久しぶりの故郷。思い出したくない過去。でも親族との縁は切れない。生まれ育った家と土地の記憶も消えない。そして生まれてくる子供と左腕に鮮やかな龍の入れ墨を入れた旦那。それはわたしにとって、牢のようなものなのか、それとも・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑による連載小説第3弾!。
by 寅間心閑
一 (前半)
福岡に着いても、まだすっきりしない。やっぱり旦那も連れてくればよかったかしらと、うじうじ内側の奥底で悩んでいる。
空港と直結した唐津行きの地下鉄。タイミングよく来たそれに乗ってすぐ、土産物がないと慌てたが、旅行じゃないんだからと思い直す。大丈夫、ひとまず落ち着こう。そう言い聞かしてみても効果はなく、頭の中がぐるぐると動き始めてしまう。
葬儀で帰郷する際に土産物を買うべきか、は昨日インターネットで調べた「葬儀参列のマナー」に記されていたのだろうか。
また、二十四歳にもなってその答えを知らないのは、恥ずかしいことなのだろうか。
では、もしそうだとするなら、恥ずかしさの原因は私「だけ」にあるのだろうか。
――まずい。
こんな具合に、「だろうか」「だろうか」と疑問だけ浮かぶのはまずい。慌てて意識を逸らす。このまま放っておくと際限なく疑問が溢れ出し、こめかみの辺りが痺れてくる。それは避けたい。避けたいけれど、「コレ以上考エルナ」という私の指示は無視され続けている。このままだと内側に、疲労と苛立ちが溜まってしまうだろう。
どうにかしなければと、物産展の吊広告を凝視し続ける。早く意識を逸らしたい。秋の北海道物産展/北の大地が育んだ絶品グルメが勢揃い/ミニいくら丼無料試食会開催……。何とか落ち着けそうだ。時間にして一、二分なのに、こういう時間は過ぎるのが本当に遅い。
地下鉄はまあまあ混んでいた。六年ぶりの車内に懐かしさを覚えなかったのは、きっと着慣れない喪服のせいだ。あと、六年という時間の意外な短さもある。いずれにせよ、黒ずくめにボストンバッグひとつの女は妙に目立つ。
今朝、斎場には更衣室があるものだと旦那から教えられたが、うやむやな返事をして喪服のまま家を出てきてしまった。昨日からずっと慌ただしい妻の様子に気圧されたのか、どこか所在なげにしていた姿。申し訳なくもあり、ちゃんと話をしたいという気持ちに駆られもしたが、飛行機の時間がそれを許さなかった。タクシーを呼ぼうとしてくれた彼を、「電車の方が早いってば」と制した自分の声は予想外にきつく、今思い返してもひやりとする。
感情を言葉にするのは難しい。誤解したりされたりする。そういうものだと受け止めればいいが、私たち夫婦にはその余裕がない。そんな哀しい真実を突き付けられる瞬間が、これから何度襲ってくるのだろう。バッグに手を入れ、旦那が用意してくれた香典袋を指先で確認しながら、私は目を閉じ小さくため息をついた。
地下鉄の景色はつまらなく、斎場の最寄り駅まではまだ遠い。そして私が育った町は更に遠く、終点の少し前だ。電車の心地いい振動が、昨日からのざわつきを徐々に鎮めてくれる。その分出来たゆとりに浮かぶのは、ばあちゃんが死んだという現実と、今日会うかもしれない妹・佳奈美のことだった。一緒に暮らした期間が短いとはいえ、明確に顔が思い出せないのは、やはり寂しい。今、浮かんでいるのは一緒に撮ったプリクラの画像だが、元々画質が粗いうえに色落ちも激しく、つまり参考にはならない。
最後に会ったのは七、八年前。それ以来、連絡も取っていないけれど、佳奈美の携帯の番号は覚えている。とっくに変わってしまっているとは思うが、それも数少ない記憶のひとつだ。
でも、本当は分かっている。あの子と何を話そう、と考えても何ひとつ浮かばないのは、実はあまり会いたくないからだ。懐かしさはあるし、今の姿を見てみたいし、いくつか訊いてみたいこともある。でも、会いたくはない。正確に言えば、「姿は見たいけれど、それ以上関わりたくはない」という感じ。
ただそれは佳奈美に限ったことではない。親戚全員に対してだ。ぼんやりとだが、私はこれが最後の帰郷だろうと思っている。今の自分に何もしてくれない故郷なら、いっそ切り捨ててすっきりした方がマシ。結婚して以降、何度もそう思う。もちろん今後、旅行などで訪れることはあるだろう。旦那も一度は行きたいと言っていた。けれどそこに旅行以上の意味はない。
今回帰郷せずにそのまま親戚と疎遠になる、という選択肢が一番効率がよかった。お見舞いならまだしも、今回の用件はお葬式。ばあちゃんはもうこの世にいないのだ。別れを告げるなら、後でひとり墓参りに行けばいいし、何なら東京にいても別れは告げられる。冷たいようだが、私が今でも好きなのは、昔のばあちゃんだ。
