さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
2 六本木の彼女(後編)
*
布団の中で正午を迎えてしまった。日曜日。図書館から留守電が録音されていた。携帯を耳に当て、再生する。自動音声なんかでアナウンスしてきて、やたらと楽している。機械音の中に私の名前が溶け込んでいる。人間じゃないから、イントネーションがおかしい。だれかが私のために時間を割くべきだ。怒っているのでもいいから。ふと、神様に無視されているような気分になった。神様を信じてもいないのに。
終話ボタンを押したら、やたらとお腹が空いていることに気づいた。意図しない断食状態だ。食べたいということしか考えられない。毎日ごはんを食べる。生理的欲求に基づいて行動している自分に腹が立って、ベッドの上でワンバウンドした。うさぎのぬいぐるみが跳ねて、半回転したあとうつぶせになる。
食べたらレジュメをやろう。本を持って下の階に降りる。わざとらしく、階段をぎしぎしいわせる。だれもいない。カーテン越しに、陽射しが透けてみえた。冷蔵庫を開ける。バナメイエビが入っていた。アヒージョの下ごしらえがしてある。コンビニで買ったワインが冷えている。エビを加熱し、皿に乗せる。テーブルの上にフランスパンがある。
少しずつ、エビを口に運ぶ。あまり多いと刺激になる。感情が動きすぎてしまう。起きたばかりのときは危険だから、調節している。人の言ったことを思い出すのもだめ。本を読むのも、禁止。他人が、活字を通して語りかけてくるようなものだから。外的な条件に気分が左右されやすい自分に、自信が持てない。穏やかで、安定していられたらいいのに。エビとフランスパンだけで空腹が満たされた。流しで皿を洗う。尻尾を入れてゴミの日まで冷凍する。グラスにワインを注ぐ。
本のページを開く。心臓がどきどきする。私は全く、著者と接触がないのに。読者である私の感情が読み取られてしまうように感じる。
パソコンを開く。Webページを閉じる。外とつながっているようで、落ち着かないから。Wordの文書に、あいうえおと打ち込む。全部消して、冒頭部分から書きはじめる。なんとかなるような気がする。髪の毛にさわらないように、シュシュで留める。進まないと、髪をいじってしまう癖があるから。自転車のペダルに足をかけて、加速するときのように、ただひたすらに文字を入力する。一文を引用して、続ける。ペースが乱れると、書けない。これでいいのかわからないまま、五枚目にたどりつく。印刷ボタンを押す。文章の意味が伝わりづらい。修正をして、再び印刷する。ホッチキスで留める。レナちゃんに、メールで添付する。あとで読み返そう。ちょっとした達成感だ。武田のことは好きでも嫌いでもないけど、レポートにコメントをつけて返却してくれるところには感謝している。「浅い」の二文字だったときはへこんだけど。
頭が痛い。外で、ポストが閉まる音がした。このままだと、郵便物をとるのが億劫になる。サンダルをつっかけて、玄関から一歩外に出る。新聞とダイレクトメール。ドアノブに、袋がかけてある。シャネルの紙袋。
室内に戻り、中身を確認する。手紙が付いている。真由美ちゃんの字だ。
――このまえのたけのこごはんは、とても美味しかったことと思います。すごく感激ですまあは、たけのこごはんにしました。ありがとう。つまらないものですけど、愛をこめてクッキーを作りました。みなさんでいただいてね。まあより。
脱力。おかしな敬語に癒されてしまった。花柄の便箋にハートのシールが六枚貼り付けてある。メルヘンだ。食卓の端に置く。
カーペットに寝転がりながら、通販カタログを眺める。枕に顔を載せて。天井の電気がまぶしい。メルシャンのワインをごくごく飲んでみる。血圧が上がりそう。のぼせそうなかんじ。今、この瞬間だけ。だれかが横にいてくれたらいいのに。
足の下にあるクッションを移動させ、抱きしめる。でかけようかな。でも、外は寒いし。口の中でつぶやく。腕を目の上に置く。視界が暗くなる。もっと、素直になればいいんだよ。安直なことを言うやつはだれだ。なにかが、私の頬にふれてきた。自覚しながらまどろんでいる。産毛が逆立つような感覚。なんだろう。
