男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
あれだけ歩き回ったのに品川駅前に着いたのは七時過ぎだった。男は待ち合わせのバーの階段を降りた。平日のせいか客は少なく、早めに仕事を終えた二十代くらいのカップル一組だけだった。男は壁際の席に座るとスコッチを注文した。女は来てくれるだろうかと思った。
不安でいたたまれず、男は昨日の夜会いたいというメールを送っていた。女は承諾した。だから来るはずだった。どちらかが会いたいと言えばもう断れない仲だった。しかし来てくれないのではという不安が消えなかった。女が現れなかったら、ほんとうにすべてが終わると思った。
男は三杯目のグラスを飲み干して目を閉じた。ヒリヒリと痛み出す神経を酒で鎮めたかった。現実から逃げ出したかった。女のことばかり考えた。
「どなたか相談にのってくれませんか」
ケータイの出会い系サイトで女の書き込みを見たのは二年前の夏のことだった。三十五歳主婦とあり男より六歳年下だった。それまでも漫然と出会い系の掲示板を見ることはあったが、眺めるだけでアクセスしたことはなかった。
しかし男は女に興味を持った。刺激が欲しかった。風俗の虚ろで冷たい目をした女ではなく、温かい心と身体を持つ女が文字の背後にいるように思った。相談にのれば女を抱けるかもしれないという淡い期待もあった。「僕でよければ話してください。どんなことで悩んでるんですか?」と男はメールした。
男はそれほど返信を期待していなかった。しかし翌日会社を退社してなにげなくケータイを開くと女のメールが届いていた。女はメールの礼をいい、どこから話していいかわからないけど、家庭がギクシャクしてすごく辛いと書いていた。男はすぐに返信した。なんでもいいから思いつくことを書き送って欲しいと頼んだ。一日一通くらい、ポツリ、ポツリとメール交換し始めた。半月もたつと日に十数通も短いメールを交わすようになっていた。
「「涼子ちゃんはどうしたらいいと思う?」って言うの」
女は伏し目がちに話した。会社帰りに喫茶店で、男は女と会って話すようになった。女はいつもこざっぱりしたダークブルーのビジネススーツを着ていた。髪を後ろでひっつめに結び、化粧は薄かった。仕事ではテキパキと事務的に用談を進めるOLだろうなと思った。ときおり短い愛想笑いを浮かべる女を見ていると、会う前にケータイのディスプレイを眺めていたときに感じた男の激しい性欲が急速に萎えていった。
――涼子ちゃんって呼ばれてるんだ。
茶化すように男は言った。
――そうなのよ。わたしの方が四歳年上だから。
女は結婚五年目で子供はおらず、夫と二人暮らしだった。夫は三年前に勤めていた大手印刷会社を突然辞め、運送会社のセールスドライバーになった。営業職のキツさを嫌っての転職だったが、結局より苛酷な営業の仕事しか再就職先は見つからなかった。
――わたしたち、結婚してすぐにマンション買ったのね。わたしと彼の両親から頭金援助してもらって。でも彼が仕事辞めちゃって、ローンの返済計画が大きく狂っちゃったの。わたしも彼も、そんなに貯金あったわけじゃないし。
――働けって旦那に言わなかったの?
――言ったわよ、何度も何度も仕事してって言ったわよ。
女はキッと男をにらんだ。
どこにでもあるマンションのキッチンで、だがキレイに整理整頓されたキッチンで、女は夫とテーブルをはさんで向かい合って座っていた。「ねぇ仕事辞めてどうするのよ、ローンだって生活費だってあるのよ、どうするつもりなのよ」女は眉間に皺を寄せて夫に詰め寄った。もう何度も繰り返された話し合いだった。「ごめんよ涼子ちゃん、でも仕事辛くて辛くてたまんなくて、もう耐えられなくて」夫はほとんど泣き出しそうな顔で言った。やさしい夫だった。しかしそのぶん、厳しい社会を生き抜いてゆくためのたくましさに欠けていることにも気づいていた。
「とにかく早く仕事見つけて」「うん、そうするよ」夫はそう言ったが女は不安だった。当面は失業保険が下りるが、それだって半年ほどしか続かないのだ。それに夫が再就職しても、以前の会社より給料が下がるのは目に見えていた。「わたし、また働くから」女はすぐに決断した。いいよ涼子ちゃん俺すぐに仕事見つけるからという夫の言葉を無視した。女は派遣の事務職の仕事につき、やがて正社員に採用された。
「涼子ちゃんありがとう」夫は感謝の言葉を口にし、掃除、洗濯や夕食の用意などの家事もしてくれた。女が仕事から帰ってくるとパソコンでゲームしていることも多かった。「なにやってんのよ」と怒る気にはなれなかった。女は夫が何通も履歴書を書き、頻繁に面接に通っているのを知っていた。夫の再就職が決まったのは失業から約一年後だった。
――結婚する前にいろんな男と付き合ったんじゃないんですか?
