男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
もう二十年以上前のことなのに思い出してしまうのは、あなたが懐かしいからではありません。あなたとの思い出は今でも苦しく、生々しくグロテスクなのです。ほんとうはもう思い出したくない。でも思い出してしまうのは、吐くときの気持ち良さに似ています。思いっきり、お腹いっぱい食べた後に喉の奥に指を突っ込んで、便器に顔をうずめて吐く気持ち良さをあなたは知らないでしょうね。あれは快楽です。あなたとのことで多くの人たちから、社会から責められてわたしは吐く快感を覚えました。最初は本当に戻してしまったのです。でもそのうち憎悪と憐れみに満ちた人々の視線に囲まれながら、吐く快感を覚えてしまった。
さっき食べたご飯やハンバーグの切れ端が、ツンと匂う胃液とともにキレイに掃除された廊下にピシャリと飛び散ります。わたしは声をあげないから、噴水のように口から飛び出したのです。誰もがあわてます。「だいじょうぶ、だいじょうぶ?」とわたしの身体を支え背中をさすってくれる。写真も動画も撮られない。だってそれは汚物だから。ただ吐いた女として小さな記事になるだけ。
吐けば吐くほどわたしを追いつめる人々の手は緩んでゆきます。「ああわかりました。今日はこのくらいにしておきましょう」と物わかりがよくなってゆく。
でもそんなことを期待していたのではありません。わたしは中身が見たかったのです。中身を外に、社会にぶちまけたかった。安物の赤いスパゲッティが見事なまでに胃液に溶けないで、クリーム色のリノリウムの床にサーッと広がっていったときの美しさは忘れられません。絡まっていた。どうしようもなく混乱していた。それがわたしの中から外へと広がっていった。
吐いた女がどうなるのかあなたに教えてあげます。中身をなくしてその場に呆然と立っているのです。外に溢れた自分の中身を見ているのです。目を反らさないのはわたしだけです。だって汚くないから。それはわたしだから。わたしはもっとわたしの中身を吐き出したい。すべて嘔吐したい声を出したい。もうすぐ声が出ます。あなたとのセックスの時にあげたような大声がもうすぐです。
わたしたちはどうしようもなく一つだったからわたしはあなたのことをよく知っています。わたしはあなたであなたはわたしです。だからわたしはあなたの思い通りの女で、あなたの期待通りにふるまった。
あなたはわたしを愛しながら、どこかでバカな女だと思っていたでしょう。それは本当のことですがわたしがバカなのはあなたのことをすっかり理解しているはずなのに、結局はあなたのしたいようにさせてしまったことです。
わたしに三歳年上の兄がいることは知ってますね。小学生低学年の時のことです。トイレに乱雑にトイレットペーバーが散らばっていました。たいしたことではないはずですが父親の虫の居所が悪かったのでしょう、烈火のごとく怒りました。「こんなことするのは子どもたちしかいない」とわめき散らし、わたしと兄を正座させると「誰がやったんだ!」と怒鳴りつけました。
「知らない」
ボソリと兄が言いました。わたしは驚きました。兄の顔はまっ白でしたが、それだけ言うとキュッと口を結んで黙ってしまった。
「おまえか!」
眉をつり上げて怒鳴った父の声でわたしは泣き出しました。もちろん「わたしじゃない、わたしじゃないと」言いました。でも兄は助けてくれない。
「正直に言え!」
「わたしじゃないってば」
兄を責めるつもりはありませんでした。ただやってないからそう繰り返しただけ。
永遠に続くかと思われた父親の責め苦は、突然「えーん」と大声で泣き出した兄の声で終わりました。
わたしと父はとっさに兄を見ました。何も言いませんでしたが、兄がささやかなイタズラを白状したのは明らかでした。
「おまえだなっ! おまえ、お兄ちゃんのくせに、妹に罪押しつけてどうするっ」
また父の怒声が響きました。
父が怒鳴るたびにわたしは震えましたが、もう恐くありませんでした。わたしのえん罪が晴れたからではなかった。なんと説明したらいいのでしょう。わたしは兄の顔を見てうっとりしてしまった。
人はとっさにウソをついて、どうしようもなく追いつめられ、もう逃げられなくなったときに、こんなふうに泣いてこんな顔をするんだと思いました。
あなたはわたしに何度もウソをつきましたね。数え切れないくらい。そしてわたしはそれを許しました。許しながらなにも聞いていなかったように、素知らぬふりでまたあなたを責めた。数え切れないくらい。そしてあなたのウソが少しずつ後ずさりしていった。
あなたは気づいていなかったけど、あなたはわたしに全部話してしまったのよ。言葉でも身体でも。あなたはわたしの身体とわたしとのセックスに溺れていたからわたしのすべてが見えなかった。でもわたしがいくらあなたの身体を愛撫して、ペニスを優しく触って口で頬張ってあげても、わたしはあなたの身体に溺れたことがない。わたしが見つめていたのはいつもあなたの心です。わたしたちは卑猥で淫靡なセックスに耽りましたね。でも卑猥じゃないセックスなんてあるの?
