さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
0 螺旋階段(前編)
部屋の机の上。朝置いたカップが、そのままになっている。取っ手をつかむ。冷たい。なんでこんなものを放置したのだろう。階段を降り、流しで洗う。水切りに伏せる。そのつぎの瞬間から、なにもするべきことがないのではないかと思う。
「だったら、テレビでも観ていればいいじゃないの」だれかの言葉が浮かぶ。リモコンのスイッチを押した。人がひな壇に並んでいる。笑っている。砂あらしを見ていたほうが、まだよかった。
テレビを消した。たしか、課題があるはずだ。プリントを開く気もしない。外気と体温が同じになるような。空白とも呼べないような。意味のない無言の時間を、私は引き延ばそうとしている。今日は木曜日で、平日で、昼間は家の前の人通りがすくない。
うちには、螺旋階段がある。金属製の、安っぽいものだ。家庭内よりも、アスレチックにありそうなもの。祖母が『風と共に去りぬ』のワンシーンにあこがれて、つくらせたのだ。日本家屋にはミスマッチで、滑稽な印象すら受ける。玄関のドアはドーム型にくりぬいてあって、ステンドグラスが嵌め込まれている。
「たけのこ、渡辺さんの家に持って行ってあげなさい」
祖母が、ビニール袋を私に差し出した。
「今から?」
「そんなこと言ったって、近所でしょうが」
「あの子はいい子だぞ。見ればわかるんだ」
祖父も、新聞から顔を上げて言う。
「ほんと。お付き合いしてる人も、京大を卒業した人だって。すごい人つかまえたわ。幼馴染に先を越されないように、あなたもがんばりなさいよ」
「昔から、しっかりしてたな。たいしたもんだ。今銀行に勤めてるんだろ?」
「銀行じゃないよ。銀行と消費者金融は違うから」
「あんた、他人の悪口を言うもんじゃないの」
こんなやりとりを続けるよりも、外に出たほうがましだ。荷物を持って渡辺真由美の家に向かった。徒歩三分ほどで着く。
コーポラスのインターホンを押す。出ない。もう一度押してみる。
「はぁい?」
眠たそうな声を出して、真由美ちゃんが姿を現した。パジャマを着ている。
「突然ごめん。これたけのこ。親戚からたくさん送ってきたみたい。今日、月曜日だからベルリッツだよね。忙しいよね。帰るね」
「ゆうくんが早めに来たのかと思った。いいよ。上がってお茶してって。たけのこのお礼」
私を放置して、部屋に入っていく。
「お邪魔します」
室内は、フローラルな香りに満ちていた。バラとパイナップルとシトラス系が混じっている。本棚には、レディースコミックと恋愛のハウツー本とマニキュアが並んでいた。CanCamの古い号もある。表紙には『めちゃモテ秋の陣』の文字。
この部屋は、人工的な女らしさに満ちている。ハート型のクッション。ショッキングピンクのテディーベア。ギンガムチェックのカーテン。その中でも一番不自然な存在は真由美ちゃんだった。彼女の顔は、プラスチックのようにつるんとしていて、ひっかかりがなかった。小さめな黒目に、幅の広い二重。小さくて印象に残らない鼻。幼い頃とは違う顔。まさに聖域なき構造改革だった。彼女の顔について批判する人はいなかった。子供なりに、触れてはいけないことだと認知していたのだ。真由美ちゃんは、そういう顔をしていた。
「ベルリッツ、時間ずらしたんだね」
「もう辞めたの。私は器用だから、すぐに道を究めるの」
「へぇ」
そんなわけがないのは知っていた。真由美ちゃんの成績は悲惨としか言いようがなかった。彼女と同じ高校の人から聞いたのだが、親が大金を積んでやっと高校を卒業したらしい。担任を家庭教師として雇っていたのだという。
真由美ちゃんはその後、偏差値三十二の大学に進学した。都内にはそのレベルの大学はない。なので、大学時代は関西で過ごしていたのだそうだ。近所では有名な話である。茶道を習っていたこともあったが半年で辞めていたし、ピアノは五年も通っていてト音記号もまともに書けない。
「お勤めしながら習い事って、大変だもんね。休みの日、なにしてるの?」
「自分みがき」
「ってなに?」
