様々な音楽を聴きそこから自分にとって最も大切な〝音〟を探すこと。探し出し限界まで言葉でその意義を明らかにしてやること。音は意味に解体され本当に優れているならさらに魅力的な音を奏で始めるだろう。
ロック史上最高のバンドの一つとして名高い「ザ・バンド」(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルム)を論じ尽くした画期的音楽評論!
by 金魚屋編集部
第四章 ザ・バンドをどう聴くか
●音楽をどう聴くか
吉本隆明はこんなことを言っている。
「僕なんかの考え方のいちばん基本にあるのはどういうことかといったら、ある作品を読みますと、その作品の読み方は百人いれば百通りの読み方があるわけですけれども、〔中略〕みんなそれぞれ違う。そうしたら、もう一回読んでみてくれと 〔中略〕 また同じ作品を同じ百人の人が読むというようなことをする。それを無限回繰り返しますと、だいたい同じ作品の評価に立ち至るというのが僕が何回も考えた形です」(講演「新・書物の解体学」、ほぼ日「吉本隆明の183公演」より)
吉本のこの考え方を音楽に適用すれば、ある曲を初めて聴いたときの聴き方は人によりさまざまだが、無限回繰り返し聴けば最後にはおおよそ同じ評価に至るということになる。ぼくは、第三章で挙げた十八人のコメンテーターにザ・バンドのスタジオ録音のすべての曲を百回ずつ聴いてほしいと思う。そうすれば、自分の好みとはかかわりなく、「Jupiter Hollow」がザ・バンドのすべての曲と演奏の中で最も重要なものだという評価に至るだろう。もし百回聴いてもそう思えないのであれば、千回聴いてほしいと思う。
しかし、音楽は「趣味」でもある。ぼくがスタジオ録音のザ・バンドの歌と演奏でいちばん好きな曲は、実は「Jupiter Hollow」ではなく、オリジナルの曲順ではアルバム『南十字星』の最後を飾る「Rags and Bones」(Rags & Bones)だ。リズミカルなのにどこかメランコリックな色合いがあるこの「Rags and Bones」について、ブロガーの「ジャズ喫茶『松和』マスター」氏は二〇一〇年三月二日付のブログで「ザ・バンドの大団円、エンディング・ロールのような」曲だと書いている。もちろん実際にはザ・バンドとしての最後の録音ではないのだが、ぼくもオリジナルの曲順で『南十字星』を通しで聴いたときに、いつもそう感じる。「Music in the air/I hear it ev’rywhere/Rages, bones and old city songs/Play them one more time for me」と歌うリチャード・マニュエルの声にリック・ダンコのコーラスが重なり、そして大団円を迎えるようにバンド全員の演奏が続き、やがてガース・ハドソンのオルガンとロビー・ロバートソンのギターの音が静かに消えて行くとき、『南十字星』が終わり、ザ・バンドの音楽もここで終わるのだ、と感傷的な気分になる。ザ・バンドの熱心なリスナーなら、そう感じる人も多いと思う。
なお、リマスターされた際になぜか「Jupiter Hollow」と「Rags and Bones」の順番が入れ替わってしまい、最後の曲が「Jupiter Hollow」になっているCD盤がある。ぼくにとってはLP盤のB面どおり「Ring Your Bell」「It Makes No Difference」「Jupiter Hollow」「Rags and Bones」という曲順になっている内的必然性があるのだが、初めて聴く人はこだわらなくてもいいだろう。
「Rags and Bones」のどこが好きかと言うと、まずリチャード・マニュエルのリズミカルな英語の歌いまわしと発音だ。例えば「Painted face ladies on parade」という歌詞のリズムへの乗せかたが心地よい。あるいは、「Salvation Army Band」という「英語」の発音や「the Sunday choir」の「choir」という言葉の発音が何とも魅力的なのだ。もちろん、歌のうまさは言うまでもない。
リチャード・マニュエルはピアノ担当だったが、そのプレイスタイルは「リズム・ピアノ」と言われたように、キーボードを徹底してリズム楽器として演奏したプレーヤーだ。ガース・ハドソンの陰に隠れてしまいキーボード奏者として注目されることはほとんどないが、ザ・バンドのライブ演奏がファンキーに聴こえるときは、たいていリチャード・マニュエルが中低音でうねるようなリズムのキーボードを弾いている。その特徴的なキーボードは「Rags and Bones」でも聴くことができる。
