「ライトノベル最前線」という特集である。ラノベ、と呼ばれるライトノベルのことは、不勉強であった。この出版不況に右肩上がりで伸びているという。
もちろん著者の使い捨て、過労死といったこともあって、ようは消費材としての一時期のマンガと同じだろう。プロットや構成より、読者が親しめる、特徴あるキャラクター重視となると、ますますマンガである。右肩上がりで出版不況を救うことはあっても、文学の興隆には繋がらない…といった批判は想像に難くない。
けれども「文学」の興隆が「かつてあった文学のイメージを引きずっているもの」の興隆という意味なら、何の力を借りたところでもはや不可能ではないか。では、ライトノベルがいわゆる文学に取って代わるのかと言えば、現象面で実際に起こっていることは、ライトノベル作家の “ 文学 ” への接近に過ぎない。
ライトノベルが「ライト」なのは、作家が固有のテーマを抱えて、それを読者に突きつけることがないからだ。ライトノベルは「最初に読者ありき」のジャンルであるに違いない。とするとライトノベル作家の “ 文学 ” への接近とは、テーマを持たない者が突如、テーマを発見することに他ならない。あるいはテーマを持ち合わせているかのごとき身振りを真似る、ということに。
しかし「テーマを持ち合わせている身振り」をしているのは、ライトノベル上がり ( 失礼 ) の作家たちだけだろうか。実際のところ、現在の「純文学」作家が抱えているテーマというのは、本当にその作家固有の、抜きがたいテーマなのだろうか。
本当のところは「いかにして作家と呼ばれ続けるか」しかテーマを持たない作家は、文芸誌などで要請される「テーマ」をパターン学習しているに過ぎない。テーマというより、テンプレートだ。そういった作家たちの次なるテーマはむしろ「いかにラノベに近づくか」なのだろうから、文学に接近してきたラノベ作家と意気投合するか、あるいは師として仰いでもいいかもしれない。
特集では、新城カズマと川原礫のインタビューの他、宇佐見尚也の論考「すべてがライトノベルになる」、飯田一史の論考「ラノベとソーシャルゲームの微妙な関係」など、ライトノベルの内容ではなく、ライトノベルという業態、マーケティング戦略について考察されている部分が多い。小説読者に向けて、ビジネスとしての小説を語る特集というのも変なものだが、大人の読者にとっては、そういった部分にしか興味を持てない内容であることも、悲しいかな、事実だ。
それでもライトノベルが文学になり得るのは、文学的アトモスフィアを中途半端に纏うことでなく、徹底してライトノベルであることにおいて、普段はライトノベルを読まない層も手に取るような傑作が生まれる瞬間なのではないか、と思うが。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■