしたら同性愛者による養子縁組なんて、候補にすらならないじゃないですか。なんで同性愛者は結婚したがったり、さらに子育てまでしたがったりするのかって、なお不思議に思われますよ。「自然」なものだけ法的に保護するって、誰がそれを「自然」だと決めるんですか?
三浦 いや、法ではないと思いますよ。今まで法っていう言葉を使ってきたけれども、実は離婚の防止なんですよ。結婚っていうのは、子供が生まれているという前提の二人がなるべく別れないようにするのが、結婚制度なんですよ。
小原 とてもそうとは思えません。「子育てのために、婚姻はできるだけ継続されるべき」だというなら、たった一発の不貞行為でなんで離婚できるんですか?
っていうか、これはいったい何のための、誰のための議論なのか、全然わからない。独身を貫く人たちの理論武装のためのロジックなんですか?
三浦 不貞行為があっても法は離婚を奨励する建て付けにはなってませんよ。子供がいる、あるいは出来る可能性を認めているからね。
小原 法が奨励するも何も、契約はそもそも自由が原則ですから。子供がいれば不貞行為があっても離婚しにくい、といった建て付けもまた見当たりません。不貞行為はそもそも婚姻の契約の違反なので、契約解除を阻止できない。当然の構造です。
何度も言いますが、そんなに子供が大事なら、すべての子供たちの生育環境そのものについて精査・検討することが喫緊の課題じゃないですか。結婚制度に対する抽象的な難癖なんかに結び付けている場合じゃないでしょ。
三浦 なぜ難癖をつけるかというとね、今、子供がいないカップルも結婚制度で保護されているじゃないですか。それによって間接的に子供全般が損失を被ってるんですよ。
小原 どうして?
三浦 結婚とは、男女二人が中心のものだって、そういう常識が一般化してしまうわけ。まるで子供はただのおまけだとでもいうように。
小原 だって憲法では「婚姻は両性の合意のみに基づく」となっている。子供のことは出てこないですよ。それに親が安定して初めて子供が幸福に育成できるというのは、常識として一般化されてよいんじゃないですか。
三浦 子供がいる家庭においても、あくまで妻と夫が家族の中心で、子供はそのトッピングだっていう考えが一般的だったからこそ、単独親権が今までまかり通っていたわけですよ。子供からすれば共同親権が当たり前なのに、子供がまるで結婚にとってトッピングであるかのような暗黙の了解が広まってしまうわけだから。
小原 どうして共同親権が認められないことが、子供=トッピングになるんですか?
三浦 子供に対して二人でその責任を持つんだっていう意識がそこで破壊されてるじゃない。
小原 「トッピング」という概念は、あまりよくわからないですけど、仮に子供が夫婦に「トッピング」されたものであったとしても、離婚後も二人で責任を持つことに支障はないでしょう。家庭における子供の位置付けの意識と、共同親権の問題とは別ではないですか?
これまで慣れ親しんだ具体的な両親のいずれかを失うことは酷かもしれない、という親権の問題と、さっきから言っているように養育者「二名」という構成が絶対的にベストなのか、ということとは別問題でしょう。
三浦 なんで?
