様々な音楽を聴きそこから自分にとって最も大切な〝音〟を探すこと。探し出し限界まで言葉でその意義を明らかにしてやること。音は意味に解体され本当に優れているならさらに魅力的な音を奏で始めるだろう。
ロック史上最高のバンドの一つとして名高い「ザ・バンド」(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルム)を論じ尽くした画期的音楽評論!
by 金魚屋編集部
第三章 来たるべきロック『南十字星』
●アルバム『ザ・バンド』は「カントリー」ロックだった
ところで、ぼくと新聞社との「ロック論争(ザ・バンドはロックバンドなのか)」の発端となった「ぼくの指摘(ザ・バンドはロックバンドだ)」に対する先の「ぼく自身による反論(ザ・バンドの音楽はいわゆるロックではない)」には、ぼくはさらにこう反論するだろう。「ザ・バンドの初期のスタジオ録音のアルバム、特にセカンド・アルバム『ザ・バンド』がいわゆる「ロック」ではないことについては、ぼくもおおむね同意します。しかし、にもかかわらず、ザ・バンドは紛れもなく「ロックバンド」なのです。ザ・フーやザ・ローリング・ストーンズが「ロックバンド」であるように、ザ・バンドはロックバンドです。映画『ラスト・ワルツ』をご覧になれば、よくわかると思います」と。
ここに、ザ・バンドの音楽を論じる際に生じるわかりにくさがある。ぼくは、「ザ・バンドは「ロック」ではない音楽を演奏したロックバンドだ」と言っているわけではない。
ライブ演奏では、ザ・バンドは常にロックバンドであり、その演奏はいわゆる「ロック」そのものである。しかし、スタジオで録音されたアルバムの音楽は多様で複雑で、ひとくちにいわゆる「ロック」と言えるほど単純な音楽ではない。一九九〇年代後半以降、ザ・バンドの音楽は「アメリカーナ」というジャンルに位置づけられるようになった。
音楽の文脈で使われるようになった「アメリカーナ」というのは、アメリカーナ音楽協会(The Americana Music Association)の定義によれば「カントリー、ルーツロック、フォーク、ゴスペル、ブルーグラスなど、アメリカのさまざまなアコースティックルーツ音楽スタイルの要素を取り入れた、現代の音楽」(ウィキペディアの訳)のことである。文学的な文脈で使われる「アメリカーナ」については、第一章で言及したW・H・オーデンが一九六二年に出版したエッセイ集『染物屋の手』第六部「アメリカーナ」を読むとよい(訳者の中桐雅夫は「荒地派」の詩人)。
セカンド・アルバム『ザ・バンド』が、もしロビー・ロバートソンの考えたコンセプトどおり『アメリカ』というタイトルになっていれば、第二章で問題になったタイム誌の編集部も「アメリカーナ」という表現を思いついたかもしれない。タイム誌の編集部が付けたキャッチコピー「The New Sound of Country Rock」の「Country」を「アメリカ的」と解釈すれば、セカンド・アルバム『ザ・バンド』については「Country Rock」という表現もあながち的外れとは言えないだろう。
だが、ぼくがここで言っておきたいのは、「ザ・バンドの音楽はアメリカーナだ」ということではない。もし、ザ・バンドがセカンド・アルバム『ザ・バンド』しかリリースしなかったとしたら、確かにザ・バンドの音楽を「アメリカーナ」と位置づけることもできるだろう。しかし、その他のアルバムを聴けば、必ずしも「アメリカーナ」としてきれいに分類できるような音楽ではないことがわかるはずだ。特に後期ザ・バンドの『南十字星』(Northern Lights – Southern Cross)は、いわゆるザ・バンドの音楽(アメリカーナ)とひとくくりにはできないアルバムだ。しかも、ぼくの考えでは『南十字星』には「来たるべきロック」とも言うべき音楽が示されている。
●『南十字星』が示す「来たるべきロック」
フランスの批評家モーリス・ブランショは、批評集『来るべき書物』(一九五九年)の中でこう書いている。「詩の現存とは、来るべきものである。つまり、それは、未来をこえてやってくるものであり、現にそこにありながら来ることを止めない」(粟津則雄訳)。この表現を借りて言えば、ぼくの考える「来たるべきロック」とは、「未来をこえてやってくるものであり、現にそこにありながら来ることを止めない」音楽のことだ。
