世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
六、ホテル・バーリトゥード
右田氏と会った翌日は寝起きも悪かったし、一日中ぼんやりしていた。注意力散漫、集中力減退。仕事中も一人でいる時間は、ずっと椅子に座っていた。
ジムでの鍛錬を連想させる肉体や、チラチラと覗いていた刺青。握手をした時の力の強さや、感情が読み取れない態度。右田氏のことを思い出す度に憂鬱になるのは、そもそも彼が何者かを知らないからだ。
ヤクザなのか、半グレなのか、つまりはどれくらいブラックなのか。ナオに訊けば手っ取り早いのは分かっている。でも気が乗らない。不安は不安のままにしておきたいから、がその理由だ。
でも勘違いしないでほしい。安太の抱えている案件とは関係ない。それはそれ。そっちの話はある程度ついている。というか、つけちまった。あとは右田氏が餃子耳の本名を教えてくれるのを待つだけ。今、ナオへの連絡をためらっている要因は別物。単に俺個人の問題だ。
ボッタクリ未遂に遭った夜、久々に会ったナオの腕には刺青があった。右田氏の刺青と、彼を「ケン坊」と呼ぶナオ。親しいのは分かる。でもあいつからストレートに「私たち、付き合ってるのよ」とか「刺青を入れたのはケン坊の影響なの」なんて言われるのは嫌だった。ナオを好きなのかもしれないとか、本当はちゃんとしているヤツだとか、やっぱり久々にしたいよなとかいう以前に、きっと心細くなる。
若い頃、背伸びをして遊んでいた頃の連中が、俺の周りにはほとんどいない。ツテをたどれば連絡くらいは取れるだろうが、何だかそれも違うような気がする。シバトモやカタヤマみたいに、大学の同期だっただけの連中も周りにはいない。たまにこの前のようなハプニングがあるだけだ。
結局、俺の周りにはあまり人がいない。自分で勝手に道を外れたのか、みんなが離れていったのか。多分、両方とも正解だろう。俺の人との付き合い方には、何か重大な欠陥があるのかもしれない。そんな風に思ったりもする。
会わないなら会わないでいい。どんなに遠くにいても、極論死んでいても構わない。ナオだって、この間再会しなければ二度と会わなかったかもしれない。ただ会っちまったら話は別だ。会えなくなるのもキツいし、中身が変わっているのもキツい。だからナオには連絡しなかった。俺の知っているあいつは、刺青を彫るようなヤツではない。不安は不安のままにしておきたい。
ついさっき、ナオよりも数年付き合いが短い安太から、とても短いメールが来た。
三日ほど東京を離れます
これ一行のみ。もしかして旅行でもするつもりなのか? らしいといえばらしいが、元凶のクセに優雅なもんだ。せめて行先くらいは教えとけ、と一文字だけ送る。「?」。
程なく返ってきたのは二文字。「台湾」。
驚いたが「!」なんて送りたくはない。きっと一人ではないだろうから、もう一度送ったのは再び「?」。
少々間をおいて返ってきたのは「バーバラ」。
質問の意図がちゃんと伝わっているのが腹立たしい。そうか、あの人と二人で行ったのか。
じゃあ俺もどこか遠くに、と思ったのも束の間、今日から毎日バイトが入っている。次の休みは五日後だ。ドタキャンは出来るけど、困るのは目に見えている。店が、ではなく俺が、だ。こういう時の為に、少しは貯金しないとな。
明日、仕事が終わったら小旅行のつもりで横浜辺りまで飲みに行こうか、でも中華街だと結構高くついちゃうかな、なんて考えていると電話が鳴った。スマホの画面には「ミン 韓国」の文字。何日か前に連絡しようとした、韓国デリヘルで働いているあの子だ。
安太が台湾なら、俺は韓国。まあ、ミンちゃんの職場は鶯谷だが。
何にせよ面白そうだ。電話に出る。聞こえて来たのは甘ったるい声だった。
「オッパー、私、ミン。大丈夫デスカ?」
「大丈夫だよ。久しぶりだねえ」
たしか「オッパー」という呼び方は「おにいちゃん」みたいな感じだと、安太が教えてくれた。
