「覆面作家はここにいる?」という特集で、覆面作家の座談会をやっている。題して「百の覆面に百の事情」。続いて覆面作家の競作、鯨統一郎「カルメンと殴殺」、古野まほろ「外田警部、のぞみ号に乗る」、戸川安宣 古今東西覆面作家逍遙「覆面作家寸感」がある。
現代の覆面作家のモデルはどうやら北村薫らしく、作品「覆面記」も寄せている。覆面の理想は性別も不明の名前で、ミステリアスに仕立てるということらしい。だけど読む側とすると、性別がわからないのは落ち着かない気にはなる。
その落ち着かない感じを狙っている、というのもあるのかもしれない。その場合はしかし、小説は三人称で、作家のプライベートを匂わせるような純文学的手法は使えないことになる。基本的には、誰が語っても同じ「物語」を語る、シェヘラザードが性別不明ということだ。
そう考えると作家の性別というのは、他の情報とは違ってかなり本質的というか、重要な要素だと気づく。座談会は「百の覆面に百の事情」というタイトルだが、そもそも最も切実な覆面とは、昔のイギリスで女性であることを隠して小説を書き始めた、といったことではなかったか。
それからすると今回の座談会では、特別な事情があって覆面にしているといった話はなかった。現代ではそんな百もの事情などなく、せいぜい勤め先のことか、でなければ単にノリで、というぐらいなのだろう。
だとすると、覆面と単なるペンネーム使用との境界も曖昧なものだ。覆面はペンネームを使用し、なおかつ本人の特定ができないよう、プライベートを語らないということだが、そのガードの固さの度合いだけが覆面作家かどうかを決めるわけだ。その必要のあるなしに関わらずガードを固めることを一種の遊びと捉えているのが、現代の覆面ということらしい。
必要が生む切実さみたいなものは、望んでもなかなか得られないと思う。今、覆面であることの必然性とは、そもそもその作家が本当に実在しない、といったところにしかないのではないか。
つまりは小説作品を生み出しているのが、特定の人格ではない、法人格のような組織である、といったような。二人一組で作品を書き、それに一つのペンネームを付けるというのは、昔からあった。
それが可能なら四人一組でも、六人一組でも、原理的には構わないはずだ。ならば組織、一番あり得るのは出版社が、彼らにとって望ましい作品をこしらえて、適当な人物一人のオリジナリティから生まれたように見せかけることも、覆面と言えば覆面だ。裏返しだが。
この覆面座談会の平板さ、緊張感の欠落からすると、今は多かれ少なかれこういった覆面性のようなものが日常化しているのか、と感じる。座談会ではそれをネット社会がはらむ危険性や匿名性からくるとしていたが、そもそもの作家人格の希薄化によって、組織である出版社の意思を覆面する存在、もしくはその傀儡と化しているだけなのかもしれない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■