「ジョギングとか。太っておっぱいが垂れるのだけはムリ。それがプライド。私は目立つタイプだし、ファッションには自信がある。服の組み合わせだって、他の人とはちょっと違うかな、って。付き合ってる男も京大出て弁護士目指してるの。ブランドでしょ?」
見栄とプライドはちがう。そう言いかけて、やめた。
「ふうん」
気づくと、真由美ちゃんとの会話はふうん。に満ちている。私が悪いのではない。ありのまま、感じたままを音声化するとふうん。になるのだった。
「そういえばさあ、最近武井さんに会ったんだけど、これからアメリカに留学するんだって。なにになるのかね。居場所がないとか言って、仕事も辞めちゃったみたいだし。経歴だけはお嬢様みたい。惜しいね。あの子も」
「へぇ」
それ以上、話すことはなかった。
武井のぞみは、私と小・中の先輩で、近所に住んでいた。他人に弱味を見せない性格だった。勝ち気なので、オシャレにも手を抜かず、人気と成績の良さを同時に獲得していた。努力によって、なにもかもを手に入れる。その発想が、私は好きだった。
私はといえば、小学校のときからマイペースだった。休みたいときは学校を休むし、嫌いなことはしない。自分の能力を見切っていたのかもしれない。だから、高学年の先生には軽く目を付けられていた。彼らは「スポーツを通して健全な自意識を作る」ことをモットーにしていた。そのために休み時間に学年対抗でドッジボールをさせたりした。読書が趣味な私には迷惑な話だった。抵抗しても更にややこしくなるだけなので、いつも早めにボールにぶつかって「頭が痛くなった」と言って保健室に駆け込んだ。バッグには、いつもコンパクト版の図鑑が入っていた。魚とか、鳥の絵が載っていて、安っぽいビニールのカバーが付いているものだ。世界名作全集の中の一冊のときもあった。ベッドでの読書ほど、幸せなものはない。
気が向くと、カーテンをめくって外を眺める。のぞみが健闘している。彼女はもとから外野で、次から次へと敵チームのメンバーにボールを当てていた。投げるときは、いかにもボールが重たいという様子でよろけてみせるのだった。
外れている存在として認識されている私とは、隔たった存在だった。それなのに、二人は仲が良かった。彼女は、いつも苦戦していた。頑張りすぎて胃に穴が開くということが日常的に起こっていた。
部屋の窓から、外に見える空の様子を眺める。
鳥が飛んでいた。もっと近くだったら、名前がわかるのに。明日は休みだから、野鳥を見に行こうと思った。この地域は、都内でも自然が残っているほうで、公園の池に行くと白鷺が歩いている。白鷺は歩き方が勿体ぶっていておもしろい。自分が注目を集めていることを知っていて、たまに立ち止まってこっちを見る。それから、また無関心そうに歩いていく。先にどんな鳥がいようとお構いなしで、まっすぐ進んでいく。見物人が撒いたパンやポップコーンにたかることもなく、ただひたすら歩いている。独特の美学を持った鳥で、私は好きだ。
突然、目の端に赤い色のものが映った。狭いベランダに干されたパンツだった。透けていて、まるでセロファン紙みたいなそれは、黒いレースの淵がほつれている。何度も洗った形跡があり、なんともいえないやるせなさをかもしだしていた。
「忘れてた。しまわないと」
真由美ちゃんは、下着と服を取り込んだ、下着は、さっき見たのと同じようなものがほとんどで、ピンクとメロン色などの色合わせのものが多数あった。私の目の前でたためるくらいだから、真由美ちゃんにとっては普通のことらしい。たけのこは、袋ごとキッチンの近くの床に置かれていた。たぶん袋に入ったまま長く伸びきるまで放置されるのだろう。
「やだぁ。あと二時間でゆうくん来ちゃう」
「あ、長居してごめん。帰るわ」
「大丈夫。私、一人でいられない性格だし。そこにいて。テレビでも見てて。本も読んでていいし」
そう言いながら、真由美ちゃんはお風呂に入りに行った。ちゃぷちゃぷという水音。私は、床に伏せてある本を手に取った。黒い地に、女の人のシルエットが描かれている表紙。大きな図と、少ない文章で構成されている。中身は、セックスのハウツー本だった。見てはいけないものを見てしまったようで、口の中が苦くなった。もとの位置に戻し、テレビをつける。お笑い芸人が、自虐的なコントを披露していた。卑屈で、どこにエンターテイメント性があるのかわからなかった。