男は会うたびに女が繰り返す、夫への不満や愚痴話に困惑していた。なぜ今の夫と結婚したのかとたずねるつもりなどなかった。ただ出会い系で知り合った男女がすると思っていた、もっと浮ついた艶っぽい話がしたかった。「それはいますけど」と女が答えると、男は「どういう男だったんですか?」と促した。
――就職してから付き合った男は一人だけなの。六年も付き合って同棲もしてたのよ。その男と結婚するって思ったから。
その男の話をし始めると、女は男を思い出すように、目の前の男にあまり顔を向けなくなった。男は女の視線を追いかけて通りに面した喫茶店の窓を見た。窓の外は夜だった。
――ちょうど十歳年上だったから、わたしよりずっと大人だったし、身体もおっきい人だったから、頼りがいがあると思ったのよ。付き合ったのも、彼が「好きだから付き合って」って、強引に迫ってきたからなの。最初はすごく幸せだったわ。会うたびに「涼子かわいい」って言ってくれたし、「愛してる」って何度も何度も言ってくれたわ。人前でキスするのも平気な男だったのよ。そんな男、日本人じゃ珍しいでしょ。愛されてるって実感があったの。だから「いっしょに住もう」って言われてすぐ承諾したわ。この人と結婚していっしょに暮らすことになるって思ってたの。
でもね、だんだんおかしくなっていったの。
もともとお酒が好きな人で、酔うと陽気になってそれはそれで楽しかった。
同棲してから、どんどんお酒の量が増えてくのには気づいてた。
わたしといると幸せだから、お酒飲んでリラックスしてるんだって楽天的に考えてたわ。
きっかけはささいなことよ。居酒屋でお料理運んで来た店員さんに、「ありがとう」ってちょっと笑うことってあるでしょ。意味なんてないわ。女ならよくやる。だけど彼にはわからない。「前から言おうと思ってたんだけどさ、お前、なんで男に愛想いいんだよ。なんであんな兄ちゃんにまで色目使うんだよ。俺以外にいい男いないか、物色してんのかよ」って言われて心底驚いた。悪酔いしてるんだと思った。目がすわってたから。そんなわけないでしょって言ったわ。しばらくして「そうか、そうだよな」って普段の陽気な彼に戻ったけど、なにかがおかしくなり始めてたの。
そのスカート、短すぎないか?
今日は何時頃戻るの?
なんでそんな派手な下着つけてんだよ。
酔ってないときでも、そんなこと、言うようになったわ。
会社から帰ってくると「お帰り」って言って抱きしめてくれるんだけど、匂い嗅いでるのがわかるの。タバコとかお料理の匂いとか、髪についてるんじゃないかってチェックしてるのよ。
夜中にふっと目をさますと、彼がわたしのバッグからケータイ取り出して、チェックしてるの。
接待や会社の飲み会で、着信音もバイブレータも切ってあるケータイの着信ランプがピコピコ光るの見るの、ホントに怖かった。十五分くらいごとにかかってくるの。
ううん、彼は一度もわたしに手を上げたことはないの。一度もわたしを殴ったりしなかった。
彼を怒らせないように、なんでわたしのこと、そんなに気になるの? ってやんわり聞いてみたのよ。
俺の女だから。
愛してるから。
涼子は可愛くて美人だから、男が寄ってきて、そいつになびいちゃうんじゃないかって心配でたまらないんだ。
真顔でそう言ったのよ。このわたしによ。笑っていいのよ。わたしだって噴き出しそうになったんだから。だけどこの人、ホントにおかしいと思った。
逃げたの。
半年以上かけて計画して、彼がホントにたまに、男友だちと遊びに行く日の午後に、必要な荷物だけ持って逃げたの。
もちろんそれから大変なさわぎよ。会社にやってきて、「どういうつもりなんだよ」って怒鳴りまくったわ。女友だちにしつこく電話しまくってわたしの新しいアパート聞き出して、ドアドンドン叩いて「開けろ開けろ」って騒いだ。警察に電話して、警官が来て説得されて帰っていったの。でもストーカーとかで訴えたりしなかった。彼、公務員で、公務員は不祥事にうるさいから、彼の仕事や将来を奪うことまでしたくなかったのよ。
その頃勤めてたのは広告代理店で、上司がもののよくわかった人だったから、その人が会社に押しかけてくる彼をブロックしてくれたわ。彼と二人で話すと危ないから、実家に連絡して、彼のお父さんや兄弟交えて話し合いもした。さすがに彼もだんだん落ち着いてきたけど、「もう涼子がイヤがること、絶対にしないから、また付き合ってくれ」って言ってきかないの。逃げた女が戻ることなんてないのにね。