私は手の持ち主を確認しようと、身体を横にした。意識だけが、横を向いていた。女性の手だろうか。耳もとで、水が滴るような音が響いている。頬を押す力が強くなった。鬱陶しくて、振り払ったものは繊維状の形状だった。透き通っていて、先が枝分かれしている。枝毛のように、乾燥していた。アンモナイトだ。毛先は、パタパタと叩くようなしぐさをしていた。バナメイエビのかわりに、復讐しに来たのかもしれない。
私は動きを止めさせようと腕を振りかざした。ハタキに手がぶつかったような感触がした。アンモナイトは動きを止めた。頭をなぞったあと、気配がなくなった。自分とは異なる生物だと認識したのかもしれない。選挙カーの音で、意識が覚醒した。蛇口から、水滴が落ちている。身体を起こしてハンドルを閉めたら、周囲が静かになった。
部屋に戻る。レナちゃんに電話をかけてみる。
「パソコンのほうにメールした」
「え? 本当? ありがとう」
「どういたしまして」
「先週、母親が北海道から来たの。事前に言ってくれなかったから、すごい動揺した」
「タカユキ君は? どうしてるの?」
「親が来たって言ったら、びびっちゃったみたい。「お父さんとうまくやれよ」って言うだけで、全然たよりにならない。こっちからタカユキの部屋に行ったこと、ないんだよね」
「あーねー」
呆れているのが声に出てしまう。
「でも、好きなんだよね」
「……うん」
「彼ってどんな性格?」
「ホストだけど、純粋な人」
そんな人間はいない。
「え? どこで会ったの?」
同い年なのに、若い子はわからないという粋に達している。
「サークル。レナからはお金をとらないし。迎えに来てくれたりもするし。本カノだって自信は持ってる。彼の弱いところも、全部包んであげられるのはレナだけなの」
傍からはわかることが、本人にはわからない。恋愛って不思議だ。
「それ騙されてるって思うのは私だけ?」
恨まれるかもしれない。けど、言っておかなければ。
「批判とかはあるよ。誤解されるのはわかってる。二人で乗り越えようって、彼も励ましてくれてる」
誤解ではなく、理解ではないか。
「あー。そうですか」
なにを言っても無駄だ。
「疑うなら、二人でいる様子を見てみてよ」
「そこまでは……」
「いいから、来て」
ムキにさせてしまった。
「んー」
「明日、三時に六本木ね」
一方的に電話を切られる。いいところに住んでるじゃないですか。
次の日。私の駅から六本木までは遠い。電車を二本乗り継ぐ。
――駅まで着いたら、メールして。
だそうだ。都民だって、六本木に来るときは緊張する。都下在住の私からしたら、六本木は大都会だ。地下鉄の駅構内を歩く。出口が多すぎる。携帯を取り出す。
――1C出口からすぐ。下で私の名前を言って。二階だから。
地図が添付されている。駅まで来てくれるのではないかと思ったけど、甘かった。長いエスカレーターに乗る。フランス人が、前で喋っている。この六本木感。エスカレーターが終わると、すぐに出口だった。階段を駆け上がる。視界が開ける。高層ビルが乱立している。そうだ、お菓子を持っていかないと。六本木ヒルズをひやかす。色付きタワシを八百円で売っている危険な場所だ。クモの形のオブジェ。美術館。映画館。美容専門学校やオフィスもある。大型エスカレーターの上の大画面。丘でフリスビーをする家族や、ベンチで英字新聞を読む女の人。ところどころに緑が配置されている。広すぎるので、ぶらぶらする。スパークリングティーと、TORAYA CAFÉの和マカロン。自分が気になっているものを買い、人の家に行く。地図を見たかぎりでは、ここから遠くはない。
最近、googlemapというものを使えるようになった。住所を入力し、検索をかける。現在地が、水色のマルで表示される。私が移動すると、マルも動く。フラグが付いているところまでそのまま歩けばいいのだ。便利な世の中になってしまった。携帯を凝視しながら、進む。風が爽やかだ。ipadを操作しながら歩く人。キックボードで車道を突っ切る人。並木。蛍光グリーンを着こなす、サングラスの女性。コリー犬を連れた紳士。さっきから、景色が変わらない。マルの動きが変だ。突然、横に逸れたりしている。すると、一本道がちがう。私はプチパニックになった。堅牢な建物から、パワーエリート風の男性が出てきた。あれに聞いてみよう。
「すみません」
「うむ」