「ソウデス、久シブリ。今、話セマスカ?」
甘い声なのにどこか焦っている。そのバランスの悪さに軽く背筋が伸びる。ここ最近、俺はトラブルを引き寄せがちだ。気をつけないと。
「アノ、前ニ一緒ノ友達、分カリマスカ?」
「ん? ああ、女の子、もう一人いたよね」
「違イマス、スイマセン。友達、私ノデハナイデス。友達、オッパーノ友達デス」
そういうことか。今、台湾に逃げている安太のことか。
「うん、分かった。俺の友達ね」
「ハイ、ソウデス。前ニ言ッテマシタ」
「何を?」
「ハイ。オッパー、ロングステイOKダッテ、言ッテマシタ」
……難しい。
ミンちゃんの初々しい日本語だと、なかなか話が見えてこない。でも彼女が必死なのは分かる。いつの間にか甘ったるかった声は熱を帯び、今や汗ばんでいる。
「電話じゃちょっと難しいなあ。あのさ、ミンちゃん、これから飯、えっと、食事しながら話さない?」
下心がないといえば大嘘になるが、必死な声を聞いているうち、役に立てたらいいなと素直に思えた。大久保で旨い韓国料理でも、と思ったが日暮里か鶯谷がいいと言うので従った。まあ、どっちの街もホテルには事欠かない。
ポケットにはバイアグラのジェネリック。備えあれば、だ。正直なところ、ミンちゃんに関する記憶はほとんどない。綺麗だった、というのは覚えているが、声を聞いても細部は思い出せなかった。
鶯谷に着いたのは夜九時前。「オッパー!」と駆け寄って来たミンちゃんは、派手にクラッシュさせたジーンズに、胸元の大きく開いた真っ赤なシャツ。
「久しぶり。っていうか、よく分かったね」
何トナク、と笑った彼女の顔を俺は覚えていなかった。でも、それが不思議なくらい綺麗な造りだ。粗削りな童顔、そして微かに斜視。これならバイアグラのジェネリックを使うことはないだろう。
この辺りの店は分からない、と言うと雑居ビルの二階の居酒屋へ案内された。中は意外と広く、客の入りは六割。ミンちゃんは迷うことなく一番隅のテーブル席に座り、生ビールで乾杯した後「オッパー、サッキノ話デス」と姿勢を正した。分かっていることはひとつだけ。軽いノリで近況報告をするような雰囲気ではない。俺も姿勢を正した。
実際に会って聞いた方が、当然電話よりも伝わりやすい。
ミンちゃんが持っているのは観光ビザ。期限の三ヶ月で韓国に帰らなければならないし、そもそも働けない。つまりデリヘル勤務の彼女はアウト、間違いなくブラックだ。
「ミンナ、同ジ。働イテ働イテ働イテ、三ヶ月デ、バイバイ」
そう言って笑う彼女も、あと五日でビザの期限が切れてバイバイになる。だったらまたビザを取れば、と言いかけた俺に「リミット、一年間ノ半分デス」と首を振る。確かに半年以上いるなら、それはもう観光ではない。そこまでは理解した。分からないのは、俺に連絡をした理由だ。
それで、どうして俺? と訊くと、ミンちゃんは「大丈夫デス」と力なく微笑んだ。
聞けば三ヶ月前に大久保で会った時、もっと長く日本にいたいと安太に言うと、俺を指差し「彼なら何とかしてくれるかも」と教えてくれたという。え、と驚くと「大丈夫デス」と再び彼女は微笑んだ。これまでのやり取りで、自分が騙されたこと、そして俺が役に立たないことは理解できたらしい。
安太がつまらない嘘をついた理由は分かる。ミンちゃんがデリヘル勤務、自分の興味の対象外だだったからだろう。まったく大人気ないことしやがって。
「なんか、ごめんね」
冷めかけたキクラゲ玉子炒めをつつきながら謝る。理由はどうあれ、彼女を思いっきり裏切ってしまった。
「オッパー、モウ帰リマスカ?」
「ん?」
「明日ハ仕事、朝、早イデスカ?」
なるほど、という感じで笑いかけると、「オッパー?」とミンちゃんは首を傾げた。開いた胸元が眩しいほど白い。あそこに舌を這わすことを考えながら、泊まりは無理だと告げた。腕時計を確認して「早ク動カナイト」と慌てる彼女の姿に軽く欲情する。結局、居酒屋には十五分もいなかった。
