詩人ミハイ・エミネスク(1850~1889)はルーマニアで詩聖とたたえられている。新聞記者として1878年のオスマントルコからのルーマニア独立に寄与し、ルーマニア語で優れた詩を書いた。その代表作『明星』は今でも広くルーマニアやモルドバ共和国で読まれている。翻訳は能楽研究者で小説家、演劇批評家のラモーナ ツァラヌさん。
by 文学金魚編集部
明星
ミハイ エミネスク
Mihai Eminescu
ラモーナ ツァラヌ訳
Ramona Taranu
昔々あるところに
未だかつてない
王族の家に生まれた
いと美しい娘がいました。
彼女は一人っ子で
才色すべてに優れていました、
聖人に囲まれたマリア様のように、
星たちに囲まれたお月様のように。
壮大なアーチ形の天井の影を出て
彼女は窓に向かっています。
その片隅には
明星が待っています。
はるか遠く、海の上に
昇って輝き、
変わりゆく海路で
黒い船を導いています。
日々明星を見て、
願いが生まれてしまった。
明星も、週ごとに彼女を見て、
好きになってしまった。
彼女はひじにこめかみを添えて
夢を見ながら
明星への想いで
心も頭もいっぱいになります。
そして明星もどの夜も
彼女が出てきてくれる
黒い城の影に対して
いかにも盛んに燃え出します。
・・・
こっそりと彼女の後を追って
部屋に滑り込み
冷たい火花で
炎の網を織りなしながら
眠るためにその子が
ベッドに横たわると
胸の上に組んだ手に触れ、
優しくまつげを閉じさせる。
そして鏡の中から光り
その身体や
閉じたまま瞬く大きな目や
そむけたままの顔を照らす。
彼女は微笑んで明星を見ていた。
鏡の中で彼は揺れていた。
心にこびりつくように
夢の中まで彼女を追っていたので。
眠ったままため息ついて
彼女はささやく。
「わたしの夜の愛しい主よ、
どうして来てくれないの? 来て!
降りてきて、優しい明星よ、
一条の光に沿って
家と心の中に入って
わたしの人生を照らして!」
揺れながらそれを聞く明星は
さらに強く燃え出し、
電のように身を投げて
海の中へ沈んだ。
明星が落ちた水は
渦を起こし、
底知れぬ海深から
美しい若者が浮かび上がる。
戸口から入ったように
軽やかに窓際を越えて、
葦で飾られた
杖を手に持って
柔らかい金色の髪をした
若い君主に見える。
裸の肩には結び目でとめた
深紫の屍衣をかけている。
やせ細った顔の影は
蝋のように白い―
外へ閃く生きた目をした
美しい死者。
「君の呼び求めに応えるべく
天界から力を尽くしてやってきた。
天がわれの父、
そして母は海。
君を近くから見つめられる
この部屋へたどり着くように
碧空を連れて降りてきて
水の中から生まれてきた。
尊い宝物よ、こっちに来て、
世界を後にして。
われは天の明星、
君はわれの嫁になって
珊瑚のお城の中で
これから何世紀も過ごそう。
海の生きとし生けるものは
すべて君に従う」
「あなたは美しい、夢の中に出てくる
天使のように。
でもあなたが開いた路には
決して入らない。
言葉も身だしなみも奇妙で
命なさげにひらめいているもの。
わたしは生きているのに、あなたは死んでいて、
その目はわたしを凍らせてしまいそう」
・・・
二三日後、夜中に
彼女の上に
明るい光線を照らして
再び明星がやってくる。
眠りの中で彼女は
明星のことを思い出し
波の支配者である彼への想いが
彼女の心をつかむ。
「降りてきて、優しい明星よ、
一条の光に沿って
家と心の中に入って
わたしの人生を照らして!」
その声が聞こえると、
苦しみながら己の光を消した。
明星がいなくなった後に、
空は螺旋を描きはじめた。
淡紅色の炎が
世界中の空を覆う。
カオス*1の深淵から
美しい姿が形をなす。
黒くて長い髪の上に
王冠が燃えがっているかのようだ。
真実の中に浮かんで
太陽の火を浴びて降りてきていた。
黒い屍衣の下から
大理石のような腕が見える。
彼は陰気でもの思わし気に
青白い顔をしてやってくる。
しかしその美しい大きな目は
幻想のように深くきらめく、
まるで闇に満ちた
二つの欲望であるかのように。
「今回も君に従って
天界から力を尽くしてやってきた。
太陽がわれの父、
そして母は夜。
尊い宝物よ、こっちに来て、
世界を後にして。
われは天の明星、
君はわれの嫁になって
こっちに来て、金色の髪に
星々のティアラを飾ろう。
われが支配する天には
どの星よりも美しい君が昇るのだ」
「あなたは美しい、夢の中に出てくる
悪魔のように。
しかしあなたが開いた路には
決して入らない。
あなたの残酷な愛で
胸の弦が痛むのよ。
大きな重い目がわたしを苦しめるの、
その視線がわたしを焼き尽くしてしまいそう」
「じゃあ、どのようにして降りてくればいい?