『南十字星』に「来たるべきロック」が示されている、という見解をもっているのはぼくだけではない。ぼくの知る限りではたったひとりだが、いる。『ニューミュージック・マガジン』一九七六年二月号の「今月のレコード」で『南十字星』に「100点」を付けた、イラストレーターの矢吹申彦である。レコード評なのでそれほど長い文章ではないが、ザ・バンドの音楽について、これほど透徹した見解を示した人は、後にも先にもほかには誰もいない。
矢吹はまず、ザ・バンドのライブ・レコーディングは聴いたが、ライブ演奏を聴いたことはないのでライブ演奏について評することは難しい、と書いている。これは、矢吹の見識である。レコーディングを前提としたライブ演奏は「よそ行き」の演奏になりがちだし、ライブ・アルバムの演奏は、コンサート会場でPAを通して聴こえる音ではなく、ライン録音された音源にオーバーダビングや修正が施されているからだ。
次に、「しかし、ことレコードでの彼等の音楽=ロックの質の高さは、ただ最高としか言いようがない。むろん、この際用いる質という言葉には、音楽(とりわけ彼等は歌)の全ての領域が含まれているのは言うまでもない」と述べている。ここで重要なのは、矢吹は現在「アメリカーナ」と呼ばれている音楽のことではなく、「音楽の全ての領域が含まれている」と言っていることだ。つまり、ロックに限らず、クラシック、現代音楽、ジャズ、民族音楽あるいは声楽、器楽演奏……「音楽の全ての領域」と矢吹は言っている。
矢吹は自分にも個人的嗜好で選ぶ好みのバンドはあるが、「このザ・バンドに限っては、個人的嗜好などをはるかに越えた、ぼくの捉えるところのロックにおける最高峰のバンド、つまりロックがその領域から外れることなく発展し続けた姿として、ここ数年来変わることなくぼくの心に重く存在し続けている。そして、ぼくのロックの羅針盤の針は常にザ・バンドを指し示している」と言う。さらに続けて、『南十字星』は、ライブ盤である『ロック・オブ・エイジズ』を含め過去の六枚のアルバムを「上廻る質と完成度の高さでそそり立ち、ここに本物のロックを演る意味、聴く意味を見る思いがする」と矢吹は書く。
「本物のロックを聴く」こと、これが、ぼくがザ・バンドに入れ込んでいる理由なのである。芸術作品には本物とニセ物があることは、誰でも体験的には知っている。だが、どれが本物で、どれがニセ物なのかを見分けるには、それ相応の経験と知識、そしてセンスが必要だ。多くの音楽を聴き、多くのコンサートに通い、時間をかけ、お金をかけ、時に痛い目にあって、ようやく何が本物なのかが少しずつわかってくる。オーデンが「趣味」について言っているのは、そういうことだ。
矢吹は『南十字星』というアルバムを初めて聴いた時の印象として「A面は彼等の創りあげた音楽の延長上での至高への追求」「B面はあらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような彼等の心の眼が捕えた、新しいリズムの導入、よりシンプルさを求める為のあえての2ドラムスの使用など、それは全体を通してのシンセサイザーやクラヴィネットの使用からもうかがえる新しいサウンドを追求する姿勢を強く感じた」と述べている。
「あらゆる物を内包可能なロック」、これが矢吹が考えた「来たるべきロック」だ。一九七六年の時点で『南十字星』を初めて聴いて、これほど深くザ・バンドの音楽を聴き取ることができた矢吹申彦は、もはや「音楽家」と言ってもよい。音楽を演奏する者だけでなく、音楽を聴く者もまた音楽家になり得る可能性があることを矢吹の文章は証明している。
矢吹は「最高のバンドがあくまで至高を求めて作ったこのアルバムが、彼等を超えるほどの凄いバンドの出現がない限り、最高の評価を得るのはしごく当然のことだろう」とレコード評を結んだ。
●ザ・バンドの音楽の本質