駅から少し離れたホテルに向かっている。この界隈で一番安いところをミンちゃんが選んでくれた。道すがらの交渉の結果、ホテル代込み/二時間二万円。休日出勤だというのにサービスしてくれたみたいだ。腕を絡ませたまま「ホテル、安ケレバ、私ガ得デキマス」と彼女は俺の顔を見る。なるほど、と言うと「オッパー、急ギマショウ」と駆け出した。
感情と金銭が混じり合う感覚は苦手だが、ミンちゃんとのやり取りは片言だからだろうか、まるで自分がそういう役割を演じているようで、だからこそ欲望には忠実になれた。
「ほら、もっと強く吸って」
「こっちに向けて、よーく見せて」
「そうそう、そのままギュっと挟んで」
「もう少しだけ早く動いてみて」
どんな頼みでも、ミンちゃんは応えてくれようとする。その献身的な動作と拙い言葉、そして時折見せる挑発的な表情。バイアグラのジェネリックもコンドームも使わないまま、俺は三十分でペラペラの抜け殻になった。
二人並んでベッドに寝たまま、小さな天井を見つめている。この部屋は狭い。時折前触れもなく白い胸元に舌を這わすと、拒むでもなく彼女は身体をくねらす。何度かそれを繰り返し、そろそろまた、というタイミングで電話が鳴った。間が悪すぎる。
さすがに無視しようかと思ったが、「オッパー、仕事ノ電話ナラ出ナイト」とミンちゃんに起こされた。安太からなら電源切っておこう、と画面を見ると「右田」の二文字。出ない、という選択肢はない。俺は全裸のまま洗面所へ移動した。
「もしもし」
「どうも。彼の名前、分かりましたよ」
「あ、そうでしたか。ありがとうございます」
「これから会いましょう。下北、来れます?」いや、という一瞬の戸惑いを右田氏は聞き逃さなかった。「無理ですか?」
今からだと小一時間はかかる。そう正直に伝えると、現在地を訊かれた。ここでの嘘は必ずバレるから、鶯谷と正直に言う。
「ん? 風俗っすか?」
こう言われたら仕方がない。ノーガードで行こう。
「まあ、ええ」
「ソープ? 韓デリ?」
この状況は「韓デリ」でいいのかな、と思った瞬間、頭の中でつながるものがあった。もしかしたら、と思い尋ねてみる。
「右田さん、今から鶯谷に来れますか?」
ホンモノが来る、とミンちゃんには説明した。その人ならロングステイ、何とかしてくれるかもしれない、と。不安そうな表情だったので「プレイはしなくていいんだよ」と付け加えると、「オッパー、アリガトウゴザイマス」と抱きつかれた。白くて冷たい肌の凹凸に触れ、欲情がリセットされる。
気付けば彼女はさっきよりも声が大きくなっていた。途中、何度か混じる韓国語が耳に心地いい。何かを剥がしているようだ。今度もまたバイアグラのジェネリックやコンドームを使う必要はなかった。ただ、短時間に二度も抜け殻になるとさすがに疲れる。再び並んで天井を見つめながら、俺はこれからの事を考えた。
さっきの電話、右田氏は俺の申し出に一瞬たじろいだ、ように感じた。気のせいかもしれないし、単に変なヤツだと思われたのかもしれない。でも、こうでもしなければ状況は変わらないだろう。
別に苦し紛れではない。ここに彼を呼んだ方が、色々と探りやすいと思っている。二度もしたのに悪いけど、ミンちゃんの願いが叶うかどうかに興味はない。彼女のロングステイ問題に、彼がどう向き合うのかを見たい。あと「プレイはしないでいい」と言ったけれど、本音は三人でぐちょぐちょやりたい。それこそ状況を変えるのに最適な方法だ。一緒にサウナへ入るのとは訳が違う。
そろそろ右田氏が来る頃だ。フロントのおばちゃんに言わなくていいのかと尋ねると、ミンちゃんは億劫そうに受話器を取り「モシモシ、モウ一人増エマス」とだけ告げた。あまりの呆気なさに「それだけ?」と訊くと「ココ、親切ダカラ。バーリトゥード」と彼女はウィンクをした。
