その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第十二話
孝介に手を上げたのは、これが初めてではない。しつけの一環として軽く叩いたりしたことは過去に何度もあったのだが、今回はまるで事情がちがう。僕の中に教育という大義は一切なく、ただ孝介の言葉にカッとなって、カッとなったからすぐに手が出ただけだ。
自分が悪いこともわかっていた。感情的になったのは、孝介がまちがっていたからではなく、孝介が正しかったからだ。息子の正論の前に正気を失い、正気を失ったから「もう知らん。好きにせえ!」なんて筋の通らない捨て台詞を吐いて、その場をあとにした。背後から亜由美と子供たちの声は聞こえてこなかった。足音もせず、人の気配も感じない。
また父の顔が浮かんだ。そういえば、かつての父もこういうことがよくあった。家族でなにかしらの外出をしている最中に、些細なことで急に父が激怒して、場の空気も読まず一人で帰ってしまう。結局、僕もあれと一緒だ。父と似たようなことをしてしまった。
『今日は三人で楽しみます。あとで孝介にちゃんと謝ってください』
ケータイに届いた亜由美からのメール。その丁寧な文体が深刻さを感じさせる。
僕は返信メールを打たず、あべのハルカスから御堂筋線の天王寺駅に向かった。引き返すべきだと頭ではわかっているのに、歩みを止められない。
今ごろになって、孝介に蹴られた脛が痛くなってきた。
孝介のやつ、力が強くなったな――。そうは思ったけど、いつかの父みたいに喜べない自分がいる。それもまた、僕の罪悪感を駆り立てた。
『今どこにいますか?』二時間くらい経ったころ、亜由美から再びメールが届いた。それも無視したけれど、さらにメールがつついてくる。『結局、あれから孝介も秋穂も気分が沈んじゃって、家に帰ってきたんだけど、新ちゃんがいないから』
一転して文体がくだけたので、なんとなく気持ちが軽くなった。
僕はあえて素っ気なく『セルシー広場』とだけ返信して、そのくせ亜由美の訪れをそわそわしながら待った。天王寺駅から御堂筋線に乗り、終点の千里中央駅で降りると、同駅構内には千里セルシーという古びたショッピングモールが併設されていて、セルシー広場はその屋外にある憩いの場みたいなものだ。本当はショッピングモールをしばらくぶらついていたのだが、亜由美と話がしたくて、わかりやすい場所を指定した。
セルシー広場の喫煙所そばにベンチがあって、僕はそこに座りながら二本目の缶コーヒーに口をつけた。足もとには一本目の空き缶。飲み口がタバコの灰で汚れている。
座っているだけなのに、全身が汗ばんできた。七月の昼下がり、たゆたう陽炎の中に紫煙が溶けていく。空が白い。雲ひとつない空がなんだか白い。
もう何本目かわからないタバコに火をつけると、亜由美の声が聞こえた。
「くさいから場所変えよ」
僕は黙ってタバコの火を消して、ゆっくり席を立った。亜由美は含みのある表情で小さく息を吐くと、すぐに背を向けて歩き出す。
僕は追った。追いつかないように追った。
「孝介と秋穂は?」
適当なベンチに並んで座るなり、僕から切りだした。
「家にいるよ。もう今日はおとなしくしてるって」
「そうか……」
「孝介のこと、気になってる?」
「そりゃあね。どう考えても俺が悪いやん」
僕がそう言うと、亜由美がわずかに笑みを浮かべた。
「いや、それがちがうの。孝介……自分が悪いって言ってた」
「え?」
「あの子、自分がおじいちゃんのお金をあてにしたからダメなんだって、あれはお父さんに失礼だから、お父さんが怒るのもしょうがないって……」
言葉を失った。なんだよ、孝介のやつ……。なんでそんなに大人なんだよ。
「孝介、わざとお父さんに当たったんだって。実はここんとこ悩んでたことがあって、本当はそれをお父さんに相談したかったんだけど、ずっと言い出せなかったらしくて……それで気持ちがこんがらがって厭味をぶつけちゃったみたい。新ちゃんを蹴ったのだって、あの子なりに感情が爆発して、思わず体が動いちゃったんだと思う」