小原 個別の子供それぞれにとって理想的な環境がどういうものかはケースバイケースだし、だからこそ共同親権が必須ではなくて単独親権も今まで通り認められている。
三浦 世界の潮流からはかなり外れてるけどね。世界というか、先進国の潮流かな。
小原 世界の潮流に乗ることが正しいなら、我が国のLGBT法案もイケてるってことになりますよ。いずれにせよ世界的にも、子供にとって理想的な生育環境が本当はどういうものなのか、しっかりした検証が進んでいるとは思えませんがね。
三浦 まあ共同親権が認められて結局、少しはこれで子供中心に近づいたってことです。子供にも断りもなく片親になってしまうことがなくなったわけですよ。やはりもう今まで通り、お父さんお母さんがいる、という。
小原 母子の生活が望ましいからこそ離婚するところに、父親の影を大人の判断でちらつかせ続けて子供の精神状態が安定するか、あるいは不安定になるかは、それこそケースバイケースでしょう。祖父母の存在、兄弟・姉妹のあるなしも含めて多様な状況があり、一概には言えないと思います。
で、わたしは確かに無責任でお気楽な立場ではあるので、特にバイアスなしに考えたいとは思うのですが、「子供中心」と聞くとやはり、あの「極道の妻」であったと最高裁で認定された野田聖子議員が、失礼だけれど酒焼けしたような声で「子供真ん中!」と言われるのを思い出します。野田さんにはお子さんがおられるし、本気なのかもしれないけど、正直、気持ち悪い。過剰に「子供」を持ち出すときって、政治家や活動家の都合で利用するってのがオチでしょ。そもそも子供は真ん中なんかにいたいのか。安心できる隅っこ暮らしで、自分の世界にいればいいんじゃないの。便利に利用されるぐらいなら、トッピングの方がマシだよ、きっと(笑)。
で、文化先進国フランスが常にオシャレとは言わないけど、フランス人の子供に対する態度って、歴史的にずっと「トッピング」扱いですよね。独立した人格である子供に対して、逆にそれ以上のことはできないと考えている。だって「子育て」とか言ってもさ、上から目線でそんなに思い通りになるものではないでしょ。神ならぬ人が、人を創ろうってんですよ。畏れを知るべきです。哲学的なそのテーマを本気で深く掘るなら、結婚制度なんて通り一遍の社会制度の問題なんか、いずれ出る幕はないって。
三浦 教育関係のデータは必要だと思うんだよね。犯罪歴とか自殺率とかと家庭環境・生育環境の調査ぐらいはやっている。こういうことを言ってしまうとアレだけど、やはり伝統的な意味での家族、お父さん・お母さんに育てられた子供に問題が少ない、という結論におそらくなっている。ちょっと語弊があるけれど、両親のどちらかがいない場合には、統計的には問題を起こしやすくなるから、なるべくそうではない家庭を形作っていくことが必要なわけですよ。
小原 統計のウソって、よく言いますよね。悪意はなくても、その解釈にゴマかされるってことも多い。
じゃあね、片方しか親がいないことそのものが子供の非行につながるのが、それともそのことで世間から浴びせられる偏見や見下しが子供を歪めてしまうのか。そこはわかんないんですよね。
三浦 今どき片親とかって言って、偏見を露わにするなんて輩がどのくらいいるか疑問ではあるけれどね。親の人数なんて。家族関係で他人の興味を引くのは、未婚か既婚かくらいでしょう。
小原 だとすると、さて、親は本当に二人必要なのか。
統計データの扱いについては今後のこともあるし、ここでまとめて考えておきたいと思います。(興味ない読者は、ここ飛ばしてもいいかも。)
医療関係の厳密な統計では、比較する要素以外に影響を与えそうな、別の要素を注意深く排除します。そういう補正をしてから統計データとして認定されますよね。
今の場合だと、いわゆる片親家庭は経済的・地域的な要素、親のパーソナリティにおいても偏りが見られる可能性が高い。その補正をかけた場合、親が片方いないという要素のみが純粋に子のメンタルの歪みの原因になっているのか、相当に疑問です。つまり親のパーソナリティや経済状況、地域・学校の環境をそのままにして、ただ離婚数を減らしたところで、子供の歪みは改善しないのでは、ということです。むしろ悪化する恐れすらある。
それと、そもそも調査の母集団として、有意性が証明できるほど十分なデータ数が確保されているのかということ。きっとこうだろう、こうでないとおかしい、という思い込みを裏付けるデータを作り、それを信じ込んでいるだけ、ということが頻繁にある。統計学はきわめて難しく、かつ素人を騙すのにもってこいの代物ですから。
今、一つ明確に言えることとして、離婚率って近年すごく上がってますよね。アメリカとか特に、片親家庭が普通、ぐらいの勢いじゃないですか。もし両親が揃ってないと非行に走る、という仮説が正しいなら、離婚率の向上の勾配と同じ角度で、少年の非行率も上がってないとおかしい。この角度の一致が定量的に確認できれば、確かに強力なエビデンスになりますが、そういう話はちょっと聞かない。
