金魚屋は11月30日に新刊9冊を一挙刊行しました。
安井浩司氏新句集『天獄書』と『安井浩司読本Ⅰ、Ⅱ』は安井氏の要請を受けての刊行です。こんなに早くご逝去なさるとは思ってもみなかったですが、安井氏の文学的遺言のようなものです。安井氏は最後の前衛俳人と呼ばれますがその文学的意図(価値)は十全に評価されていません。現代俳壇が安井氏の句業を無視したわけではありませんが、高柳重信、金子兜太氏らの前衛俳句運動が遠い過去になり俳句界が虚子以来の伝統俳句に回帰している現在、安井俳句の評価が難しくなっている面があるのは致し方ありません。
ただ俳句のような伝統文学でも現代作家は新たな表現を生み出す〝義務〟を負っています。難解ですが最後まで崩れず一貫していた安井俳句は今までになかった斬新な俳句です。重信系の前衛俳句とも明らかに違う。安井俳句は意味内容ではなく表現そのものが斬新でした。安井俳句自体が新しい表現だったのです。新句集『天獄書』、そして安井文学をより深く読み解くための『安井浩司読本Ⅰ、Ⅱ』は新たな俳句を生み出すための基礎書籍です。伝統は大事ですが意欲的俳句作家はほんの少しであろうとも新たな表現を探求しなければなりません。安井関連新刊書3冊は停滞気味の俳句界に大きなパラダイム転換をもたらす書物です。
小原眞紀子『香獣』、遠藤徹『幸福のゾンビ ゾンビ短編集』、松岡里奈『スーパーヒーローズ』は満を持して金魚屋が刊行する小説です。ビジュアルコンテンツ全盛でSNSで誰もが自己発信できる現代では小説、特に純文学が苦境に追いやられています。小説という個の表現はもはや特別でも特権的でもないのです。そんな苦境を抜け出すための近道は創作、理論両面で可能な限り純文学を定義することです。
日本の純文学ははっきり定義されたことがありません。私小説系小説という漠然とした認知はあります。しかしなぜ私小説系小説が純文学なのかは明らかにされて来ませんでした。そのため作家の小さな〝個〟で多様な世界の変化を捉えきれなくなった現在、文学界は過去の作品成果にすがるように文体重視で小説を評価するようになっています。
しかし文体は小説にとって外皮に過ぎません。小説技術では純文学は生まれない。小説で最も重要なのは〝作家の思想〟です。作家に強い思想があれば文体は自ずから決まる。面白い小説は大衆小説で、深刻そうな小説は純文学という通念も馬鹿げています。思想があればエンタメ系小説でも純文学は成立します。金魚屋では21世紀的な強い思想を持つ作家の小説を世に送り出します。今回はミステリー小説、ホラー小説、私小説のラインナップです。
小原眞紀子さんは『文学とセクシュアリティ―現代に読む『源氏物語』』の著者です。『文学とセクシュアリティ』は作家が書いた最も優れた『源氏物語』論です。作家と研究者の違いはたとえ遠い過去の平安時代の紫式部であろうと現代作家が直観で作家の意図を理解し、小説の本質を解き明かしていることにあります。『文学とセクシュアリティ』は小説を書くためのノウハウ本でもあります。『香獣』はミステリー小説ですが『源氏物語』などの古典を踏まえ、香道が謎の中心に据えられています。ミステリー小説は大衆文学に分類されますが、『香獣』はドキドキハラハラする純文学小説でもあります。
遠藤徹さんはホラー作家として著名です。が、純文学、ラノベ、ミステリー小説をお書きになり文明批評評論も出版しておられます。執筆の傍らマンガや音楽も制作する真に現代的マルチジャンル作家です。『幸福のゾンビ ゾンビ短編集』は評論集『ゾンビと資本主義—主体/ネオリベ/人種/ジェンダーを超えて』(工作舎)との同時刊行ですが小説の方に作家独自のゾンビ観が表現されているのは言うまでもありません。遠藤さんの小説の特徴はおかしくて楽しくて、その一方で作家の視線が本当に冷たいことにあります。『幸福のゾンビ』はゾンビを主題にして人間本質を抉り出した短編集です。軽いタッチの小説ですが心底ゾッとさせられます。