「ああ」曖昧な相槌を打った。なんだか釈然としない。そもそも悩みってなんだ。
「孝介ね、私立の中学を受験したいって言うの」
「はあ?」
「あの子、大阪に引っ越してきてから、すごく仲良くなった友達がいるの。その友達は少し変わってて、クラスではちょっと浮いてるんだけど、勉強は一番できて、話の引き出しも豊富だからって、孝介はおもしろがってるみたい。で、最初はその友達が私立の中学を受験するから自分も、っていう安易な気持ちだったらしいんだけど、その子といろんな話をするうちにだんだん気持ちが大きくなったんだって」
「なんや、そんな理由か……。結局、友達の影響ってことやん」
「いや、子供にしてみれば大きな理由だと思うよ。だって、小六での転校って、よく考えたら超大変じゃん。周りの子はみんな何年も一緒で、すっかり親しくなってるんだから、そこに東京から新参者が入ったら、普通はアウェー感が半端ないでしょ。だけど、それでも孝介がそれなりに楽しくやれてたのは、その友達の存在が大きいからよ」
ああ、なんとなく納得できる。東京にいたとき、孝介は友人関係で苦しんでいた。それで大阪に引っ越したら、周りは知らない子ばかりで戸惑う中、なんとか気の合う友人を見つけた。しかし、あと半年も経つと、その親友は私立の中学に進学してしまうかもしれない。もし自分が地元の公立中学に進学したら、その親友と離れ離れになってしまう。
しかも、地元の公立中学は他の小六メンバーがほぼそのまま進学するから、そこでの自分は東京からの新参者として孤立してしまう不安もある。だったら、自分も親友と同じ私立中学を受験したい。幸い勉強には自信がある。孝介がそう考えるのは自然なことだろう。
亜由美いわく、孝介は再び進学塾に通いたがっているという。東京でのことを引きずっていないのかと訊ねても、「ああいうことがあったから進学塾や中学受験を悪だと決めつけるのは、問題のすり替えだよ」と答えたらしい。孝介らしい大人びた台詞だ。
「だけど、孝介はそれを言い出せなくて悩んでたみたい」亜由美が話を続けた。
「なんで? 言えばいいやん」
「お金のことが気になってたのよ」
「金?」
「あの子、私立は学費が高いから、お父さんがダメって言うに決まってるって」
僕は無意識に唇を噛んでいた。つくづく自分が情けない。
「もちろん、国立なら学費が安いってことも言ったよ。大阪には大教大付属とかの国立中学もあるんだから、そこじゃダメなのかって訊いたんだけど、ダメみたい。きっと、孝介の中にちゃんとした志望校ができたんだろうね。それが私立だったってこと」
「……なんか納得いかんわ」僕は絞り出すように言った。「東京におったころは、俺が『受験するなら国公立』って言っても、あいつ納得してたやん。それを今さら……」
「あのころはまだ、孝介の中に受験のリアリティがなかったからよ。あの子の成績がいいから、わたしたちが勝手に可能性を感じてただけでしょ」
「だからって、金のことを考えんと自由に学校を選ぶのはちょっと贅沢やろ。ある程度の制限の中で自分の進路を決めるっていうのは、世間一般的に考えても普通のことやぞ。孝介はそういう事情をちゃんと理解できる子やと思うけどな」
「わたしもそう思うよ。孝介は無茶を言う子じゃない」
「じゃあ、なんで今さら」
「大阪でおじいちゃんのことを知ったからよ」
おじいちゃん……。一瞬、胸に鈍痛が走った。嫌な予感がする。
「ここからは、新ちゃんにとってけっこうきつい話だよ。いい?」
「もう十分きついよ」
「孝介ね、中学受験のことをたまたまおじいちゃんに話したんだって。お父さんには、受験するなら学費が安い国公立だけって言われてるんだけど、自分の志望校は私立で、しかもそこは関西にあるどの国公立よりもレベルが高くて、いい学校なんだって……」
「そしたら、あの親父はなんて?」