結局、離婚率の向上とともに、それがフツー扱いされ、世間の風当たりも弱まり、子供は歪む理由を見失う、ってことなのでは、と思われます。
つまり子供のためを思うなら、親の離婚を阻止するより他にやることがある。だいたい子供のために結婚した夫婦だからって、離婚しないとはかぎらない。伝統的うんぬん言うなら、むしろデキ婚家庭の方がトラブルは多い、という偏見もあり得る。全員がデキ婚になれば偏見はなくなる、という理屈なら、全員が片親でもやはりトラブルはなくなることになる。
比較の考え方としては、日本とアメリカでは、離婚率以外にも異なる要素が多すぎて、仮にアメリカの子供の非行率が高くても、離婚率が原因とは特定できませんよね。同様に、例えば日本の東京都港区と四日市市を比べて、仮に四日市の方が離婚率も非行率も高かったとしても、所得や住環境の差が非行率を高めている可能性が排除できない。
これが同じ地域、同じ所得、同じ程度の住環境や学校レベル、といった補正をかけた上で、親の離婚率と子の非行率に関連性が認められれば、データとして採用できます。ただ、そこまで揃えるとなると、かなりの母集団が必要になると思う。極端な話、きっちり条件を揃えたデータが、片親家庭10件、両親家庭10件しか用意できなければ、片親家庭で非行が2件、両親家庭で非行が1件だったとしても、母集団が小さすぎて有意な差があるとまでは言えない。片親の方が2倍も非行に走るよね、とはとても言えないでしょう。
もちろん、このように条件を揃えたデータが数多く集まれば、かなり信用性の高い結果が導き出せると思います。そういった研究は、医療関係の治験では十年もかけて行われることがある。ただ、今のこの問題の性質上、長い年月のうちには社会情勢が変わってきて、「片親への偏見が減ることで離婚家庭の非行率が下がった」といった別の検証に変わってしまうことも考えられます。
で、統計の話を個別具体的な話で説明することは必ずしもよくないのですが、このトークではしばしば体験談も語られるし、一つだけお話しします。
わたしが一時期、関わったある離婚家庭では、お嬢さんが性的非行、また極端な成績不振状態でした。母娘は最高級の住宅街に暮らし、非常に裕福でした。お嬢さんは幼児期から高い知能と言語能力を持ち、伝統ある名門校に通い、可愛くてとてもいい子でした。ただ、母親のパーソナリティが特異だった。
このお嬢さんがもし父親に引き取られていたら、同じ片親家庭でも、非行の可能性はなかったと思われます。そもそも夫婦の離婚理由に、母親のパーソナリティが影響していた。つまり離婚それ自体が、この母親のパーソナリティからもたらされた一つの「結果」であって、少なくとも子の非行の「原因」ではない。こういった夫婦が仮に離婚の形をとらずにいたとしても、この母と暮らすかぎり、子の歪みが生じないとは言えない。
ごく個人的な感傷ですが、このお嬢さんが「お母さんのことが心配で、勉強どころじゃないんだ…」と言っていたのを思い出すと、今でも泣けてきます。最初はわかりませんでしたが、この母親は娘を非行に走らせるように仕向けており、いわゆる代理ミュンヒハウゼン症候群と推察されました。それがわかったところで、わたしは何もできませんでした。子を育てるのは親権のある親であり、社会ではないので。
つまり、あらかじめ「離婚率と非行率の関連性を証明する」という目的のもとに統計をとった場合、たとえそこに比例的な関連性が認められたとしても、だからといって一方が一方の「原因」とはかぎらない、ということです。これは統計学の初学者が特に注意しなくてはならない点だと言われています。
そして離婚や子の非行に至る家庭にはドラマがあり、それぞれが特異な家庭であると言ってよい。その特異性を均質化し、統計の数としてまるめるには、あらゆる補正をかけられるだけの相当なデータ数の母集団が必要になる。
一人で長々と説明させていただきましたけど、リケジョなので、しつこいんです(笑)。なにせバイアスのかかった政治的言説が、ついうっかりでも科学的な顔をすることがすごくイヤ。
わたし自身は、別に結婚の制度について思うところはありません。そもそも既婚者にもし考えることがあるとすれば、結婚の制度についてじゃなくて、個別具体的な自分と相手との人間関係について、でしょうし。
三浦 ただ世間のトラブルは、結婚制度がかなり元凶になっていると思いませんか?
小原 人間関係そのものが常にトラブルの原因なのであって、制度がどうであれ、やっぱり起きるんだと思います。それが殺人にまで至るのは、かなり異常なパーソナリティなので。
三浦 だってアメリカでは銃の所持が禁止されていないから、銃による犯罪率が高いじゃないですか?