たちどまってくれた。白髪をきれいに染めている。
「ここに行きたいんですけど」
「あの、クリーム色の建物から右。三件先」
対応が早い。早すぎる。
「ありがとうございます」
走った。門番がいるマンションだ。身分証明証の提示を求められる。紙になにかをメモしている。過去の軽い過ちが頭の中で再生される。大丈夫そうだ。裁かれることはない。受付でレナちゃんの名前を言う。
「ご本人様のお名前は?」
首にスカーフを巻いた、客室乗務員のような女性が言う。
「中野です」
「少々お待ちください」
電話で確認をとっている。
女性が立ち上がった。おじぎをしている。扉が開く。エレベーターはその奥にあった。二階を押す。ガラス張りになって、透けているタイプだ。景色が見えるようにという配慮なのだろう。後ろを向かないようにする。
――二階です。
廊下が広がる。ホテルみたいな赤いカーペット。
「迷った? 迷ったでしょ?」
ショッキングピンクのニットワンピースを着たレナちゃんが、見下したように微笑んでいた。
ドアを開けて最初に目に飛び込んできたのは、白地に紫のノルディック柄の壁。
「派手だと思った? でもね……」
さらに進む。
「家具は、シンプルにしたの」
黒だ。黒ばっかり。キッチンも、寝室も別の空間のようで、仕切りがしてあるのでここまでしか見れない。テレビが付けてある。
「レナー、このパスタ美味しい」
ソファーから声が聞こえる。人の姿は見えない。表にまわる。横たわったタカユキだ。ソファーの肘掛に皿を載せて、スパゲティーミートソースを食べている。髪の色が黒くなっている。染めなおしたのだろうか。声だけは少年みたい。
「こんちは」
目が合ったからだろう。私にも声をかける。自分の家のようにくつろいでいる。猫がプリントされた黒地のTシャツに、ラコステのジャージで足元は素足だ。
「あ、こんにちは」
「テレビ、好きにチャンネル変えていいよ」
おいおい。タカユキ。それはいくらなんでもふてぶてしいのではないか。
「さやちゃんも食べなよ。いいの。座ってて」
動きが機敏だ。取っ手付きのお盆を持ってもどってくる。レナちゃんにこんな面があったなんて。上に見たこともない葉っぱが乗っかっていて、とてもきれい。サラダまで添えてある。床に動物の毛が敷いてあるので、座るとふかふかして心地いい。
「これ、流行ってるらしい」
恩着せがましく、持っていたものを渡す。
「わー。ありがとう」
「スパークリングティーだ。ジャスミンがそのまま入ってるよ」
わざとらしいと思いつつ、かわいさを感じてしまう。タカユキ本人も、半分開きなおっているのだろう。
「私、部屋着に着替えようかな」
レナちゃんが、楚々とした口調で言う。
「ここでいいよ。いつも俺の前で着替えてるじゃん」
「やだもう」
人のプライベートを覗いてしまったような気分になる。パスタをフォークで巻き、口に放り込む。ママの味だ。私は遊びに来たのではない。レナちゃんのためにタカユキを査定するという目的を思い出した。テレビとタカユキが見える、中途半端な席に座らせられている私。右にタカユキ。左にテレビだ。正面には黒のカーテン。レナちゃんの中では、タカユキがテレビを観るのが優先だからこの位置なのだろう。ペリエが入っているグラスを見るふりをして、タカユキに意識を集中する。口を半開きにしながら、髪をなでつけている。
「髪、トリートメントしたあと染めた。どう?」
私に聞いてくる。見ているのがばれてしまったのだ。
「まあまあ?」
「微妙系、か」
うすら笑いを浮かべる。勝者の笑みだ。こんな奴が純粋なわけがない。
「言われちゃったね。タカユキ、退屈してない? ゲームやる?」
「wii買ったじゃん。あれ、やろうぜ」
レナちゃんが、テレビの下の棚をあさりはじめる。
「ごめんね。テレビ観にくい?」
とタカユキに言いながら。
「大丈夫。俺、全然気にならないし」
タカユキは私にコントローラーを渡してくれる。強制的にゲームに参加させられるようだ。人生ゲーム。コントローラーを振って操作するだけ。運で勝敗が決まる類の、単調なものだ。タカユキが一番最初にはじめた。だれにことわることもなく。
「俺、田園調布に家建ててるよ。びっくりにゃー」
猫になってしまった。手をグーにしている。レナちゃんが部屋に戻った。着替えているのだろう。