ここで、矢吹申彦が『南十字星』のレコード評で述べているA面とB面の構成について触れておこう。オリジナル・アルバムはLPレコードなので、A面とB面があった。A面は「Forbidden Fruit」「Hobo Jungle」「Ophelia」「Acadian Driftwood」の四曲、B面は「Ring Your Bell」「It Makes No Difference」「Jupiter Hollow」「Rags and Bones」の四曲という構成である。
矢吹が指摘しているように、A面の曲と演奏は「彼等の創りあげた音楽の延長上」にあり、B面は「あらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような」「新しいサウンド」の曲と演奏だ。『南十字星』でぼくが好きな曲は、このB面の四曲なのだ。
これまでのぼくの観察によれば、A面の「Ophelia」および「Acadian Driftwood」、B面の「It Makes No Difference」を好きな曲としてそれぞれ挙げる人が多い。ぼくの親しい友人は「Ophelia」がいちばん好きだと言い、知人の奥さんは「Acadian Driftwood」、妻は「It Makes No Difference」がいちばん好きだと言っている。
ロビー・ロバートソンのドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』(Once Were Brothers: Robbie Robertson and The Band)の宣伝用コメントの「お気に入りの1曲」で『南十字星』の曲を挙げている人は十八人中、四人だ。映画評論家の大森さわこは「Ophelia」、ロック漫筆の安田謙一は「Acadian Driftwood」、シンガー・ソングライターの竹内まりやとミュージシャンの佐野元春の二人が「It Makes No Difference」を挙げており、ぼくの観察と一致している。もしぼくがこの三曲から一曲挙げるとすれば、やはり「It Makes No Difference」ということになるだろう。
コメントを集計すれば、ファースト・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の曲を挙げている人が六人、セカンド・アルバム『ザ・バンド』の曲を挙げている人が四人、後期の『南十字星』の曲を挙げている人は四人、中期のアルバム『カフーツ』の曲を挙げている人が二人、映画と同タイトルのロビー・ロバートソンのソロ曲を挙げている人が一人、曲を挙げていない人が一人である。つまり、ぼくの経験どおり、ここでも初期ザ・バンドの曲を挙げている人が十人で圧倒的多数派、次いで後期ザ・バンドの曲を挙げている人が四人、中期ザ・バンドの曲を挙げている人は二人と少数派である。
ぼくがこれらの映画宣伝用コメントを読んだ限りでは、この十八人のコメンテーターのうち、ザ・バンドの音楽の本質について言及していると思えるのは、「普遍性と独創性が共存するザ・バンドの音楽に、若き日の私はどれほど魅了されたことだろう」とコメントしている竹内まりやだけだ。「普遍性と独創性の共存」、これこそがザ・バンドの音楽の本質だからだ。
「普遍性と独創性の共存」は、演奏面で言えば、ザ・バンドの「スタジオ録音のすべての曲」に当てはまる。どの曲にも必ずどこかにそれまで誰も聴いたことのない、風変りな要素を入れるようにした、とガース・ハドソン(メンバーのひとり。オルガニストでザ・バンドのサウンド・プロダクションの音楽的中心人物)が言うように、ぼんやり聴いているぶんにはごく普通の曲でも、よく聴くと未知の不思議な音楽が含まれている。と同時に七枚のスタジオ録音のアルバムと『ラスト・ワルツ』に入っているスタジオ録音のすべての曲をよく聴いてみれば、一曲として似た曲と演奏がないのに、どの曲も奇をてらうことなく普遍性をもっていることに気づくだろう。
●「来たるべきロック」とは何か