小原 銃は確かに、もともと人殺しの道具ですからね。それに銃による犯罪は減るかもしれないけれど、犯罪そのものが減るかどうかわからない。
一方で、結婚はもとより人間関係トラブルを起こすための制度ではない。それだと刃物があるから殺人が起きる、という理屈と同じになります。金子勇氏のファイル交換ソフトが著作権侵害を幇助したという容疑は結局、最高裁で無罪になりました。当然です。イジメ殺人をなくすために学校をなくしますか?では学歴社会で苦しむ人々をなくすために、東大を解体してください。
三浦 結婚の制度があるかないかは人間の行動パターンに、かなりこれ影響を及ぼしますよ。
小原 あらゆる制度は多かれ少なかれ、人間の行動パターンに影響を与えます。悪い影響ばかりとは言えないから、その制度が存続する。結婚制度がなくなったら殺人事件が減るのか。むしろ増える怖れはないのか。
三浦 何遍も言うけど、私が批判している結婚制度は子供を必要条件としない形態だけだからね。ただ、子供がいる・いないに関わらず、結婚制度があった方がいいという理由は一つありますね。性感染症が減る。これは確実ですね。結婚制度があった方が、容易に浮気できなくなりますからね。性感染症の蔓延を防ぐ役には立っている。
小原 ここまで話してきてそんなオチですか(笑)。
でも一つ、わかった気がする。三浦さんは「結婚制度がわからない」って冒頭からおっしゃっていたけれど、わからないのはもちろん「結婚」そのものですよね。あえて「制度」と言われるのは、多くの人がそれを当たり前に受け入れていることが納得いかないのでは。で、ご自身の許容の閾として、子供のいる・いないという現象による差異を採用されたんだと思う。
配偶者控除などの専業主婦向け施策をなくす経済施策はわたしも賛成です。税制や年金で専業主婦を優遇する必要はもはやないし、その撤廃は当の主婦にとってもメリットがある。しかし子育てに関しては、子のいる家庭と子供に対して直接的に手厚い優遇措置をしたらよいと思う。そこで婚姻=契約の概念にまで遡って変えようというのは、こう言っては何だけども、それによってご自身の結婚概念への疑問を解消しようとする三浦さんの都合であると、やはりそんな気がします。
結婚は憲法で「両性の合意のもと」と謳われていて、もし「子供のため」とするなら憲法改正が必要です。経済的な施策で事足りる話で、憲法改正まで考えるのはおかしなことです。
では、憲法における「両性の合意」とは、いったい何に対する合意なのか、ですよね。具体的には当事者間の合意契約ですから、民事裁判と同様の手続きの人事裁判の管理下にあります。そして何人子供がいようと、不貞行為一発で離婚が成立することを考えると、婚姻=契約の合意の内容とはつまり、互いの性的な、また家族として共同生活を営む上での「専属契約」ということです。
ではなぜ概念として「専属契約」を結ぶ必要があるのか。憲法以前に、人の本性として嫉妬と独占欲があり、それをこじらせれば殺人にも発展する。一方でそれをうまくコントロールすれば平穏な生活がもたらされるとともに、嫉妬のエネルギーを健全な競争心、子育ても含めたより生産的な活動に集約することができる。それこそ歴史的な社会発展に大きく寄与してきた、古くからの婚姻の意義であると考えます。独占欲や嫉妬、それ自体を禁じる法や教義はないでしょう。それはカインとアベルの時代からの人間の本性で、神も諦めていた。我々はせいぜいアダムとイヴとして、自分専用の伴侶とともに穏やかに暮らすのがよいのでしょう。
法律って、本当によくできているな、としばしば感じます。長い歴史における人類の智恵の集積という面が確かにある。
三浦 でもやはり人口は増えてほしいね。子供中心の結婚制度が少子化対策になるなんて保証は全くないけど、結婚観の何らかの改革は影響大だと思いますね。日本語を使う人口が一定数確保されていないと、日本文学も淘汰されてしまいますね。やっぱり国際的なメジャーな言語になり上がるべきだと思う。
小原 日本文学のために日本国民を育てよ、というふうには思えないですけどね(笑)。
三浦 いや我々は文学者として、自分の立場で言っていいんだよ。
小原 これからの時代、すべてが大きく変わっていくでしょうから、世界における言葉の壁も薄くなると思うんですけどね。まあ、そんな大変革の波にさらされたら、結婚の制度もまた有名無実のものになっていくかもしれませんよ。
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*『トーク@セクシュアリティ』は毎月09日にアップされます。
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