「岐阜に帰らないですむね」
と、鎌をかけてみた。「都民」をやってくれている感じが出てるし。
「え? 俺、埼玉出身」
思わず素で答えてしまったようだ。鼻の頭を掻いている。
「埼玉なんだね」
「そう。埼玉っす」
「レナちゃんとはどうするの?」
いきなりな質問だけど、しょうがない。
「……俺は俺だよ」
目に入りそうな前髪をかきあげる。
「わかってるよ。将来、どうするの?」
「薬剤師やろうと思って。勉強がんばってる。企業とか俺、嫌いなんで。集団生活がダメ系だからさ」
地声は普通だ。サラリーマンにいそうな声。
「そっか」
レナちゃんがいないあいだ、タカユキは無邪気なふりをやめた。お金持ちでもない私の前では、手を抜きたいのだろう。お互いに手の内がバレている人間同士の、停滞した雰囲気が室内に充満していた。
「今日もいっぱい遊んだなあ。疲れたか? タカユキ」
レナちゃんが戻ってきた。タカユキに、ひざまくらしてあげている。ゲームの勝敗には興味がないらしく、無造作にコントローラーを振る。画面を見もしない。部屋着、とはベビードールのことらしい。上は、チューブトップのようなデザインで、胸元に大きなリボンが付いたもの。下は、ミニスカートの中に、薄手のズボンが入っているものを履いている。スカパンだ。全体に水色。長いネックレスが胸の谷間に挟まっていて、同性でも気になる。息をすると、ネックレスがせり上がる。
「俺、レナとお父さんが上手くいくこと、望んでる。お父さんだって、本当はレナのことを大切に思ってるんだと思う。レナは娘なんだからさ、愛してるに決まってるよ。レナがしっかりしてるから、信頼してあんまり連絡をとってこないんだと思う。それに俺は、ずっとレナといるよ」
何度もレナちゃんの名前を呼びながら、父親と疎遠だということを感じさせる。父親とうまくやってほしいのも、彼の都合だろう。レナちゃんの資金源だから。プロフェッショナルだ。
「タカユキ……」
キスしはじめた。私は、ゲームに没頭しているふりをする。画面上で、マス目が三つ進んだ。
――出資者が降り、勤め先が倒産。職を失う。
ゲームなのに設定が細かく、毎月家賃が出ていくことになっている。このままだと、破産だ。
「タカユキ君の番だよ。ほら、早くやって」
ムードを壊すために、声をかけてあげる。
「がんばれ。タカユキは強いから大丈夫」
レナちゃんが、無理矢理な励ましを送る。
「あー。もうこれから仕事だよ。ブスしか来ねえし。レナといる時間だけが癒しだよ。レナのかわいい顔が見れてさ」
「もう、タカユキったら」
頭を撫でている。もう、大体わかった。
「じゃあ、私も帰ろうかな。明日も学校だし」
「え? もう少しいれば?」
レナちゃんは、さみしそうな声を出す。
「でも。レジュメが途中まででしょ? レナちゃんはやらなさそうだし」
責めるような口調になる。白状すると、根底に恨み心があるからだ。
「わかった。また、買い物しようね。メールする」
「お邪魔しました」
「ばいばい」
タカユキが手を振っている。
*
授業日。サークルの先輩が、またいる。白シャツだ。
「ちょっとあなた」
シスターは、だいぶ走るのが早い。
「塀を乗り越えるところ、見たからね。今日は逃がしません。パウロ像が倒れてたわよ。うつ伏せになって、顔が割れてたの。あんたの仕業でしょ? 普段はこんなこと、起こらないんだから」
言いながら、先輩の腕をつかむ。
「いや。ちょっとわかんないかな。帰っていいですか?」
大きなたれ目が泳いでいる。草食動物みたい。
「そのまえに、言うべきことがあるでしょ?」
「え? なんのこと?」
「ごまかさないの」
ほかのシスターも、続々と集まってきた。
「見た見た! この人がパウロ様をめちゃくちゃにしたの」
指を指し、あっという間に取り囲む七人のシスター。
「弁償しなさいよ」
大きいシスターの発言。声が裏返っている。
「いくらですか?」
「寄付金で作ったから。百万以上はしたわよ」
「毎月千円ずつ払うんで。はい、今月分」
動じていない。合成皮革の財布から、千円を出している。いつもジーパンのポケットに財布を入れているのだ。
「じゃあ、身体で返す」
ウインクをしている。
「私たちは、神様と結婚してるの。悪魔の誘惑には屈しません」