『南十字星』B面の「あらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような」「新しいサウンド」の曲と演奏のうち、最も注目すべき曲は「Jupiter Hollow」だ。ツインドラムとベースとクラヴィネットのファンキーなリズムに乗せて、三人のヴォーカリスト(ドラマーのリヴォン・ヘルム、ベーシストのリック・ダンコ、ピアニストで時々ドラムも担当するリチャード・マニュエル)が入れ替わりリードを取ったりコーラスしたりする背景にガース・ハドソンが演奏するオルガンとシンセサイザーが多層的に変幻自在の音を繰り広げる、聴いたこともない不思議な曲だ。聴きやすい曲なのにもかかわらずとても複雑な演奏なので、何度聴いてもすべてを同時に聴き取ることは難しい。
矢吹申彦が「あらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような彼等の心の眼が捕えた、新しいリズムの導入、よりシンプルさを求める為のあえての2ドラムスの使用など、それは全体を通してのシンセサイザーやクラヴィネットの使用からもうかがえる新しいサウンドを追求する姿勢」と言っているのは、この「Jupiter Hollow」のことに他ならない。
「よりシンプルさを求める為のあえての2ドラムスの使用」という指摘には、ハッとさせられる。普通に考えれば、ツインドラムにするとシンプルではなくなるように思えるが、「Jupiter Hollow」のツインドラムを聴くと、リヴォン・ヘルムあるいはリチャード・マニュエルがひとりでドラムを担当している曲に比べると、さらにシンプルな演奏になっていることに気づく。だが、ひとりで演奏しているように「聴こえる」のに、微妙なリズムのズレにより二人で演奏しているように「感じる」のだ。
「Jupiter Hollow」はザ・バンド自身の演奏で「来たるべきロック」を具体的に示すことができた、唯一の曲である。ロックの象徴と言える楽器はエレクトリック・ギターだ。ところが、この「Jupiter Hollow」にはエレクトリック・ギターは入っていない。ギタリストのロビー・ロバートソンはパーカッシブでファンキーな音が特徴のクラヴィネットというキーボードを弾いている。シンセサイザーの音が全編に使われ、ドラムはスネア中心の演奏でクラッシュ・シンバルを使わずハイハットのみ、クラヴィネットがベースのような感じで使われているこの曲を聴くと、まるでザ・バンドがYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の影響を受けているかのようだ。
そう言えば「Jupiter Hollow」のザ・バンドとYMOにはいくつか共通点がある。リヴォン・ヘルムがドラムを演奏しながら歌うスタイルは高橋幸宏がドラムを演奏しながら歌うYMOのスタイルと同じだし、ロビー・ロバートソンがエレクトリック・ギターを弾かずにクラヴィネットを弾いているように細野晴臣はエレクトリック・ベースを弾かずにキーボードを弾いているし、ガース・ハドソンも坂本龍一も複数のシンセサイザーやキーボードを使用しているしクラシックの音楽教育を受けている。
しかし、「Jupiter Hollow」は一九七五年に発表された曲で、YMOの結成は一九七八年なのだから、ザ・バンドがYMOの影響を受けることはできない。
ぼくはYMOが「Jupiter Hollow」の影響を受けている、と言いたいわけではない。ぼくが言いたいのは、この曲にはYMOが展開した音楽が内包されているだけでなく、まだ現れていない「あらゆる音楽」が内包されているということだ。ぼくがこの曲を四十五年以上にわたりおそらく優に二千回以上聴いてもいまだに聴きつくせない、未知の何かが「Jupiter Hollow」にはある。これこそが「未来をこえてやってくるものであり、現にそこにありながら来ることを止めない」音楽、つまり「来たるべきロック」だ。
「Jupiter Hollow」は、「あらゆる物を内包可能なロックを透視するかのような彼等の心の眼が捕えた」と矢吹申彦が言うように、ザ・バンドの「心の眼が捕えた」音楽であり、聴く者もまた「心の眼」でとらえなくてはならない。
●「ロック」と「来たるべきロック」の分岐点