リチャード・マニュエルはまったくの自己流でドラムもプレイし、習ったドラマーにはまねできないファンキーなドラムを叩いた。よく知られている曲では『ザ・バンド』に入っている「Rag Mama Rag」、『ステージ・フライト』の「Strawberry Wine」、『カフーツ』の「When I Paint My Masterpiece」(ボブ・ディランがこのアルバムのために提供した曲)などのドラムがリチャード・マニュエルだ。「Rags and Bones」は、よく聴くとドラムのリヴォン・ヘルムがハイハットで刻むリズムに合わせてリズム・ボックスのようなパーカッションが鳴っているのだが、アルバムに記載されている曲ごとの担当楽器を見るとリチャード・マニュエルがコンガを叩いているようだ(『南十字星』はサブリミナルのような演奏が随所に仕込まれているので長年聴いていても気づかない音がある)。
そして、この曲の魅力は何と言ってもリック・ダンコのコーラスだ。ロックバンドの歌手でリック・ダンコ以上に味のあるコーラスを聴かせる人はそうはいないと思う。これは天性のものだろう。『ラスト・ワルツ』での「The Night They Drove Old Dixie Down」や「I Shall Be Released」(こちらはオーバーダビングされたものだけれど)のコーラスも本当にすてきだ。
『南十字星』だけでなく、ザ・バンドでいちばんの名曲とぼくが思っているのは、リック・ダンコが歌う「It Makes No Difference」だ。しかし、名曲ではあるが、このスタジオ録音より『ラスト・ワルツ』でのライブ演奏のほうが、より曲の本質を表現できている。ライブでのロビー・ロバートソンのギターソロは彼の生涯最高の演奏だろう。そのギターソロの激情をやさしく鎮めるかのように応じるガース・ハドソンのカーブド・ソプラノ(アルト・サックスのような形をしたソプラノサックス)によるソロは、楽曲の複雑な感情を音楽的に「解決」することで、曲の主人公にもリスナーにも「救い」のありかを示唆する、すばらしい演奏だ。ついでに言えば、公式のライブ盤でのザ・バンドとして最もすぐれた演奏はリヴォン・ヘルムが歌う『ラスト・ワルツ』の「The Night They Drove Old Dixie Down」だ。ザ・バンドがこの「オールド・ディキシー・ダウン」をこれほど完璧にライブで演奏できたことはない。間違いなくコンサート「ラスト・ワルツ」のハイライトだ。
●『南十字星』をどう聴くか
「数多あるロックバンドの中で、この「ザ・バンド」が一番好きだ」という「ジャズ喫茶『松和』マスター」氏は、ぼく同様、一九七六年から四十数年以上ザ・バンドのすべてのスタジオ録音を聴き込んでおり、しかもぼくよりはるかに幅広くジャズを聴いている。ぼくが目にした日本語のブログで、「ジャズ喫茶『松和』マスター」氏ほどザ・バンドの音楽について深く理解してコメントを書いている人はいない。
「ザ・バンドのオリジナル・アルバムは、どれも味わい深い。ザ・バンドを聴きたいと言われれば、「全部聴け」と言いたい」と語る「ジャズ喫茶『松和』マスター」氏は、「ザ・バンドの「この一枚」と問われれば、僕は『Northern Lights – Southern Cross(南十字星)』をお奨めしたい」「アメリカン・ルーツ・ロックの真髄が、最高のお手本がここにある」と言っている。
もしこの文章を読んでザ・バンドの音楽を聴いてみようと思ったら、サブスクリプションで『南十字星』(Northern Lights – Southern Cross)を検索して、「Jupiter Hollow」をイヤホンで聴いてみてほしい(音のレイヤーが複雑なので、スピーカーではなく、イヤホンで聴くことをおすすめしたい)。
音楽におけるリアリティとは何だろう。それは音そのもののリアリティということになるのではないだろうか。音にリアリティが感じられなければ、どんな音楽でも魅力は半減してしまうはずだ。オーディオ・マニアは音楽を聴くことが目的ではなく、音を聴くことが目的になっている、と批判されることがあるが、それは誤解だ。音楽は音だ。音を聴くことは音楽を聴くことだ。オーディオ・マニアはよい音を求め、自分の理想とする音を求めて日夜苦心するわけだが、これはよい音を求め、自分の理想とする音を求めて日夜練習する演奏家と、音を追求するということにおいては同じなのではないだろうか。
