偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 彼はその日、そう、運命の前々日ということになるが、異様な高揚感に包まれていた。
生涯に一度も試みなかったパターンの一日を堪能したようだ。
早起きして屋上で朝日を浴びながら読書をした。数式を敬遠して四年間も積読していた英語の科学哲学書だったが、三時間ほどで第一ページから最終四百余十ページまで一行も漏らさず読了し、著者の論証の誤り、固有名詞の誤記、図表の不整合など十数か所の明瞭なイメージが脳内にひらめきひしめき続けたのを持て余し、そこから派生した哲学的認識を大学ノートに十頁半書き殴った。
階下へ降りてカップ麺を立てつづけに五個平らげ、いったんすべて台所で吐き戻してから、再び立て続けにカップ焼きそばを五個平らげた。トマト酢三本と牛乳三パックを流し込んで胃を定着させた。
食前に書き殴ったノートを破り捨てて風呂場で燃やし、シャワーを浴びて壁を殴り、タイルに直径二十五センチほどの亀裂を生じさせつつ無傷の拳を舐めながら再び屋上に上がり、即興の呪文を空に向かって三時間ほど唱え続けた。その間まばたきはほんの五回ほどだったという。再び階下へ降りてアイスクリームを二十カップ平らげ、いったんすべて台所で吐き戻してから、再び立て続けにポテチを十袋平らげた。リンゴ酢四本とヨモギエキスひと瓶を流し込んで胃を定着させた。
「食前の呪文が既成の呪文とかぶっていた可能性に備えてみたび屋上へ上がって即興中の即興呪文を百八種類唱え直したそうですしね……」
リビングへ降りて65インチ液晶テレビを持ち上げて床にたたきつけ踏みつけまくって無数の小片と十個以上のそれぞれアルファベット文字形の主要部分に分解した。ついでそれらをジグソーパズルよろしく継ぎ合わせ、工具と接着剤を排除したまま素手と唾のみで見た目完全にテレビ形に復元した。彼の死後に捜査官がこのテレビを検分中試みにリモコンで電源オンにしたところ、彼の顔の右半分が一瞬大写しになるやいなやテレビごとバラバラに分解したという。一瞬大写しの瞬間はその場にいた複数の捜査官の写メに残っている。
テレビ組み立て後彼は路上に出て、町内を五十周全速力でマラソンした。
「二周おきに自転車と正面衝突して、どの自転車も乗っていた人ごと三メートル以上飛ばされたというのは事実だったようです」
「けれどみなさん転倒せず着地して無事だったという、あれですね。何か意味があるのではないかという」
そのうち三回において彼は明らかに右肘と左膝と左肩に重い怪我を負ったが、二時間後に帰宅した時には完全癒着していたと思われる。自転車置き場にあったスコップでそのまま庭で穴掘りに没頭し、百人一首を延々と諳んじながら自分の頭が地面より下になるまで掘っては埋め直す作業を、庭全体を耕すまで続けた。
その間、土から選り分けたダンゴムシはすべてプチプチと噛み砕いて食べ、ミミズはすべて丸飲みしていったとされる。泥だらけの体を庭の蛇口から水浴びして清めた後、ロッククライミング風に家の外壁づたいに再び屋上に上がり、シャドウボクシングとエアギターを交互にひしときり演じては庭に飛び降り、またよじ登りを少なくとも三十回繰り返した。
日が暮れるとロッククライミングの最中に拳と肘と肩で二重ガラスを割って自室に侵入し、室内を歩き回りながら八桁の掛け算を暗算し続けた。近所のうち二名がガラス破砕音に驚いて通報しようとしたというが、彼の楽しげなハミングに陶酔して心配なしと判断したという。
彼は掛け算が二千桁を超えたところでドリンク剤と米酢を十瓶ずつ飲み、洗面器を持って散歩に出かけた。
散歩開始後すぐ、街灯の下で洗面器にダンゴムシの破片とミミズをすべて吐き出し、黒酢と胃酸でミミズがすべて死滅していることを確認した後、再び洗面器内の混濁液をすべて飲み込み直して十回逆立ちを繰り返して胃内容物が逆流しないのを確かめた。
「あ、ミミズは一匹だけ生きていたという新説が支持を集め始めております。彼が持ち帰って保存しておいたそのミミズの子孫がおろち系記念館に今も生き延びているという」
「ああ、〈おろち史に枝葉のトリビアと因果関係を持ち込まない原則〉によって提起と同時に無視されそうになっているあれですね。ここでも一応無視で先へ進みましょう」
夜道の散歩は全力疾走と徒歩のシャッフルで行なわれたが、やがて競歩風の早歩きに変わった。そこで彼は当日の趨勢からして自らうすうす予期していたような光景に出会い続けることになる。住宅街の角を、辻を曲がるたびに、誰かがしゃがんでいるのだった。例外なく顔だけを街灯の光円錐内に出した姿で、上半身下部から後ろは闇に埋もれて見えなかった。ちょうど腰の高さに人の顔が白く浮かんでいる光景として彼の目には映ったはずである。それが角を五回曲がるたびに一件の割合なのだった。
「ううう」どの顔も苦悶に歪んだ表情を浮かべていた。闇に沈む後半身から紛れもない排泄系破裂音が響いていた。全員が一様に下痢模様であることは明らかだった。
彼の通過経路に当夜しゃがんでいた人々の九割以上が現在身元特定されているが、確かに全員突然の腹痛に見舞われて即下半身露出のやむなきに至ったと証言しており、ちょうど通りかかった彼と一瞬目が合ったとき彼は「そういえば」「それにしても」と呟いている最中だったという。散歩中ずっとこの五文字ないし六文字を彼は呟き続けていたことは間違いなく、稀に続く下の句に歩幅の合った位置でしゃがんでいた三名の聴覚体験を総合するに主節は「うんこした覚えないなあ俺ここ何日も、いやもしかして何週間も」であったらしいことが確認されている。