普通に聴けば、『南十字星』は、いわゆる「アメリカン・ロック」のアルバムだ。だが、ザ・バンドにとっては初めての音楽的試みが多いアルバムである。A面一曲目の「Forbidden Fruit」の演奏は、いわゆる「ロック」バンドそのものである。エレクトリック・ギターの長いソロがあったり、アンサンブルの「キメ」があったり、これほどいわゆるロック的な表現をした曲は、それまでのザ・バンドにはない。一方でB面一曲目の「Ring Your Bell」のイントロはロックというよりファンクだ。
B面二曲目の「It Makes No Difference」は、ロビー・ロバートソンが書いた「初めての」、主語が「I(ぼく)」の失恋の歌だ。ロビー・ロバートソンの歌詞はストーリー性があるのがひとつの特徴で、例えばA面四曲目の「Acadian Driftwood」は、十八世紀カナダのアカディア地方にいたフランス系入植者たちが、イギリスによって強制退去させられた悲哀を描く物語だ。では、ここでなぜロックに限らずポピュラー音楽でいちばん普通のいわゆる失恋のラブ・ソングを初めて演奏したのか。それは、この「It Makes No Difference」が、いわゆる「ロック」の到達点となりうる普遍性を獲得した作品になったからだ。楽曲も演奏も歌も、これまでのザ・バンドで最高のものと言えるだろう。
ぼくの考えでは、ここでいわゆる「ロック」は終わった、ということになる。そして、次の曲「Jupiter Hollow」はもはやいわゆる「ロック」ではなく、「来たるべきロック」だ。とすれば、オリジナル・アルバムのB面二曲目の「It Makes No Difference」と三曲目の「Jupiter Hollow」の間の音楽が鳴っていない数秒間に、「ロック」と「来たるべきロック」の分岐点があるということになる。『南十字星』を何度も繰り返し最初から聴いてくれば、「ロック」が「来たるべきロック」に遷移する瞬間を感じることができるだろう。
しかし、ザ・バンド自身も「Jupiter Hollow」が切り開いた未知の音楽の領域をさらに展開することはできなかった。オリジナル・アルバム最後の曲「Rags and Bones」では、ロビー・ロバートソンは自分が育ったトロントのユダヤ人コミュニティの風景を描き、自身の父方のユダヤ系ルーツを作品にした。初めて、自分の「過去」を振り返り、故郷カナダに戻っていったのである。「アメリカ」を発見しようとセカンド・アルバム『ザ・バンド』から始まったザ・バンドの音楽的な旅の物語は、ここで終わったのだと言ってもよい。
「Jupiter Hollow」の歌詞にはアルバム名『Northern Lights – Southern Cross』に使われている「Northern Lights」(北極光)という言葉が一回だけ出てくる。「Southern Cross」という言葉はアルバム全曲で一度も出てこない。Peter Vineyは、「Northern Lights」はカナダを象徴し、「Southern Cross」は南北戦争時代の南部連合国旗つまりアメリカ南部を象徴していると言っている(「The Band web site」の記事)。「Northern Lights」は四人のカナダ人、「Southern Cross」は一人の南部アメリカ人(リヴォン・ヘルム)を表している、ということなのだろう。
いずれにしても、「Livin’ in another world」「Livin’ in another time」と歌われるリフレーンを聴いていると、「Jupiter Hollow」という曲が「another world」「another time」でも聴き続けられて行くことを予見しているかのように思えてくる。
(第03回 了)
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*『いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう』は01月から毎月21日にアップされます。
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