わたしがまだ生きているのはあなたをすべて見てしまったからです。あなたが見られたがっていたからです。あなたは奪われたがっていた。だから奪った。文字通りすべて奪った。最初からそうなると決まっていた。
あなたはポツンと立っていた。
美男子でもお金持ちでもない中年男からわたしは目が離せなくなった。
このまま朽ちてゆくのねと思った。
立ったままひび割れてボロボロと表面が剥がれ落ちて痩せ細ってポキンと折れてしまうんだわ。
それがわたしの男。
わたしはからっぽだから
あなたで満たされたい。
わたしはからっぽ
だから完全にわたしの中に棲んでくれる男
しか愛せない。
わたしは何度でも
あなたを生き直すことができる。
あなたを愛しています
愛しています
あなたを愛
しています男は空を見上げた。
時間はまだ五時過ぎで
こんなに早く会社を出るのは久しぶりだった。
六月なのに肌を刺すように空気が冷たかった。
厚い雲に覆われた空から大粒の雨が降っていた。
天から垂直に落ちて
アスファルトに白い水しぶきを上げた。
薄く光るそれは、針金のように見えた。
女との待ち合わせにはまだ二時間以上あった。男は鞄から折りたたみ傘を取り出して拡げると雨の中を歩き出した。
最寄りの地下鉄は芝公園の脇を抜けて歩いて五分ほどだった。しかし男は駅へは向かわずに、首都高の高架をくぐって人気のない三田方面に歩き出した。傘を広げた人たちと狭い歩道ですれ違うのがイヤだった。
大通りを一本外れると昔ながらの住宅地が拡がっていた。角があるたびに右に折れ、左に折れて男は住宅地の中をさまよった。ときおりてっぺんが雲で霞んだ東京タワーが見えた。雨は容赦なく男の両肩を濡らし、水を含んだ革靴が歩くたびに嫌な音を立てた。会社にいた時にはあれほど火照っていた身体が急激に冷え始めていた。むしろ凍えそうなくらいだった。
完全な露見は時間の問題だった。
月曜日に家から取引先に直行した男が会社に戻ると、同僚が「田嶋さん、午前中に本社から監査の連中が来て帳簿持っていきましたよ。緊急監査だそうです」と言った。
「ああそう」
気のない返事をした男に、「ほら東北支店で横領があったでしょ。それで連中、ナーバスになっちゃってるんですよ。こっちは仕事にならなくていい迷惑です」と続けた。
しばらくして男はトイレに立ち、個室で荒い息を吐いた。背中が汗でグッショリ濡れていた。小手先の帳簿操作などすぐに見破られると思った。
針のように神経を尖らせて男は会社での会話に耳をそばだてた。
火曜日は何事もなく過ぎた。しかし水曜日の定例会議は開かれなかった。その代わり同僚が役員室に呼ばれて長い間話していた。役員室から出てきた同僚の視線が変わった。退社間際に男は役員室に呼ばれ、目の前に数通の伝票のコピーを並べられた。
「この出金伝票は君が処理したものだね。監査が先方の帳簿と合ってないと言ってるんだが、だいじょうぶかね」
「もちろんです」
証券マン時代から、男はどんなに追い詰められても表情を変えない訓練を受けていた。役員は薄くなった頭を心持ちかしげ、黒縁眼鏡の中からじっと男を見つめながら「そう」とだけ言った。そして今日、男は役員から監査が君の伝票に疑問を持っている、しばらく自宅で待機していてくれたまえと告げられたのだった。
雨足はいっこうに衰えなかった。
男は魚籃坂下の交差点からまたメチャクチャに住宅街を歩き回った。勾配のきついうねうねとした道を行くと、赤穂浪士の墓で有名な泉岳寺の裏に出た。少し休みたくなって門前に回った。
もう夕方で寺の門が閉まったせいか、参道脇の土産物店はシャッターを下ろして静まりかえっていた。地方の寂れた商店街のようだった。昭和四十年代のようなたたずまいの喫茶店が営業していたが、入ろうとして足が止まった。汚れた窓ガラスごしにマスターらしき初老の男をしばらく眺めてから、男は坂を下って国道十五号に出た。男の耳に突然、水しぶきを上げながら行き交う車の騒音が響いた。
巨大なビルから伸びた長いルーフの片隅で男は雨宿りした。左手に鞄と開いた傘を斜めに持ったまま、右手でポケットからタバコを取り出して火をつけた。深呼吸するように煙を吸い込んでから吐き出した。
ルーフ沿いにプランターが並び花が咲いていた。白い花だった。なんの花だろうと思った。頭の中を探ったが、白い花の名前はユリや菊しか思い浮かばなかった。わかるわけがない、生まれてこのかた花を買ったことも育てたこともなかった。男は口の中で「白い花、白い花」と繰り返した。
「ちょっと、ここは禁煙ですよ!」
振り向くと警備員の制服を着た初老の男が足早に近づいてきた。
「うるせぇ、どこで吸おうと俺の勝手だろうが!」
男は大声で叫んでいた。警備員の表情がこわばりピタリと足を止めた。ビルから出てきた男女が驚いた表情で男を見た。ノルマのきつい証券マン時代に、八つ当たりで部下に怒鳴ったことは何度かあった。しかし今の会社に再就職してからはそんな大声を出したことはなかった。
警備員をにらみつけながらタバコを落とし、靴で踏みにじってから男は歩き出した。引き返せない、やり直せない、もうどこにも行く場所がないと思った。焦りとも苛立ちとも、怒りともつかない感情がグルグルと全身を駆け巡った。
また早足で歩いた。ハアハアと口で息をした。冷え切っていた身体が火照り始めた。道路をひっきりなしに疾走する車の音がジェット機の轟音のようだった。車の音も人々の会話も、店から流れる音楽も現実感がなく、昔のテープの早回しのようにキンキンと耳に響いた。
(第01回 了)
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