「悪魔じゃねえよ。彼女のことだって大切にしてるし。いくら俺でもさ。毎回居酒屋に連れてくのはかわいそうだし。下宿代もあるし。あと、ホテルにも行くし。だから、ローン組ませてよ」
彼女? 聞いてないけど。
「あなたが決めることじゃないの。加害者なんだから」
「あー。金ねえし。勘弁してよ」
「中野さん。知り合いなの? この人と」
私に矛先が向いてきた。背の低いシスターが、ぴょこぴょこ跳ねている。
「え? 今、話しかけられただけで、全然です」
他人を装う。
「だーめよ。悪い男に関わっちゃ。家に帰るまでが学校です。だまされるから、赤ずきんして歩かないと」
「えー。コワい。よくわからない。授業に行ってきます」
「おい。先輩を見捨てるのかよ」
ざまあみろ。馬鹿。嘘つき。私は早足になった。
教室のドアを開ける。必修の授業は人数が多い。長椅子に三人掛けになってしまう。バッグを背もたれに置くと、さらに窮屈に感じる。
「ごきげんよう。こっちに座ったら?」
亜紀ちゃんの声。いつも十分前に着いている。
「おはよう」
「ねえねえ知ってる? パウロ像、壊れたって」
もう話題になっている。
「見たの?」
「シスターが叫んでた。大騒ぎだったよ」
「なくてもいいと思うけどね。それより、クラブ棟を新しくしてほしい」
そっけなく、ゆかが言う。ショートカット。オレンジジュースのパックに、そのままストローを突き刺している。
「言えてる」
「私、あれダヴィデ像だと思ってたんだよね」
亜紀ちゃんはたまに、拍子抜けするようなことを言う。
「服着てるじゃん」
と、ゆか。
「そういう見分けかた?」
「シスターが手彫りすればいいのに。どうせ、ヒマなんだし」
亜紀ちゃんが、クリアファイルからルーズリーフを出しながら言う。
「うちの学校どういうアピールなのよ? 血気迫りすぎ。受験者数、減るよ」
ゆかと亜紀ちゃんは相性がいい。
「まーね」
先生が入室してきた。正面を向く。フランス語だけは、真剣に取り組もうと思っている。大学からはじめて、既習者と同じクラスに入った。
将来のことなんて決めてない。とりあえず、不幸になりたくないと思っている。不幸なのと、幸せじゃないのは違う。変な言い方だけど、幸せじゃない状態は、充分に幸せだ。用心深く生きていれば、幸せじゃないところにとどまっていることができると信じている。不幸の種があちこちに散らばっているから、それをよけて歩けばいい。がむしゃらに頑張っていても、方向性が決まっていなければ、ただじたばたしているだけになってしまう。
「一人の人間は決して一個人ではないからである。人間を独自的普遍と呼ぶほうがいいだろう。自らの時代によって全体化され、まさにそのことによって普遍化され、彼は時代の中に自己を独自性として再生産することによって、時代を再び全体化する……」
先生が、訳出をしている。自分の訳を確認する。構文はとれているけれども、細部のニュアンスがズレている。現在分詞が苦手なのだ。簡単に、セルフイメージが下がる。苛立っているのを感じる。そんなにインスタントになにかができるようになるわけがないのだから。あせっても意味がない。赤のボールペンで間違いをなおす。
「今日、予定ある?」
授業後、ゆかが話しかけてきた。
「なんで?」
「コンパ。彼氏とデートがあるから出られない子がいて、人数が足りないんだけど。公務員だよ。行こうよ」
「このあと、図書館に行かないとなの」
「レナちゃん? ほうっておけば?」
「約束だし」
「ふーん。じゃあ、また明日」
「またね」
教室を出てしまうと、不安になる。キャンパスが時々やけに広く感じるのだ。実際は、どこもかしこも狭いくらいなのに。階段なんて、授業後は人が多すぎてなかなか通れない。入学したばかりのときは、休憩の間に教室移動をしなければならないのがつらかった。何度も、間に合わないのではないかと思った。遅れると、先生にしかめ面をされた。勉強ができないのはかまわないけれど、生活面でだらしがないのはいけない。そう言われているような気がした。授業の履修の時も。自由に選択していいと言われると、責任放棄されたような気分になった。一年次から他学科の授業をとっていいものか、いちいち隣の席の人に確認した。群れているのをわずらわしいと思いながらも、いつもだれかと一緒にいた。単独で行動するようになったのは、つい最近からだ。けれども、いまだに他人との適切な距離というものがわからない。