われは不死のものだが、
君は死すべき人間だと
分からないのか?」
「いい言葉が見つからないの、
どこから始めればいいかも分からない。
あなたの言葉は理解できるようで
理解できないの。
あなたを信じて
愛してほしいのなら
地上に降りてきて
死すべきものになりなさい」
「キス一つと引き換えに
われに不死をあきらめてほしいのだね。
それでも分かってほしい
どれほど君を愛しているかを。
そう、罪から生まれよう、
別の定めをもらって。
永遠との縁が深いわれだが、
その縁を切ろう」
そして去った。どんどん去って行ってしまった。
あの娘が好きなだけで
天の居場所を離れて
何日もいなくなってしまった。
・・・
その間にカタリン――
宴会の客のグラスに
ワインを注ぐ
ずる賢い召し使い、
いつもいつも女王のドレスの裾を
持ち運ぶ給仕、
捨て子にもかかわらず、
恐れも恥も知らない男の子――
かわいくてたまらない
牡丹のような赤いほっぺをして
こっそりと忍び込んで
カタリナを見つめていた。
なんてきれいになったんだろう、
それに華やかじゃないか。
よし、カタリン、さあ、
運だめしの時だぞ。
そしてさりげなく彼女を優しくつかまえて
素早く隅っこに引っ張った。
「何よ、カタリン!
さっさと仕事に戻るのよ」
「何って? それはね、
いつも考えにふけるのを止めてほしくて、
お願いだから願わくば笑って、そして
一度だけキスしてほしいんだよ」
「何がほしいかさえ分からないの。
放っといてよ、もう、あっち行って!
ああ、天の明星が
愛おしくてたまらない」
「分からないなら、教えてやるよ、
恋の掟を、一つずつ。
ただ怒らないで、
じっとしてて。
狩人が藪の中で
小鳥たちの網を張るように
左腕を差し出したら
そっちの腕で抱きしめて。
そして僕の目の下で
じっと目を澄まして
脇の下から抱き上げたら
かかとを上げて、つま先で立って
僕が顔を下へ向けたら
顔を上へ向けておくれ、
一生飽きずに
お互いを優しく見つめ合おう。
そして最後まで
愛を知ってほしいから、
僕がかがんでキスしたら
君もキスをしておくれ」
彼女は驚き面白がって
その子の話を聞いていた。
恥ずかしがりながら可愛く、
抵抗しつつ、受け入れつつ、
彼にささやいた「子どもの頃から
あなたをよく知ってるわ、
おしゃべりやで役立たず、
わたしとお似合いだわね。
でも明星は、
記憶の沈黙から昇り、
海の孤独に
無限の水平線を与えてゆく。
涙があふれ出すから
秘かに目を閉じるの。
波が去って
彼のほうへ動いてゆく度に。
明星は無限の愛で輝いているのよ
わたしの痛みを癒すために、
それでも届かないところへ
どんどん高くへ昇ってゆくの。
向こうの世界から悲しく
その冷たい光が差し込んでくる…
永遠に愛おしく想っても
永遠に遠く離れてゆくの…
そのため昼間は
砂漠のように荒れ果てたもの。
しかし夜は理解を超えた
神秘の魅力にあふれているのよ」
「君は子どもなんだよ、それだけだきっと、
もう、駆け落ちしよう、
だれも追ってこないところへ
だれも僕たちを知らないところへ、
一緒におとなしく、
楽しく元気に過ごしながら、
君は親も忘れ
明星の夢も忘れていくだろう」
・・・
明星は旅立った。天空の中で
翼を広げて、
幾千年の距離も
幾千秒のうちにかけて。
下は星空
上も星空、
星の間をさまよう
限りのない電光のようだった。
己の周りにある
カオスの谷から
宇宙生成の日のように
光が湧き出るのを見ていた。
光が湧き出て、明星を囲んでいく
海のように、泳ぎながら
彼は飛んでゆく、愛に運ばれた念、
ありとあらゆる存在が無くなるまで。
彼がたどり着いたそこは、際限のない
計り知れない場所だからだ。
ここでは時間は甲斐なく
空虚から生まれようとしているのだ。
何も無い、しかし有る
彼を呑み込もうとするような渇きが。
一途な忘却のような
深遠。
「真っ黒な永遠の重荷から
父上よ、われを解き放ち給え。
宇宙の全ての界層から
永劫にあなたに賛美あれ。
神よ、何でも差し上げるので、
われに新たな運命を与え給え。
あなたは命の泉で、
死を与えるものだから。
永遠の命の後光と
眼ざしの炎をわれから取り去って、
その代わりにわれに
一時の愛をください。
虚空から現れてきたのだ、神よ。
虚空に戻りたくて・・・
静止から生まれてきたのだ。
だから静止を渇望している」
「虚無の深淵から宇宙を一つ
連れて昇ってきたヒペリオンよ、
名も形もない
兆しや奇跡を求むなよ。
おまえは人間でありたいのだと?