背後から物音がした。真由美ちゃんが風呂場から出てきたのだ。スカーフみたいな柄のワンピースに着替えている。ゆうくんの好みなのかもしれない。ケミカルなストロベリーの香りが、部屋中に充満する。プラスチックの折り畳み式ちゃぶ台に、化粧品の瓶を並べる。ターバンのようにしたタオルから水滴が落ちる。真由美ちゃんは、パープルの地にラメの入った卓上型の鏡を凝視し、顔の上に化粧水と乳液を重ねた。ドライヤーの音が聞こえる。タンパク質が焦げる匂い。本棚の下の引き戸から、ハンディーの巻きゴテとカーラーを取り出す。私が雑誌をめくっている間に、真由美ちゃんの髪の毛は細かく分けられ、カーラーが設置されていた。束を手に取って、コテで挟む。
「習慣なの?」
「毎日一時間かけてる。毛量も多いし」
「ふうん」
「いつもナチュラル系? な服だけど、彼氏いないの?」
「いる」
素早く私の全身に視線を走らせる真由美ちゃん。
「もっと女を出せばいいのに」
「わたしは、そういうんじゃないから」
真由美ちゃんは、納得できない、という表情で私を見た。彼氏とは、付き合って一年以上にもなるのに「そういうんじゃない」関係だった。嫌いなわけではなかったし、むしろ好きだった。人としての能力の面で、信頼を寄せていた。なのに、ストレートに迫ってこられると抵抗があった。
彼はたまに、私のことを「先生」と呼んでいた。尊敬しているからではない。私が知らないことをみつけると、すかさず先生と言うのだ。そして、軽蔑と愛情が混じったような表情を浮かべるのだった。それは性的なニュアンスを持っていた。関係を持ったら、彼の中の軽蔑が一気に押し寄せてくるような気がした。だからといって、彼がほかの女性を性的対象として見るのには抵抗感があった。嫉妬心とはまた異なる感情。相反する感情の中で、自分を持て余していた。彼はすでに、私のことをめんどくさい女だと思いはじめていた。「じゃあ、どうすればいいわけ?」が口癖になりつつあった。聞かれても、どうしていいのかわからなかった。真由美ちゃんには、そういう葛藤はないように見えた。きっと、女としては優等生なのだ。
とりとめのない思考を続けていくうちに、時計は夜の十時を回っていた。
「ちょっと出かけるとしか言ってないから、そろそろ帰るわ」
「あっ。本当? じゃあ、またね」
ドアが閉まる音。それから、真由美ちゃんとは会わなくなった。思い出すこともなかった。
*
「そういえば渡辺さんね、引っ越したみたいなのよ」
台所に向かいながら、祖母が話した。
「なんで?」
「なんでって、お母さんが迎えに来てね、大変だったのよ」
この人のしゃべり方は、いつも要領を得ない。少し苛立ちながら、質問を重ねる。
「え? なんかあったの? っていうか、いつのまにか一人暮らしになってたことしか知らないんだけど」
「ほら、あの子って努力家でしょ? 息が苦しいって言って倒れたらしいのよ」
「どこで?」
「救急車で運ばれてね。そこで、渡辺さんのお母さんに連絡が行ったらしいのよ」
「過換気症候群ってこと?」
「おばあちゃんは、人の噂をする人間じゃないからね。詮索もしないし、人の悪口を言ったことも、一度もないよ。自分に返ってくるからね。渡辺さんの家、父親は単身赴任だって言ってたけど、うちに挨拶に来たこともないしねえ。見たこともないでしょ?」
私はうんざりしながらうなずいた。祖母はまるで、ワイドショーを観ているかのような口調だ。会話は自然に終わっていた。
1 横浜
「土曜日に、横浜がうちまで来るからね。きちんとご挨拶しなさいね」
祖母が言った。横浜、というのは横浜に住む身内のことだ。親戚同士なので、地名で呼び合う。
土曜の朝、祖母は買い出しに行った。客を招くときは、いつもより高級な食材を並べるのだ。
「ごめんください。姉さん、兄貴、久しぶり」
十二時頃、横浜らしき人物が現れた。目の光が強く、細くて高い鼻をしている。男物の、そっけないグレーのコートが、しなやかな体型を引き立てていた。紅いくちびる。手には、ルージュと同じ色の、細い指を覆う大きさのルビーの指輪をつけていた。
「遠かったでしょうに。わざわざありがとう」