何語かは分からないが、「バーリトゥード」は「何でもあり」という意味だ。総合格闘技の大会を観ている時に知った。
「ミンちゃん、格闘技、好きなの?」
そう聞こうとした瞬間、部屋の電話が鳴る。どうやら右田氏が着いたようだ。慌てて彼女は浴衣に着替えてベッドに潜る。俺はトランクスを履いてシャツを羽織った。
「あのさ、まず最初に大事な話があるから、それが終わったらロングステイの話ね」
「スイマセン、アリガトウ」
ミンちゃんはそう言うと、頭から布団を被った。
ジーンズにサイズ小さめの白T。右田氏はあの日と同じ格好だ。もちろん刺青も同じ位置にある。お楽しみ中すいません、と差し出された手を「こちらこそ、こんな所まですいません」と握る。もちろん力強く握り返された。やっぱり苦手なノリだ。
じゃあここで、と小さめのソファに並んで座る。真正面にはミンちゃんが潜り込んでいるベッド。とにかくこのホテルは狭い。
「あれ、お相手は?」
そこです、と指差すと目を見開いて肩をすくめる右田氏。ほんの少しだけ、この前よりも雰囲気が柔らかい。じゃあこれ、と彼はバッグから封筒を出した。中にはA4の用紙が一枚。真ん中に免許証がカラーで複写してある。
名前は……、忰山田進
二文字目以降の「ヤマダススム」は読めるが、肝心の一文字目が読めない、というか、こんな字に見覚えはない。
「えっと、これ……」
「ねえ、読めないでしょう」
「はい、ヤマダススムしか」
「正解はカセヤマダ、だそうです。カ、セ」
カセヤマダ・ススム、か。へえ、と感心しながら写真の顔を見る。これが安太を震え上がらせている餃子耳の男なのか。年齢は二十六歳。予想より若い、というか子どもっぽい顔をしている。もっと悪人ヅラを予想していた。
「たしか初めてなんですよね、顔見るの」
「はい。なんか、予想よりずいぶん若いっていうか」
「ねえ、ボッタクリやるような顔じゃないでしょう」
そうですね、と言いながら俺は、これからどうやって流れをぐちょぐちょへ持って行こうか考えていた。この雰囲気ならいけるかもしれない。いや、その前にアレを確かめておこう。
「あの、今回の費用というか……」
「ああ、これは別にいりませんよ。ここから偽造免許やパスポートを作るなら、別料金かかっちゃいますけどね」
タダはちょっとマズいよな、と思った瞬間「スイマセン」とミンちゃんが突然顔を出した。
「スイマセン、私、パスポート欲シイデス。ロングステイ、ドウシテモ宜シクオ願イシマス」
二度抜け殻になっていて良かった。何の迷いもなくミンちゃんを手招きし、右田氏と俺の間に座らすことが出来る。もし一度だけだったら、判断が鈍っていただろう。冴えている俺は、彼女に「ほら、ちゃんと説明しないと」と的確な指示も出せる。
彼女が自分の状況を説明している間、彼は一言も喋らなかった。そっと盗み見たが、その表情から感情は読み取れない。俺は状況の変化を期待してソファを立った。右田氏と目が合う。
「ちょっと酒、買ってきます」
フロントのおばちゃんにも同じ言葉を投げた。別に何も言われなかったが、出入りの多い部屋だと思われているだろう。本当、バーリトゥードなホテルでよかった。
今、あの部屋の雰囲気は硬すぎる。邪魔者の俺がいなくなれば、きっと流れは変わるだろう。そう信じて、面倒だけど外に出た。近くのコンビニで缶ビールや缶チューハイを数本買った後、今戻ると早すぎるかもと一本だけ飲んで時間を潰す。
期待している流れは、もちろん三人でのぐちょぐちょ。ミンちゃんにかかる心身の負担も気にしないではないが、今の俺に他人を気遣う余裕はない。心底心配なのは、自分がもう一度抜け殻になれるかどうかだけだ。これから三度目は、正直キツい。
(第06回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『助平ども』は毎月07日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■