松岡里奈さんはまだ30代前半で金魚屋新人賞受賞の新人作家です。『スーパーヒーローズ』が初の単行本になります。500枚の長編私小説で傑作を書いた恐るべき新人です。その理由は主人公が〝スーパーヒーローズ〟に表象される決して届かないイデアを一心に追い求めているからです。セックスやドラッグなど刺激的要素が散りばめられていてグングン読ませる小説ですが、正真正銘の純文学の名に値します。金魚屋では先に新人賞受賞の原里実さんの『佐藤くん、大好き』を刊行しました。恋愛短編集ですがこの作品にもイデアを希求する作家の思想がハッキリ表現されています。辻原登先生の厳しい選考眼もあってなかなか金魚屋新人賞の受賞者が出ませんが、金魚屋は優れた作家なら新人でも即座に本を刊行します。
『おこりんぼうの王様』と『聖遠耳』は鶴山裕司さんの第3、4詩集です。鶴山さんは〝詩は原理的に自由詩である〟と定義しその認識は広く一般化しつつあります。ただ鶴山さんの定義が多くの詩人たちと違うのは明確かつ厳密に現代詩を過去の文学潮流だと捉えていることです。現代詩を完全に相対化している。現代詩から自由詩に呼称を変えただけでは何も変わらないのです。戦後詩や現代詩の影響(遺産)が霧散してしまうことなないでしょうが、〝詩は原理的に自由詩〟という認識は鶴山さんによる新たな21世紀詩のためのパラダイム転換です。その実作が『おこりんぼうの王様』と『聖遠耳』です。
『おこりんぼうの王様』では著者が幼年時代を過ごした富山から学生時代や社会人になって暮らした東京、横浜での体験が後半になるにつれ天上に舞い上がるような抒情詩で表現されています。『聖遠耳』はパウンディアンらしい長篇詩2,172行です。「もう誰も喩では納得しない/満足しない/現実の残酷に曝されなければならない」という詩行にあるように現代詩的な難解詩法や喩の多用を意図的に排した真に自由な新たな21世紀詩です。安井氏と深く共鳴したことからわかるように鶴山さんも孤高ですが真に新たな文学を生み出す力のある作家です。
『正岡子規論-日本文学の原像』は『夏目漱石論―現代文学の創出』に続く「日本近代文学の言語像」シリーズです。専門俳人とみなされて来た子規をマルチジャンル作家として綜合的に読み解いた評論です。またなぜ俳句は五七五に季語なのかを完全解明し、俳句は〝非―自我意識文学〟で〝絶望の文学〟だと定義した画期的評論です。桑原武夫の『俳句第二芸術論』以来の衝撃的俳句論でしょうね。ただ創作者の評論は未来の創作に繋がらなければ意味がない。巻末の「付録 俳句文学の原理-正岡子規から安井浩司まで」は俳句の未来を強く示唆する評論です。鶴山さんの批評は批評対象を厳密に読み解く評論です。蓮実重彦、柄谷行人さんらが始めた創作批評(作家・作品論の体裁ですがなにより批評家自身の思想を表現するための創作化した批評)の時代は「日本近代文学の言語像」シリーズで完全に終焉するでしょうね。
金魚屋では今後も単行本を刊行してゆきます。新旧作家や作家の年齢は問いません。作家に強い思想がありその作品が現代文学を塗り替える可能性があれば迷わず出版します。また特に新人作家は夢と希望でいっぱいだと思いますが夢の実現には努力が必要です。書くことと読むことは一体でそこから多くを学ばなければなりません。読むことは自分の作品を客観視するために必要です。作家は他者作品を読むことで自己を客体化して表現の核となる思想をつかまなければなりません。書くことだけを先行させていたのでは努力はむくわれないのです。金魚屋では純文学を刷新する力のある作家を常に求めています。作家が頑張らなければ現状は変えられない。金魚屋はすぐれた作家の作品を出版することで現状の文学の世界の通念を打ち壊し21世紀純文学を主導します。
文学金魚編集人 石川良策
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