妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
「そろそろツリー、出しとかないとな」
昨日、父親に言われたので早めに起きて、裏の物置を探っていた。クリスマスまで、まだ一ヶ月ほど。少々早いけど、これがこの店のサイクルだ。きっと俺や兄貴たちが小さい頃から変わっていないと思う。
なぜか常連客は、ツリーに願い事を書いたメモを結んでいく。七夕ではないし、何より田舎くさいが、まあそれでもいいやと思えるようになった。店のリニューアルを諦めたわけではないが、継続することの大切さ、そして変化することの大変さが出足を鈍らせている。
それにしても今朝は寒い。こんな薄手のパーカーではなく、ダウンを着てくればよかった。寒い寒いと呟きながら、ツリーとオーナメントが入った袋を台車に乗せて店の中へ運び込む。埃除けのビニールは外さずに、一旦隅の方へ置いた。飾り付けは永子と一緒にやろう。去年までは見ているだけだったけど、もう三歳だ。あとリッちゃんにも声をかけておこうかな。
物置の扉を閉めるため、もう一度外に出ると鼻先に雨粒が落ちてきた。トミタさんが言っていたように今晩は雪になるのかもしれない。
彼とは昨晩「夜想」で久々に会った。今日来てるよ、というマスターからのLINEがきっかけで家を出たので時間は結構遅め。よう大学出、と笑うトミタさんは既にほろ酔いだった。
「遅いよ馬鹿野郎。両国ってそんなに遠かったか?」
「すいません、さすがにすぐには出れなくて」
LINEが来たのは、そろそろ店を閉める頃。両親がいる間に、マキと手分けをして永子のお風呂や夕食を済ませていたのが良かった。あの子の寝る時間は平均より早く、そして長いらしいが、それもきっと一助。ともかくマキがパン屋勤務の日なら多分無理だっただろう。この辺りはルールや理屈ではない。ノリだ。そう言うとマスターは「臨機応変ってヤツだね」と頷いた。
そもそも俺がトミタさんに会いたいから連絡をくれたわけだが、もちろん毎回ではない。これもノリ。俺がいた方がいいタイミングをマスターは分かっている。映画や音楽にかなり詳しいトミタさんだが、俺との話題は半分以上がバカ話。それ以外はたいてい子どもの話だ。
三年前、口を利かなくなったトミタさんの娘は、今アイドルをやっている。当然、初めて聞いた時は驚いた。
「え、アイドル?」
「いや、テレビに出るようなアイドルじゃなくて、地下アイドルってヤツだよ。そういうの知らねえか?」
知らなくはなかったが、ネガティブな印象しかないので口ごもっていると、「まあ、お察しのとおり、ろくなもんじゃねえんだよ」とトミタさんは笑った。苦笑いではなく、バカ話をしている時の豪快な笑い方だったので結果オーライなんだなと理解した。昨日もそうだ。
「夜中の二時にな、何かうるせえなと思ったら、自分の部屋で配信やってんだよ。投げ銭欲しさに何やり出すか分かったもんじゃねえし、いい加減にしてほしいよ」
「『配信』だ『投げ銭』だって、トミタさん、ずいぶん詳しいじゃないですか」
ワイングラスを片手に笑ったのはマスターの恋人、チハルさんだ。いつもよりも声がかすれている。
「実はね、私も『配信』やりたいなって思ってるんですよ。タロット、占いの中でも人気あるって言うし、結構稼いでる人もいるみたいだから」
まあなあ、とトーンダウンするトミタさん。チハルさんのことは苦手だと少し前に言っていた。本人がどうこうではなく「占い」が好きではないらしい。
「今度、娘さん、連れてきてくださいよ。特別に店内からの配信、許可しますよ」
そうマスターがからかうと「馬鹿野郎」と俺のビールを一気に飲み干し「ファンだか何だか知らねえけど、今時は変なヤツ、多いからな」と肩をぐるぐる回した。百八十センチオーバーのパンチパーマだから迫力がある。
「ああ、確かにそういうのは心配ですよね」
「うん、男がろくなもんじゃないってことは、お前も知ってるだろ?」
「そりゃもちろん」
「だから、毎日ネタには困んねえんだ」
「ネタ?」
「ケンカのネタ」
地下アイドルになる、という予想外の展開があったものの、その結果、ケンカをするほどコミュニケーションが取れるようになって、トミタさんは嬉しいはずだ。それ以上にホッとしているかもしれない。
よかったですね、と言う代わりに新しく頼んだビールを注ぐと、また一気に飲み干し「じゃあ、そろそろ帰るとするかな」と席を立つ。一瞬、何か言いかけたような気がしたが、「明日は寒くなるらしいぞ。もしかしたら雪かもな」と、誰に言うでもなく呟くだけだった。
寝室に戻ると、まだ二人とも寝ていた。永子がベビーベッドを使わなくなったタイミングで、俺たちもベッドから布団に変え、家族三人で寝るようになった。妻と娘の寝息だけが聞こえる薄暗い寝室の眺めは写真のようで、時間の流れがとても遅い。止まってしまいそうだ。
