完全に女性向けの文芸誌である。そういえば、こういうのも珍しいかもしれない。「文学」は普遍のものであり、漠然としたファン層はあっても、「大人用」「子供用」「男性用」「女性用」といった、洋服のごとき用途別になってはいない。ふつう。
齋藤女史の総括コラムにあるように、これはいわゆる「女性誌」を文芸誌に変換したものなのだろう。女性にとっては楽しく読める。特に小説作品以外の読み物については、女性ファッション誌の読み物同様のものを、微妙に文学的スタンスにずらしていて面白い。
たとえば平松洋子の連載「メニューは文学である」。今回は赤羽の大衆居酒屋をめぐっている。「引用」されているメニューはまるで行分け詩のよう。そこに丁寧な「外題」が付いて、タイトルからの印象に反した結構なボリュームの記事になっている。この量が質に転化するというか、確かに「文学」かも、と説得されてゆく感じはする。
それに、さまざまな食物の名前が並ぶ、こんな文章は何だか最近の女性作家たちの、そこはかとなーく物哀しい雰囲気の漂う小説と似てもいる。そこにはある種の諦念もある。社会とか観念とか、結局は何にも手応えは感じない。それは女性たちの経験よりも直感からくるものだ。だから少女小説めいてもいる。だから社会でも観念でもない、とりあえず日々の生とともにあるものとして食物をいとおしむのは、女性が台所に立つからではない。食べる一方の少女たちも、またそうする。少年たちよりよく食べるわけでもないが。
赤羽の大衆居酒屋は「朝七時から飲める」そうである。メニューを「文学」にするのは、言うまでもなくその後ろに控えている空間に違いない。そこは「店」という空間であり、人々が集う。社会でもなく、観念もない人々の集団だが、その有り様には生活、ひいては生き方が透けてくる。そういった店で朝七時から飲んでいる人、いつか飲むかもしれない人たちの。
益田ミリの連載「女という生きもの」はマンガとエッセイ。いいコピーライターになるには、三つ。たくさんお酒を飲んで、たくさんの女と寝て、もう一つは何だっけ、といったことへの異論と考察ではある。もちろんそんなのはゴタ句に過ぎない。酒飲みで女好きの、出来の悪いコピーライターは吐いて捨てるほどいる。
ゴタ句とは言え、なぜ「たくさんの恋をして」じゃなくて「たくさんの女と寝て」なのかと問われているが、理由は知れている。陳腐な恋愛概念からは、陳腐なコピーしか生まれない。女たちは美味しい「メニュー」となるべきなのだ。酒や料理と同じ手触りと実在感を持ったモノであるべきだ。それを望んでいるのは男たちではなく、むしろ女たちだろう。
女たちは即物的に生きたいと願っている。それが悩みを悩まずに済む、唯一の方法かもしれない。悩みとは、エッセイに出てくるように、自らの「加齢」をどこまで認知し、口にのぼせるかといった認識に関わることだからだ。つまらない認識を廃し、モノ化を望む女たちこそ「文学」的な存在だ。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■