そう言って、祖母は食卓まで横浜を案内した。祖父は刺身を食べて酒を飲んでいた。会話はもう、はじまっている。私はすこし離れたソファに座らせられているから、流れが掴めない。同じく隔離されている母と雑談をする。食卓で話す声が小さくなった。
「ちょっと、仏さまからお菓子もらってきて」
祖母が私に指示する。
私は仏間に行って戻ってきた。さらに何を話しているのかわからない。十五時頃、横浜が立ち上がった。
「バス停まで送っていけ」
祖父は私に言った。
横浜と一緒に歩いた。横浜はバスが来ると私の手を握った。そして、離した。
「またね。元気で」
そう言う口調が弱々しかった。バス停に並んでいた人がふと顔を挙げて彼女を見て、はっとした顔をしてもう一度振り返った。私は手を振った。横浜は横浜に帰っていった。
「なんの話をしていたの?」
機嫌の良いときを見計らって、祖母に聞いてみた。
「たいしたことがないこと。それに、あの人は嘘をつくからね」
嘘、という部分が独特のイントネーションだった。ウにアクセントが置かれていた。
「どんな?」
「あの人は嘘をつくから」
祖母は繰り返した。必要もないのに、何度も食卓を拭いている。
「そうだな。しなこはどうしようもない」
祖父が言った。それ以上、聞いてはいけないのだと私は悟った。
「バス停で横にいた人。あれ、誰なんだ?」
家の近所で、声をかけられた。自転車屋のおじさんだ。私とはほとんど接触がないが、祖母は町内会で顔を合わせるらしい。
「親戚です」
「色気があるね。つい声かけようと思ったら、ふいっとバスに乗っちゃうからさ。あの感じ。ええと、ほれ。江波杏子に似てるなあ」
ひとりで頷いている。
「だれですか?」
「いや、もう少しソフトにしたタイプかな」
「はあ」
「山口淑子の雰囲気もあるな」
「知り合いですか?」
名前が挙がったのが有名人だということすら、知らなかった。おじさんは、女優なのだと教えてくれた。帰って、平仮名で検索してみた。まず、江波京子から。画像が出た。確かに、顔の造作が似ていた。横浜のほうが華があっていくぶん目が大きい。気が済んだので、山口淑子を見てみた。李香蘭。聞いたことがある。YouTubeで、動画が配信されていた。スタイルは、横浜にそっくりかもしれない。
けど、なぜあんな人がうちの親戚で、祖父の妹なのだろう。祖父とは何ひとつ似ていない。私は首をかしげた。なにか事情があって、よそから引き取られてきたのだろうか。
祖父はよく、鼻歌を歌っていた。そんなときは珍しくにこやかだった。
「なにそれ?」
私は質問した。
「李香蘭の曲なんだよ」
祖父は言った。宮沢りえがテレビに出ていると、必ず
「いい女優さんになったな。気品がある」
とコメントする。ごく一般的な好みなのだ。共感すると、祖母の表情が硬くなる。私は、黙るという知恵を身に付けた。祖母は、私と二人きりになると宮沢りえのことを酷評した。
「地味で、清楚なだけが売りの女よ。しかも、女優なんて……」
張り合える根拠がないのに、負けず嫌いなのだ。
なぜ、祖父は姿子さんのことが嫌いなのだろう。それだけが疑問だった。
横浜に住んでいる人。しなこ。祖母の部屋の電話帳を見る。同じ苗字の欄にはない。そうか。結婚しているのだった。再び、ア行から確認する。サ行のところに、横浜の人がいた。姿子。これでしなこと読むのだろうか。非通知の一八四を付けて電話をかけてみる。
「はい。水野でございます。只今留守にしております」
横浜の声でメッセージが吹き込まれていた。
後日、私は横浜まで行った。姿子さんに会いに。一時間半ほど電車に乗った。駅で降りて、うろうろする。番地はわかるが、それがどのあたりになるのかは判別できない。交番で聞いてみる。遠そうなので、タクシーに乗った。
「このあたりですよ」
案外近かった。またしてもうろうろする。水野という表札を見つけた。間違えた時のために、隠れぎみになる。インターフォンを押す。
「はい」
アルトの声。姿子さんだ。
「利蔵の孫ですけれど。こんにちは」
機械に向かって叫ぶ。
「あらまあ。ちょっと待っててね」
しばらくして、姿子さんが外まで出てきた。あたりまえだけど、驚いている様子だった。