音を立てないようにドアを閉めてトイレへ。歯を食いしばる程の寒さの中、温かい便座に座り、トミタさんの娘の話を思い出していた。地下アイドルになった現在の、ではなく、父親と口を利かなかった三年前の方。実は先週、永子について母親から密かに指摘されたことがあり、それもあって昨日はトミタさんに会いたかった。
「ちょっといい?」
先週の金曜、少しずつ客数が増え始めた夕暮れ時だった。カウンターの中で洗い物をしていると、すぐそばの椅子に座って雑誌を眺めていた母親に声をかけられた。
「ん?」
「ああ、そのままでいいのよ。お皿洗いながらでいい」
店の隅のテーブルでは父親が、ぬり絵をしている永子をスマホで撮影している。
「エイちゃん、まだでしょ?」
「何が?」
「イヤイヤ期」
ネットや本で読む度に、これは大変そうだなとビビっているヤツだ。確かにまだ来ていない。
「大人びてんのかしらねえ、エイちゃんは」
「そう?」
「うん。ほら、あの年頃はさ、一番甘えられるのって、やっぱりママ、母親だと思うのよ」
ああ、という息子の声色に思うところがあったのか、母親は「違うのよ」と慌てた。「マキさんが仕事に出ていることがどうこうじゃないのよ。そのことを言ってるんじゃないの」
「うん、分かってる」
「エイちゃんが長い時間接しているのは、パパ、じいじ、ばあば、でしょう? で、あの子はほとんどグズらないわよね? そういうところ、あんたと似てるんだけど」
記憶も自覚もないが、そうか。俺はグズらなかったのか。
「でも、このままね、グズらないまま大きくなるっていうのは、ちょっと可哀想だし、ガス抜きっていうの? そういうのがあった方がいいんじゃないかなって思うのよ」
グズらなかった俺にガス抜きはあったのだろうか。訊いてみたかったがやめておいた。今更知っても仕方ない。
「じゃあ、どうしたらいいと思う?」
そんな息子の問いかけに「そうねえ、難しいわねえ」と何度か繰り返した後、「少しでもグズりだしたら、そのチャンスを逃さないで、最後までグズらせたらいいんじゃない?」と母親は言った。思わず「難易度、高いな」と顔をしかめると「何言ってんの」と笑っていた。
そのことはマキに話していない。外に働きに出ていることと結びつける可能性を考えた結果だ。その代わり、永子が三歳になってから始めた「ひらがな」の練習について尋ねてみた。
「どう? 大変そうじゃない?」
「そうね、波はあるけど、まあ順調なのかな」
幼稚園に入るまでに、ある程度できるようにしたいらしい。教え方は統一した方がいい、とのことで俺はノータッチ。今日、天気が崩れなかったら、昼飯はいつもの公園で永子と食べよう。その時にそれとなく探ればいい。
少し前までトイレトレーニング用のイラストを貼っていた便所の壁には、「ひらがなシート」が貼られている。そういえばトイレトレーニングの時も永子はグズらなかったな……。
結局俺は何の用も足すことなく、トイレを後にした。
店を開けてから少しの間、小雨が降っていたが、昼過ぎには晴れ間も見えていたので、計画どおりに永子を連れて公園で昼飯を食べることにした。本日、マキは自由が丘でパン屋勤務。両親に店を頼み、親子二人で出かけたのは午後一時半。少し遅めのランチになった。
途中コンビニに入り、永子をよいしょと持ち上げてサンドイッチを選ばせていたが、なかなか決まらないので、隣のおにぎりコーナーへスライドする。
「……た、ら、こ」
「お?」
ふふ、と笑って永子が続ける。
「お、か、か」
「おお、やるなあ。すごいじゃん」
「……か、ら、し……」
「ん?」
「め、ん、た、い、こ」
え! と思わず声が出た。確かに永子の目の前には辛子明太子のおにぎり。「これ漢字……」と言いかけて気付いた。漢字の隣にふりがなが振ってある。おい焦らせんなよ、と言いながら笑っている俺を、永子は不思議そうに見つめていた。
公園のベンチに座っても、まだ「明太子事件」は俺の中で色褪せず、早く誰かに話したいなと考えていた。あの後、迷った挙句に永子が手にしたのは玉子サンド。いつもの、と付けてもいいくらい選ぶ確率が高い。よく動く頬っぺたを見ながら、ひらがなの勉強の感想を聞くのは今度でいいかな、と思っていると「ねえ、パパちゃん」とこっちを向いた。
「ん、何だい?」
「おにいちゃん、いま、なにしてるの?」
光の速さで胃の辺りが重くなる。「ん? 何?」と永子に聞き返した俺の顔は引きつっていただろう。「明太子事件」のことなんて、一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。
(第26回 了)
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