「検視結果も、彼の直腸には比較的長期直近の便秘の痕跡が確認されています……」
「大便そのものはまったく残っていなかったけれども、というあれですね」
おおむね干渉することなく腹痛群像の各々をやり過ごしていった彼だったが、ほぼ彼と同年齢の自営業男性の顔が浮かび出ているところで彼はズボン下ろしてしゃがみ込み、背中合わせというか極度に前屈みだった自営業男とピッタリ尻合わせに固着して、相方の破裂音に合わせて放屁を持続させた。一説によればこの背中合わせ放屁によって彼は、数週間分の便秘をすべてガス変換して放出しおおせたものと考えられる。自営業者の証言では、自らの体末端からの濁流粘液射出と完全シンクロで相方が一層の大音響を奏でたため、まるで背面密着体の単一の末端から音と物体が流れ出ているような、完全二人同体の感覚にしばし漂ったという。群像への融合的干渉はこれ一回を限りとして、彼は夜が明けるまで腹痛群像と出会いながら散策を続けた。
「その自営業者が〈喪竿〉氏の叔父に相当するという新事実はなにかおろち研究に影響を及ぼしますかね」
「それもさしあたり〈おろち史に枝葉のトリビアと因果関係を持ち込まない原則〉で片づけておこうじゃないか」
いきなり彼の前に連続出現した腹痛群像。
明らかに袖村茂明体質を思わせるこの一夜の顛末が、いかなるメッセージをこの最終路上風景ぐるみで伝えているのかは未だ不明である。この夜だけ彼の身に「体質」が宿った証拠と見る学派もあれば、群像の下半身がすべて依然闇の中に隠れていたことをもって彼がいかにしてもこのある意味絶頂日においてすら「体質」とは無縁であることを念押しするおろち空間の非人称的配慮と見る学派もある。ともあれこの絶頂日の絶頂体験こそが――
「彼・印南哲治をして森羅万象に「間違いない、決行すべし」のゴーサインを視認させたことは確かでしょうね」
■ 「印南哲治としては衝撃を受けたでしょうねえ」
「シンクロ脱糞パフォーマンス、おろちカレー試食パフォーマンスを経て、すっかり師匠格でしたからねえ」
「衝撃って何に対してですか」
「ほら、準備段階思案幾許の折、失踪していた蔦崎公一がデパートであの人質事件を起こして華々しい黄金自殺を完遂したことにですよ」
「それはわかってるんですが」
「先を越された……!」
「あれこそ、ああいうことをこそまず我が……!」
「とほんとに思ってたんでしょうか」
「むしろこうでしょう」
「そう。……何? 俺はいま何を思った? 先を越された……だと? ということはなんだろう、おれはああいう事をして世間の耳目を集めることを究極目標としてこのおろち人生を洗練してきたのであったというのか?」
「ああいう安易な、安易を壮烈で覆い隠したようなどんでん返しのごときがおれの暗黙の理想だったというのか?」
「……と体の軸に激痛を放つ指向性の衝撃を受けた、といった感じだったはずです」
「ふむ。しかし衝撃はたいてい単独ではやってはきませんね。印南哲治に引導を渡すとどめの一撃が……」
「出番をうずうずと待ちあぐねつつ、蔦崎事件の打撃によって罅入り弱っていた印南の人間力のさまに惹かれるように轟音とともに襲いかかってきたのでしょうね」
「それって必ずしも印南本人には轟音とは響かなかったでしょうしねえ」
「いや、轟音も轟いていたのですよ。たとえばですね、壱原光雄の件ですね」
「壱原光雄ですか……あの男に関してはもう十分考え尽くしたはずですが」
「いや、もう一つこういう事情があったのですよ……」
業界内業界には「超達人」壱原光雄が地下デビューし、マイナーな扱いに甘んじていたXY大便を食いまくるネオ純愛MS哲学を展開し始めていたのである。蔦崎公一のあの捨身の訴えが全ての本心を震撼させた以上、壱原としてももはや印南の伝統的スカトロ趣味を立て奉る建前に終始するに忍びず、ついに印南の陰から壱原本来の実力が姿を現わしたのだった。と印南の目には映った。
「という次第で印南と壱原は専門誌上の対談でガチンコ討論を演ずることとなったわけですが……」
「という次第でしたね」
「話題はもちろん、世を騒然とさせた蔦崎事件でしたが」
「専門誌上の対談といっても、場所は金妙塾の中央セミナー室でしたし、まあいつものペースで壱原光雄と印南哲治は顔を合わせたわけです」
「表面上はね」
「編集部が用意した本来の論題は、ちょうどスターリニズムが共産主義の本質的帰結であるのか否かといった大昔の議論と同様の、蔦崎的反国家主義的大惨劇はおろち文化の本質的一部であるのかどうか、ということだったのですが……」
「そこはそれ、壱原と印南の討論は、〈めぐそ-おぐそ論争〉に終始することになってしまったと」
「ええと、その論争は知ってるかもしれませんがその呼び名では聞いたことありませんですね」
「あれですよ。蔦崎公一の最期の気道を詰まらせた自殺媒体は、女糞だけから成っていたのか、女男両糞から成っていたのか、それとももしかして男糞だけから成っていたのか、という、あれです」
「ああ、あれですか……」
(第95回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■