レナちゃんは、おとなしく学校の教室に来た。
――みなさん、油断も隙もあるのね。持ち物はご自分で管理なさること。 学生課
個別で仕切られた机の壁面に、両面テープで貼り付けられた紙。物を取られたら、取られたほうが悪いという論理なのだろう。いちいち腹が立つ。
「ホワイトカラーのホームレスもいるんだね」
共通の話題ができたので、話してみる。
「レナも驚いた。でも、今は考えたくない。状況が状況なだけに、つらい」
「ごめん」
レナちゃんは、隣の机で本をひらいて、ノートに文章を写している。定型ではないけれど、きれいな字。勤めが長いOLさんが書く字に似ている。シャーペンには、ピンクの房がぶらさがっている。動かす度に、手に当たって邪魔そう。本には、カラフルな付箋紙。
私は横で、ギリシャ神話の課題をやる。重要なところを「 」で囲む。テキストの内容の要約。先生が出版したもので、絵も先生が描いている。劇画タッチのヴィーナスが、力強く貝殻の上に乗っている。
「もういいよ。帰りに、どこか寄らない?」
私が先に、ギブアップした。
「ちょっと、黙っててくれる? 本読んでるから」
レナちゃんが、尖った声を出す。叱られたような気分になる。
「はいはい」
「あ。ごめん。ここだけコピーしていい?」
立ち上がる。すぐに戻ってきた。
「終わったらから、いいよ。帰ろう」
集中力にメリハリがあるのだ。私にはできないことだ。バッグを肩にかける。バイトして買った、Samantha Thavasaのもの。同じメーカーの商品を持っている人を、校内でよく見かける。校門まで、横並びになって歩く。シスターがこちらに来た。
「ちょっと、お嬢様。下着で外に出てはずかしくないの?」
怪訝な表情をしている。
「コート着てるし。キャミソールは下着じゃないんだけど」
レナちゃんは、シスターにも敬語を使わない。それにしても、寒くないのかが気になる。言うことを無視して、すたすたと先へ行く。私も小走りになる。
「神様はね、いつも見ていますからね」
後ろから叫ぶ声。
「きれいごとばっか。そんなに神が好きなら、天に召されろよ」
ポケットに片手を突っ込みながら、レナちゃんがつぶやいた。
「雑貨屋さんを見よう」
駅の近くで、レナちゃんが言う。雑貨屋さんに入る。ぬいぐるみが並んでいる。お腹の部分がタオル地でできている。やわらかそうな手作りの動物のぬいぐるみ。
「顔のパーツは、手刺繍しているんですよ」
店員さんが、ぬいぐるみの紹介をする。
「レナ、これ欲しい」
うさぎを手にとっている。よく見ると、タオルには薄いクリーム色でライオンや熊、象などの柄が入っている。よだれかけにぴったり。赤ちゃんにあげてもおかしくないデザイン。
「それ? ほかにも種類があるよ」
「あ。でも、やっぱりいいや」
棚に戻す。気まぐれなのだろうか。
「レナ、正式に引っ越すかもなの。だから、荷物を増やさないようにしてるの」
正式に。かも。どちらなのだろう。
「あのね、このまえママが来たとき、黙って帰って行ったけど、なんか言いつけたみたいで、パパが仕送りをやめるって言い出したんだよね。家賃払えないから、追い出されるかも。どうしよう。キャバの寮に入ったら、タカユキ呼べないし」
キャバ、とはキャバクラのことらしい。
「え? 言い逃れできなかったの?」
「門番がいるでしょ? 身分証確認してるから、どこにだれが入ったかわかるし。レナの親だったら、余分なお金を払ってでも事実を確認すると思うんだよね」
「パパとは直接話さなかったの?」
「なんでもママに言わせるの。そういうところが嫌なんだよ」
人差し指でコートを叩いている。無意識なのだろう。
「バレるのなんて、時間の問題じゃない?」
「うーん……自分でもなにがしたいんだか、わからない」
「タカユキ君の家は?」
無理なことがわかっていて口に出してしまった。
「迷惑かけたくないし。引っ越すなら一緒に住むって言ってるけど……」
「どうするの?」
「しばらくは、ネットカフェで過ごそうかな、って」
あんな環境に、レナちゃんが耐えられるわけがない。個室が狭いと言って、店員に文句をつけるだろう。
「普段、仲良い子たちは?」