親戚たちにとっても、高校を出てすぐに上京してから六年、一度も顔を見せず、それどころか知らないうちに結婚をしていた私が帰って来なくても、別段不思議ではなかっただろう。
それでもこうして帰ってきた。このままではあまりにも不義理だろう、というつまらない理由から、決して安くはない交通費と宿泊代を払って高校卒業以来初めて帰ってきた。
これが最後の帰郷だと思えば気も楽だし、別に後悔はしていない。ただ未熟さを曝け出し、「やっぱりあの子は」と思われたくないので、「葬儀参列のマナー」はきちんと守りたい。私は上京してから、人目をとても気にするようになってしまった。
ふと、羽田から切りっぱなしの電話を思い出す。ボストンバックから取り出し電源を入れると、旦那からメールが一件。目的の駅近辺にあるビジネスホテルの連絡先が送られていた。
昔のあやまちは消えないが、今は哀しいくらいおどおどと優しい人だ。
あと二駅というところで、女子高生たちが乗り込んできた。
秋らしくない華やかさを撒き散らしながら、きゃっきゃと笑い合う彼女たちがただただ眩しくて、思わず俯き加減になる。こういうきらめきが苦手なくせに、どこか羨んでいるから始末が悪い。
勝手に卑屈になった黒ずくめの耳に、飛び込んでくる地元訛り。上京する時、棄て去ったはずなのに、その響きはとっつきやすかった。今日初めて懐かしかった。下を向いたまま聞き耳をたてる。どうやら憧れの先輩のアルバイト先が判明したらしい。
「ちょっとぉ、じらさんで早よ教えちゃりい」
「そうたい、じらすとば好かぁん。どこね?」
「そがんこつ言うてさ、本当は知らんちゃなかとやぁ」
せっつかれている子は得意な様子のまま、勿体つけて話し始めた。ゲームセンター、という回答にみんな驚きの声をあげつつも、その場所を知りたがる。本当に眩しい。
つい聞き入ってしまった自分を戒めつつ、そろそろ降りなければ、と席を立ちかける。瞬間、耳に届いたゲームセンターの場所は、意外にも私が生まれ育った町だった。へえ、と思う。あんな何もないところにゲームセンターなんて、まったく似合わない。本当に客が集まるのだろうか。
その疑問はホームに降りてからも、自動改札を通ってからもなかなか消えず、「美和子やなかね」と呼び止める声を聞き逃すところだった。黒いネクタイを締め、「田辺家」と記された指差しの案内看板を持った太ちゃんは、六年前と同じ黒縁の眼鏡をかけている。
「今着いたとや?」
「うん」
「そん格好で東京から来たとね」
「そう」
「会場に更衣室ばあろうもん」
「だよね」
「……こんな時にあれやけど、結婚おめでとうな」
「うん」
本当は色々と訊きたいことがあったが、問いかけに頷くので精一杯だ。ずっと一緒に暮らしていたから、却ってよそよそしくなってしまう。結局尋ねたのは佳奈美のことだけだ。
「あの子、来てる?」
「いや、まださ。来るとやったらここの駅で降りるはずやけん。この看板、まさか見逃さんやろうし」
笑うと本当に昔のままだと思いながら、ここに立っていてくれた太ちゃんに感謝する。半ば強引な、あまり良くない形で上京してしまった私の連絡先を知っているのは彼だけだ。
あと、努めて軽い調子で「そういや、美和子たちの母ちゃんは来んらしいったい」と、教えてくれたのも有難かった。そうでなければ、ごく僅かな可能性を考え、冷静ではいられなかっただろう。
「連絡ありがとうね」
「いや、ごめん。本当やったらお通夜に間に合うごと知らせたかったっちゃけど、俺も色々慌てとったもんで……」
「全然、全然。教えてくれてありがとう」
「まあ、突然やったもんねぇ。美和子はばあちゃん好きやったけん、辛かろ?」
うん、と答えてみたものの、本当に辛いかどうかは自分でも分からない。私が今でも好きなのは、昔のばあちゃんだ。さすがに太ちゃんにそんなことは言えず、代わりに旦那から教えられたホテルの位置を尋ねてみた。ここから歩いて五分もかからない、と言った後に「うちに泊まればよかたいね」と顔をしかめる彼は、やはり昔のままだ。裏表がない。つまり、鈍い。
あからさまに取って付けたような「おじちゃんとおばちゃんは元気?」という問いかけにも、「年々若返っとうごたあよ」と濁りなく笑っていた。じゃあ後でね、と歩き出した私は思う。あの家に泊まれるわけないじゃない、と。
チェックインの時間には早過ぎたが、何も言わずに部屋へ通してくれたのは喪服姿のせいかもしれないし、場所柄そういう客が多いからかもしれない。フロントもエレベーターも部屋の造りも、すべてが古臭かったが私にはちょうどよかった。もちろん快適なわけではない。そもそも快適さなんて、私は知らない。