ぼくはオーディオ・マニアではないが、ザ・バンドの音楽を自然な音で聴くために長年試行錯誤してきた。以前、高級オーディオショップで、それぞれ一千万円以上はするであろう新旧二種類のオーディオセットを使って『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の発売50周年エディションを聴き比べるというマニアックな催しに参加したが、巨大なスピーカーで聴くと響きはすばらしい反面、意外に曲の全体像が把握しにくかった。ポピュラー音楽は家庭用のスピーカーで聴くことを前提にしていることがよくわかった。
ひとつだけアドバイスしておくと、弦楽器が豊かに鳴るようなスピーカーは避け、エレクトリック・ギターのアタックがクリアに聴こえる音質のスピーカーのうち、『南十字星』一曲目の「Forbidden Fruit」を歌うリヴォン・ヘルムの声が、イヤホンで聴くリヴォン・ヘルムの声と同じように聴こえるスピーカーを探すとよい。多くの家庭用のツーウェイのスピーカーはウーファーとツイーターがクロスオーバーする辺りに男性の声が来るため、声の芯がなくなりやすい。女性歌手の声はきれいに聴こえても、男性歌手の声は何かもの足りない感じになる。男性の声がウーファーからしっかり出るものがよい。なお、ぼくの経験ではザ・バンドの音楽を聴くのに向いた音質のヘッドホンを探すのは案外難しい。低音が強調されている音質のものはベースの音が不自然になるし、弦楽器が豊かに聴こえるような音場のものはバンド全体の演奏が奥に引っ込んでいるように聴こえる。むしろ、なるべくフラットな周波数特性の普通のイヤホンで聴くほうがよい。
「Jupiter Hollow」を聴いて調子がよくて楽しい曲だなと思ったら、あなたは音楽を聴く者として理想的な状態にある。音楽評論家の吉田秀和の著書『之を楽しむ者に如かず』の書名にも使われている、論語の「之を好む者は之を楽しむ者に如かず」(好んでいる人は、楽しんでいる人には及ばない)の「之を楽しむ者」という状態だからだ。
もう一曲聴いてもいいなと思ったら、ぼくが『南十字星』でいちばん好きな「Rags and Bones」(Rags & Bones)を聴いてみてほしい。そして、もし何かを感じたら、今度は一曲目から通しで『南十字星』を聴くとよいと思う。
「Rags and Bones」を好きだと感じている時のぼくは、「Jupiter Hollow」を楽しんで聴いている人の次に理想的な状態にあると言えるだろう。論語にいう「之を知る者は之を好む者に如かず」(知識がある人は、好んでいる人には及ばない)の「之を好む者」という状態だからだ。
では、この文章を書いているぼくはというと、論語にいう「之を知る者は之を好む者に如かず」の「之を知る者」(知識がある人)という状態にあると言えるだろう。しかし、こうやって文章に書くほどザ・バンドに関する知識は増えたものの、それは音楽を聴くことの本質とは関係ない。ザ・バンドに関する知識やザ・バンドというバンドの物語に惑わされることなく虚心坦懐に聴くことができなければ、ザ・バンドの音楽の本質を理解することはとうてい無理だろう。
「Jupiter Hollow」を聴いて、特に何も感じない、もしくはつまらないなと思ったら、それはそれでよい。自分が好きな音楽を楽しむのがいちばんだ。だが、もし、よくわからない不思議な音楽だと感じたら、あなたは「音楽を聴く」ということの入口に立っていることになるだろう。
●音楽を理解するということ
音楽学者の岡田暁生が書いた『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書)は、「音楽を聴くこと」や「音楽を語ること」について考えるヒントになる興味深い本だ。
この本の中で岡田は、若い人から〝近頃の難しい絵や音楽を解るようになるにはどんな勉強をすればよいか〟と質問された小林秀雄が、「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、〔中略〕 音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」(「美を求める心」『小林秀雄全作品21』)と言っていることを引き、「もし小林が言うように芸術体験に本当に言葉は要らないのだとすれば、一体何のために批評はあるのだろう? 〔中略〕 「芸術は言葉ではありません、見るのです、ひたすら見るのです」と説くのは、まさに「祈るのです、ひたすら心を無にして祈るのです!」という司祭の説法そのものだ。 〔中略〕 〔芸術批評が〕「『語れない……』と語るしかない」という袋小路に入り込んでしまう」と小林秀雄を批判している(「第二章 音楽を語る言葉を探す」)。