「綾香は、男と住んでるし。綾香自体、追い出されそうだもん。このまえ、ケンカしたら出て行けって言われて、戸口まで引きずりだされそうになったらしい。実家にはお兄ちゃんとお嫁さんがいるから、帰りづらいんだって」
「そっか」
「実家暮らしの子のところにレナがいるのも、居心地悪いし。やっぱり、頼めないよ」
私の家に来たら? と言いたい。けど、祖父は他人がいると機嫌が悪くなるので、三日が限度だろう。そんな日数では、埒が明かない。
*
ついに発表当日になってしまった。自分の番でもないのに、そわそわする。
「ビデオを観て、感想を書いてください。そのあと、保坂レナさんに発表していただきます。後ろの方、カーテンを閉めてください」
武田大先生によるいつもの手抜き授業だ。ビデオを放送して、電気を消す。
「寝ないでください。寝るくらいなら、帰ってください。おしゃべりも、やめること」
そう言ったあと、武田はしばらくして目をつぶった。生徒に注意したくらいだから、自分は瞑想なさっているのだろう。
「武田、寝てない? このテーマ、重いし」
ゆかが小声で言う。
「心の旅に出ただけ」
聞こえていても構わない。前期と変わらない成績がつくだけだろう。
「高尚」
「シスターって、ホームレスなの?」
「だって、校内の施設に居住してるよ。森の奥にある家。近くのベンチで、座って鳥を見てたら、立ち入り禁止だって言って怒られた。わざとじゃないのに、追いかけられて反省文書くはめになった」
「初耳」
「これから、リアクションペーパーを配ります。そのまえに、ホームレスについて思うことを一言ずつ言ってください。廊下側の、いちばん前の方からどうそ」
ビデオが終わると同時に、武田が目を開けた。なにか、悟ったのだろうか。
「ウザい」
「なんか、いつも寝てる」と、私。
武田の眉が動いた。
「公共の場所で時間をつぶしてる」私の次の人。
「基本的にやる気がない」次の次の人。
「もういいです。わかりました。保坂さん、お願いします」
「はあい」
レナちゃんが立ち上がり、武田の前に座る。ベビーピンクの、背中が開いたワンピース。ウエストには、リボン型のベルト。スカートの裾から、ガーターベルトが露出している。武田の口元がゆるんでいる。
「レナはー、ホームレスについて調べました。ホームレスには定住型と移動型があり、移動型のホームレスには、日中は就業している人も含まれます。夜間のみ、ネットカフェやファミリーレストラン、公共の場所で過ごしている人もホームレスです。働くことを望んでいても、住民票がないので、正規に雇用されることは困難です。えーっと。住所不定なので、住民票を抹消されることもあります。ドメスティック・バイオレンスが原因でホームレスになった人もいます。保護施設もあります。ホームレスになるということは、他人事ではありません……」
どんな心境で発表を行っているのだろう。心配になって、表情を見る。平然としている。緊張も、まったくしていない。
「スクリーンをご覧ください」
パワーポイントで、表が作ってある。色分けしてあってわかりやすい。いつの間に作成したのかが疑問だ。
発表は、三十分程度続いた。
スピーカーから、音楽が流れる。主よあなたの愛は永遠。授業の終わりの合図だ。
「レナちゃん、そのあと、どうなった?」
聞いてみる。
「パパが来てくれて、前借りしたキャバのお給料払ってくれた。家賃も復活させてくれるって」
「よかったね」
「パウロ像も、パパがかわりに弁償してあげたんだよ。けど、タカユキとは別れるのが条件って言われて……。パパが、今度は犬でも飼いなさいって。タカユキといられた日々が、幸せだった」
泣いている。けど、すぐに立ち直った。
「課題手伝ってくれたから、パパが経営するホテルには無料で泊まらせてあげる。全国に、チェーンで持ってるの」
髪をかきあげながら、得意げに話している。
教室に出て、生徒たちの集団に混ざる 五号館の前を通りすぎる。ふと左を見たら、シスターがゴミ箱に思い切り蹴りをくらわせていた。
(第04回 了)
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*『学生だった』は毎月05日にアップされます。
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