今秋に創刊された Mei は、女性向けのちょっと怖い小説を集めた文芸誌で、料理のレシピや漫画、箱根山のナイトハイクの模様まで、幅広くカバーしています。
その中で、東直子さんの「イボの神様」は、タイトル通り、イボがキーワードとなる不思議なお話です。ところで皆さんは神様を信じますか? それに今までしたお願い事は、全て真剣に祈りましたか?
主人公は絵を描くのが大好きな女の子。毎日、鉛筆を握って絵を描いていると、ペンダコが二つもできてしまいました。小学生の主人公は、「絵を描くことが好きな自分の証のようなもの」と誇らしく感じます。
初めてできたペンダコを見て、何だか大人になれた気がする。皆さんも、そんな経験があるのではないでしょうか。私も、主人公と同じように小学生の頃にペンダコができ、家族に自慢していたことを思い出しました。
このノスタルジックな一場面だけで、読者を物語に引きずり込む。なかなかの手腕です。これから起こる不可思議でちょっと怖いことにリアリティを与え、読者を誘うための準備でもあるでしょう。
ところが二つのペンダコのうちの一つは実はイボで、そのいつまでも完治しないイボを取り除こうと、イボの神様へお願いをする。
その後、月日は流れ、四十年後の話になります。主人公は大人になりましたが、イボの神様が持っていってくれて以来、イボのあった場所はつるりとしたままでした。祖母の見舞いの帰り道で、主人公はイボの神様を教えてくれたイノさんという女性と再会します。四十年前、祖母に百歳だと紹介されたイノさんは、そのときと変わらない姿で現れました。
そして「うかつに祈ってはならない」という言葉。これはこの物語全体を濃縮したものとも言えます。主人公が真剣に祈ってイボの神様にイボを取ってもらったこと、長い時を経ても容姿の変わらないイノさん。それらすべての「意味」が、この一言で説明されてしまうのです。
日本は古来、八百万の神々といって、あらゆるものに神様が宿るとしていました。しかし、その一方で、どれだけの人が宗教を熱心に信仰しているか。最近の私たちは、願い事には事欠かないものの、宗教にはむしろ危険なもの、近寄りがたいものというイメージを持ってもいます。けれども「願い事」の意味を調べてみますと、「願う事柄。特に、神仏に祈願する事柄。」(『大辞泉』)。願い事というのは本来、信仰心を持って行うべきものなのでしょう。
主人公の祖母は「信じなあかんよ」と言います。やはり、信じるということが大きな意味を持つらしい。また終盤でイノさんは、自分の願いが中途半端だったから自分自身が中途半端になってしまった、という旨のことを言います。信じることにおいて、イノさんは主人公と対極の人物です。同じ行為を行って違う結果を得た人物の存在は、主人公を引立たせると共に、物語の根幹部分を読者に伝えるのにも大きな役割を果たします。何度も登場する「祈る」という言葉と、その意味。冒頭のノスタルジーと呼応して、私たちが記憶の底に置いてきてしまった何かを思い出させます。
有冨千裕
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■