強いて言えば今が快適かも、とお腹をかばいながらベッドに腰掛ける。現在、妊娠十五週目。先週、超音波検査をしてもらい、男の子だろうと告げられた。確率はほぼ百パーセントだという。
「はい、ご苦労さま。とりあえず、ホテルに着きましたからね」
病院の待合室で見かける妊婦たちのように、赤ちゃん言葉で話しかけるのは苦手だ。今日は暑いでちゅねえ、なんて試してみたが、なんだかよそよそしい気がして、それ以来普通に話しかけている。ぐう、と小さくお腹が鳴った。そういえば朝から何も食べていない。
「あなたもお腹すいたでしょう」
ボストンバッグからガムを取り出す。時間は正午過ぎ。来る途中にコンビニはあったが、わざわざ買いにいくほどではない。お腹の子には悪いがこれで我慢しよう。ごめんなさいね、と囁きかける。
葬儀は一時から。できれば時間ぴったりに行きたい。早ければ誰かに会いそうだし、遅れれば目立ちそうだ。
ガムの他に入っているものは、数珠と香典袋と黒いハンドバッグ。あとは帰る時に着るワンピースだけ。そのワンピースをハンガーに吊るしながら、冬になる前でよかったと思う。九月だったから、荷物がこれだけで済んだ。
ハンドバッグの中身を確認し、ぼんやりと窓の外を眺める。どこがどう、というわけではなく、旦那の実家の風景が思い出された。そういえばこのハンドバッグも、初めて向こうの両親に挨拶へ行く時に買ったものだ。
新宿から電車で三十分ほどの町で、旦那の実家は居酒屋を営んでおり、私は初めて「都下」という呼び方を知った。上京する前から知っていた「二十三区」が、東京のすべてだと思い込んでいたのだ。
行きの電車の中、窓の外の風景を見つめる旦那の表情は、心なしか強張っているようだった。「何を言われてもさ、まあ気にしないでくれよ」という言葉から、少なくとも歓迎されてはいないと理解する。七月初旬のやけに蒸し暑い昼下がり、改札口を抜けてから薄手のジャケットに袖を通し、彼は照れ臭そうに笑った。
「もうちょっと涼しい日にすればよかったな」
行き先は自分の実家なので、本当はTシャツ一枚でも構わない。けれど、それが許されない理由は彼の左前腕部に在る。あまり大きくはないが、白いワイシャツの上からでも確認できる竜が一匹、色濃く彫り込まれているのだ。両親は知らないのだろうか、と思いながら「じゃあ、アイスでも食べようか?」と微笑んでみる。そうだな、と歩き出す旦那の背中を追いながら、通常、結婚の挨拶へ行く時とは明らかに違うであろう緊張を私は感じていた。
「な?」
居酒屋の前に着くと、彼は私の肩をつついて軽く笑った。言いたいことは分かる。それまで何度か聞かされたとおりの、殺風景な店構えだった。「準備中」という札がかかっていなければ、廃業したと間違われるかもしれない。
ガラガラと引き戸を開け、「遼平だけど、いる?」と頭だけ店内に突き出す彼の後ろで、私は水羊羹セットが入ったデパートの袋を何度も持ち替えた。待つこと数秒、階段を降りてくる物音と「おお、よく来たな」という声が聞こえる。柔らかく愛想のよい響きに安堵しつつ、「はじめまして、田辺美和子と申します」と頭を深々と下げた。店内は冷房が効いていて、それも安堵をくれる。これなら彼はジャケットを脱がなくても平気だろう。
「どうも、遼平がいつもお世話になっております。すいませんね、こんな格好で」
「いいえ。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
Tシャツにジーンズ姿の父親は、彼によく似ていた。
「おおい、早く降りて来いよ」
二階にそう呼びかけた後、座るよう勧めてくれたが、母親に挨拶をするまではと思い、「いえ……、でも……」と言葉を濁す。
「はいはい、お待たせしましたね」
やはりTシャツにジーンズ姿で降りてきた母親に、再び「はじめまして、田辺美和子と申します」と頭を下げる。
「ごめんなさいね、こんな狭っ苦しい場所でね。ほらほら、とりあえずお座りになって。もう、父さんもボサッと突っ立ってないで」
賑やかな口ぶりや立ち居振る舞いではあったが、私は気付いていた。彼女は久しぶりに会う息子と目を合わせようとはしない。
(第01回 了)
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* 『松の牢』は毎月07日に更新されます。
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