「よく来たわ。上がって」
「お邪魔します」
室内は、ベージュの濃淡で統一されていた。人の家に来たところで、目的もないことを思い出した。強いて言えば、以前会ったとき、ほとんど話せないままだったことが気がかりだったのかもしれない。姿子さんは、お茶とお菓子を出してくれた。
このままでは、ただの迷惑な人になってしまう。
「あ。ありがとうございます。つまらないものですけれども、これ」
無難なものを選んできて、ヨックモックを差し出した。私がここにいる理由はなかった。
「元町に行ったことがありません」
文法の教科書みたいな、おかしな喋り方。よく考えてみると、内容も変だ。
「まあ。じゃあすぐ行きましょうよ。早い時間帯じゃないと、危ないからね」
思わぬ展開になってしまった。
「いいです。大丈夫です」
「いいのよ。車だから」
どんな車に乗っているのだろう。関心が横に逸れた。遠慮もなくガレージに出た。プジョーは座り心地が良かった。姿子さんは黒のタートルネックを着て、赤いスカートを履いていた。そして、ルビーの指輪を付けていた。
元町に移動する。港町らしい、ヨーロピアンな雰囲気。姿子さんは、キタムラの前で立ち止まった。店内を見た。かわいらしい小物が並んでいる。バッグを手に取り、靴を試着した。
「気に入った?」
私は頷いた。
「これちょうだい」
姿子さんは、店員を呼んだ。図々しいけれども、欲しかったので、買ってもらってからお礼を言った。その後、喫茶店に行った。
「兄貴、若い頃は金づかいが荒くてさ。縁日に行ったら、小遣いを全部使っちゃうような人だった」
椅子に斜めに腰掛けながら、姿子さんが言った。
「え?」
「それが、え? なのよ。今はまだ温厚になってるけど。昔はよく殴られたわ。口紅をつけて街を歩いただけで、チャラチャラするなって言われた。男にどんな目で見られてるかがわかってるのか? って」
目を伏せている。まつ毛が長い。
「言い返したんですか?」
「黙っていられない性格だから。私も。でも、兄貴は弱いから人の話が聞けないの。こっちが口を開くと、すかさず「いや」って言われた。相手が話をしてる間は、どう反論するかを考えてるだけなのよ。その場だけ黙らせればいいと思ってる。最後まで聞いてくれれば、こっちだって言いつのらないのに。ほんと、馬鹿な奴」
「わかります」
ウエイターが紅茶を運んできた。姿子さんは、私のカップにミルクを注いだ。
「姉さんだって、よく耐えてると思う。感謝するよ、ほんと」
「結局は、似たもの同士だと思います」
「まあね。たぶんそうね。なんにも聞きたくないのよ、兄貴は。大学時代のあだ名がブーだったしさ。批判されすぎて、トラウマ抱えてるのかもしれない。そこらへんの心理は私にはわからないけど」
バッグからパシュミナを取り出す。たしかに、店内はすこし寒い。
「ブーってなんですか?」
「ねえ。なんだかねえ。上には、すっきりした見た目の兄貴がいたんだけど、戦死したから。繰り上がって長男になっちゃったのよ。」
「わかります」
「十八から東京に行ってくれたから、それだけは助かった。けど、私も横浜に嫁いだからね」
「それまではなにをなさってたんですか?」
「山口の百貨店でネクタイ売ってたのね。余計な箔付けなくていいって親に言われて、大学にも行かせてもらえなかったから。接客業なんて、惨めだよ。何度も頭下げなくちゃならない。用もないのに来る客もいるしね。けど、楽しいこともあったよ。で、まあ、その中の一人と結婚しちゃったのよ」
口元が笑っている。
「なんでその人にしたんですか?」
「しつこかったからよ」
頭を後ろにそらせて、遠くを見つめている。本心ではなさそうだ。
「それだけ?」
「彼は東京から出張だったんだけどね。それから毎週会いに来たのよ。寝台車に乗って。白いタキシードを着て、花束を持ってた。だって、戦後のどさくさの頃よ? 私も三十だったし。当時にしては粘ったほうよ」
「へーえ」
「少し身体が弱くて、今は入院してるけどね」
姿子さんは、不安そうな表情をした。嘘ではなさそうだった。
(第01回 了)
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