しかし、岡田は自分で引用した小林秀雄の「文章」をよく「読んで」いないように思える。小林秀雄は難しい音楽が解らないと言う若い人に、「音楽に関する本を読むことも結構」だが、それよりも「何も考えずに」たくさん聴くことが第一だとアドバイスしているのであって、「音楽をどう語ればよいか」と質問されているわけではないし、少なくとも岡田が引用した文章の中で「芸術体験に本当に言葉は要らない」とは言っていない。おそらく岡田は「音楽を語る言葉を探す」というテーマの章を書いていたので、小林が「何も考えずに」とか「頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」と音楽を理解するための方法について言っているのを、「芸術体験に言葉は要らない」と言っていると解釈したのであろう。ある音楽について語るためには、まずはその音楽をしっかり聴くことが前提になると思うのだが、文学について語るなら、まずはその文章をよく読むことが前提になるだろう。
クラシックが専門の音楽学者になるような人は、おそらくオーデンが言う「自分の文化的環境の趣味を受け入れて」専門家になったに違いない。少なくとも「クラシック音楽」を「聴ける」ようになる文化的環境にいたことは間違いないだろう。しかし、ぼくのようにクラシックを聴く文化的環境がない文化的環境に育った者は、小林秀雄に質問した若い人同様、本当に「難しい音楽」は理解できないのだ。もし、岡田がこのことに気づかないとすれば、岡田が教育者として教えている学生たちが「教育を受けることによって難しいクラシック音楽を理解できるようになる環境」にいる者ばかりだからだろう。
●音楽を聴くということ
ずいぶん前のことになるが、ある大学で開催された現代音楽に関する公開イベントで、ぼくはピアニストのピエール=ロラン・エマールに質問したことがある。「ぼくは音楽を聴くときには常に虚心坦懐に聴くように心がけています。けれども初めて聴く現代音楽の曲をコンサートで聴くときには、虚心坦懐に聴こうとしても「聴く」ことができません。どうすれば現代音楽をうまく聴けるようになるのでしょうか。何かよい方法があれば、ぜひアドバイスをお願いします」と。期せずしてぼくは小林秀雄に質問した若い人と同じような質問をエマールにしたのだ。すると現代音楽を演奏するピアニストでは第一人者と言ってよいピエール=ロラン・エマールはこう答えた。
「それは非常に重要な質問です。私もある現代音楽の作曲家による新曲、例えばメシアン先生の新曲を録音で初めて聴いたとして、すぐに理解できるわけではないのです。何度も聴いて、そして私はピアニストですから自分でその曲を何度も弾くことで、少しずつ理解できるようになっていくわけです。ですから、あなたがピアノでは弾けないとしても、何度もその曲を聴くことをおすすめします。もしコンサートで聴いた曲が初めて聴く曲であれば、家に帰ってから、ほかの演奏者による録音でかまいませんから何度も聴いてみてください。繰り返し聴いてみてください。コンサートで演奏される曲目が事前にわかっているようでしたら、録音で聴いて予習していくのもいいですね。とにかく繰り返し聴くことです。繰り返し聴くことで、やがてその曲を理解できるようなるでしょう」
ぼくは、エマールの答えに心を打たれてしまった。難しい曲は自分も最初から理解できるわけではないが、「繰り返し聴く」ことで「音楽を理解できるようになる」と率直に語ってくれたエマールは、「音楽を聴くこと」の意味をぼくに教えてくれたのだ。
(第04回 了)
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*『いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう』は01月から毎月21日にアップされます。
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