彼らのようになりたい、と?
人間はみな絶滅しても
また人間が生まれてくるものなのだ。
彼らはただただ風の中で
空しい理想を築いていく――
波紋が墓で終わっても
そののちまた波紋が生まれる。
彼らの運を見守る星を持ち、
そして運命に苛まれる彼らに対し、
われらは時間も空間も無ければ、
死のことも知らない。
永遠なる「昨日」から生まれた
「今日」のものが生きて、死んでゆく。
天空で一つの太陽が消えたら
別の太陽が灯り、
永遠に昇るように見えても
その後ろから死が追いついていく、
みな死ぬために生まれていき、
生まれるために死んでいくのだから。
それに対して、ヒペリオン、おまえは
どこに沈んでも永遠に残る。
宇宙生成の時の言葉を取り消すように、と――
おまえに知恵を与えようか?
おまえに声を与えようか?
その歌に従って
森に覆われた山や
海の島々が全て動き出すように?
あるいはもしかして、正義と強さを
行動で示したいのか?
地球を粉々にして
おまえの王国にしてやろう。
陸地を横切って海を横断するため
帆柱が連なる無数の船や
軍勢をやろう、
しかし死は求めるな。
で、誰のために死にたいと言うのか?
戻ってみよ。あてもない
あの世界へ向かい、そこで
何が待ち受けているかを見るがいい」
…
天空の己の居場所に
ヒペリオンは戻り、
昨日と同じように
光を照らす。
夕暮れなので、日が沈み
夜が始まろうとする。
水面から静かに
揺れながら月が昇って
森の中の道を
煌めきで満たす。
美しいリンデンの並木の下で
二人きりで若者が座っている。
「頭をあなたの胸に
休ませてくれ、愛しい人よ、
明るくていと優しい
そのまなざしの下で。
その冷たい光の魅力で
僕の思考の中に入り込んで
この欲情の夜に
永遠の安らぎを降らせて
上にずっと輝き続けて
僕の痛みを癒してくれ。
君は僕の初恋であり
最後の夢でもあるのだから」
ヒペリオンは上から
二人の顔に表れた驚きを見ていた。
彼女の肩に相手が腕を置いただけで
そのまま彼に抱きついた・・・
銀色の花は香り
優しい雨のように
明るくて長い髪をした
二人の子どもの上に落ちる。
愛に酔った彼女は突然
目を上げる。明星に
気づく。そしてつぶやくように
願いを託す。
「降りてきて、優しい明星よ、
一条の光に沿って、
森と心の中へ入って、
わたしの運を照らして!」
明星はいつものように
森や丘の上に揺らめいて、
たゆたう波の
孤独の先頭に立っていた。
しかし昔みたいには
天高くから海に飛び込まず・・・
「われであれ、別人であれ、
かまわないだろう、泥人形よ?
その狭い枠の中で生きながら
幸運が君たちを見届ける。
だがこちらの世界でわれは
不死身で冷たいまま」
*1 カオス ギリシャ神話において、あらゆる生り出るものの素と生成へのエネルギーを内に秘めた生成の場としての虚空界。
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