彼の弟が、「とりあえず一年くらい冷却期間を置くことにしませんか。涼子さんの会社とか家に押しかけるようなことはさせません。兄の気持ちも冷めるかもしれませんから」と言ったので、わかりました、よろしくお願いしますって答えたの。わたしのことを心配してではなかったわよ。彼のお家って、お母さんも入れて全員公務員と学校の先生だから、スキャンダルになるのを心底恐れたのね。メールはずっと来てたけど、たまに「元気だよ」「普通だよ」ってだけ返信してた。
「わたし、結婚するの」って言った時の彼の顔は忘れられないわ。
やっぱりお前は淫乱で男好きだって罵られるかもしれないって思ったけど、「ウソだろ、マジかよ」としか言えないの。
「ホントよ」って言って、結婚式の招待状も見せたわ。女って残酷よね。
もちろん結婚が決まったのは偶然よ。今の旦那さんと付き合い始めて、ほんの数ヶ月で彼が「結婚しよう」ってプロボーズしてくれたの。一年過ぎたら、元彼に一度は会って話し合わなきゃならないってこと、わかってたから、「会おう」「会いたい」ってたくさんメールしてきたけど、結婚の日取りが決まるまで会うのを引き伸ばしてたのね。「ウソだろ」って言い続ける彼見て、胸がスーッとしたわ。
元彼? 今どうしてるか知らない。「さよなら」って言って、彼置き去りにして喫茶店で別れたきりだから。
その頃は今よりずっと強かったのよね。ケータイの電話番号変えるのしゃくだから、元彼の電話番号もメアドも着信拒否にしたの。家にも、職場にも押しかけてこなかったわ。ものすごく所有欲強い人だったから、わたしがほかの男の女に、奥さんになるってわかって、すべてをあきらめちゃったのかもしれないわ。でもわからない。それにわたし、それどころじゃなかったのよ。
わたし、浮かれてたの。旦那さんは大手印刷会社に勤めてたから、結婚式の招待客の選別とか大変だったのね。無理してすんごい素敵なハウスウエディングで挙式したのよ。新婚旅行は二週間かけてヨーロッパを回ったわ。お家も買ったし今考えるとものすごい無駄づかいよね。でもやめられなかった。ホントに浮かれてたの。すんごい幸せだったのよ。この幸せがずっと続くって思い込んでたのね・・・。
「でもわたしは間違ってたのかもしれません」
男は女がそう言ったのか、メールでそう書いてきたのか思い出せなかった。元彼といっしょになればよかったという意味ではなかった。ただ女がこれが本当の愛だと思った夫のやさしさは、ぬるい甘えでしかなかった。女にとって愛とはすぐに溶けて壊れてしまうものでなく、ちゃんとそこにあって、手で触れ重みを感じ取れるような形あるものだった。
男は女と会い、メールしているうちに、腹のあたりに熱い塊のようなものがうごめき出すのを感じた。熱した鉄の玉のようなそれは吐き出そうとしても吐き出せず、消化しようとしてもできず、いつまでも男の中に留まっていた。
ただ女が求める愛はほんとうのところ男には理解できなかった。男は地方の支社にいた三十歳の時に同僚の女と結婚し、翌年娘が生まれた。たまたま適齢期に付き合っていた女と結婚し子供をもうけたようなものだった。男は子供が生まれてからは家庭を守ることだけを考えてきた。それが人生だと思っていた。そのために転勤の多い証券マンの仕事を辞め、今の会社に再就職もした。激しい愛や恋はテレビドラマやハリウッド映画の中にしかない絵空事だと感じていた。しかしすぐそばに形ある愛を求めてやまない女がいた。
「僕ならあなたを愛せるかもしれません。いや、愛させて欲しい」
男は歯の浮くような言葉を女に送り始めた。妻にはもちろんかつて付き合ったどの女性にも愛しているなどと言ったことはなかった。ただ「愛してる」という言葉を書くだけで男の中で溢れる何かがあった。
女は「知り合ったばかりなのに、なんでそんなこと言えるの?」とメールしてきた。男は「こういう形で知り合ったからこそ、あなたのことがストレートに理解できるんじゃないですか」と返信した。
ただ男は女と会った時に「愛してる」と言うことができなかった。声に出すとこの女には愛に自信がないことがわかってしまうと思った。できるだけ快活に冗談を言い、女と打ち解けるのがせいいっぱいだった。しかし男の本能で、強引に口説けば女を抱けると知っていた。
さんざん躊躇する女を口説いてカビ臭いラブホテルで初めてセックスした後に、男はようやく「涼子、愛してる」と口にした。女はあっさり「わたしも愛してる」と言った。男は有頂天だった。初めて女を愛し、女に愛されたような気がした。
男は大きな敷居を超えた。次々に敷居を超えていった。しかし男は女との愛がどこに向かうのか、まったくわかっていなかった。
(第02回 了)
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