「超乗り気になったみたい」
ああ、最悪だ。父の上気する顔が目に浮かぶ。
「孝介、おじいちゃんに言われたんだって。目標にしている学校があるなら、そこに入るために目いっぱい努力しなさいって。お金のことはおじいちゃんがなんとかするから心配しなくていい、お父さんのことはあてにしなくて大丈夫だからって」
カチンときた。いくらなんでも配慮がなさすぎる。クソ親父め。
「ぶっちゃけさ、栗山家にお金があんの事実じゃん」
「アホか!」僕は思わず声を荒らげた。「それは親父の金や。俺のんちゃう!」
「孝介には関係ないでしょ」
「関係あるわ! 孝介は俺の息子や! あいつもそれくらいわかる年齢やろ!」
「うん、そうだよ。だから孝介も悩んでたんじゃん!」亜由美の声も大きくなった。「孫がおじいちゃんのお金をあてにすることが父親にとって屈辱だってことも、孝介は全部わかってるからこそ、おじいちゃんの言葉を素直に受け入れられなかったのよ! だけど、あの子はそれでも受験があきらめられなくて、だから頭がこんがらがって、わざと父親の前でお金のことを口に出したりして、新ちゃんの反応をうかがったんじゃん!」
返す言葉がなくなった。だけど、胸の中では憤懣みたいなものが暴れていて、どうしても鎮静できない。亜由美の言うことは正論かもしれないけど、圧倒的な正論は卑怯だ。
「ねえ新ちゃん」
亜由美が急に穏やかな口調になった。僕の膝に優しく手を置いて、いかにも理解を求めるように、だけど子供にきつく釘を刺すように、うるんだ瞳で言葉をつなぐ。
「まだ十二歳の子供の気持ちを想像してみて。うちにはお金がないから私立は無理だって最初から選択肢に入れないことと、本当はお金があることを知っているのに、それでもあきらめることは、一見同じようでも全然ちがうよ」
僕は黙って立ち上がった。そんなことわかってるよっ。心の中で吐き捨て、亜由美に背中を向ける。無い袖を振らないのと有る袖を振らないのは、まったく異質の我慢だ。
「ねえ新ちゃん、孝介は別に遊びたがってるわけじゃないんだよ。勉強をがんばろうとしてるんだよ。厳しい中学受験に自分からチャレンジしようとしてるんだよ」
亜由美の言葉が背中に突き刺さる。それもわかってるよっ。
「ねえ新ちゃん、孝介を応援してやりたいって思わないの?」
思うよ。なるべくなら、そうしたいって思ってるよ。
「ねえ新ちゃん、わたしはお義父さんにお金のことを頼んでもいいと思ってるよ。新ちゃんの変な意地で孝介の可能性を摘み取るほうが……わたしは嫌だよ」
「変な意地?」
そこで振り返った。だけど、次の言葉が出てこない。亜由美は僕と目が合うなり、視線を逸らした。口を真一文字に結んで、なんとなくバツが悪そうにしている。
僕はどういうわけか脱力して、亜由美の隣に座り直した。両手で顔を覆う。
ああ、どうすればいいのだろう。孝介の要求を毅然と跳ね返すべきなのか、それとも父を頼るべきなのか。二つの分かれ道は、どちらの行き先も不透明だ。
結局、その日は問題を先送りにした。
孝介のためを思えば亜由美の言うことは正しいのかもしれないが、だからといって父の申し出を受け入れた場合、栗山家のバランスはどうなる。少なくとも、僕はますます父に支配され、孝介に対する求心力すらも失ってしまうだろう。それは僕らの世帯にとって本当に良いことなのか。三世代家族の落とし穴ではないのか。
だったら、孝介には私立をあきらめてもらうしかない。いや、それはそれで孝介の心にしこりができるはずだ。せっかくの祖父の申し出を勝手な意地で退け、息子の進路を不毛に制限した父親。有る袖を振らせなかった父親。考えようによっては自己中心的だ。
ああ、くそっ。やっぱりどっちもマイナスじゃないか。
そう思うと、あらためて父の無神経さに腹が立ってきた。元はといえば、父が余計なことを言ったのが悪いのだ。孫の進路問題に祖父がしゃしゃり出てくることが、僕と孝介にどんな影響を及ぼすのか、それくらいは想像してほしい。
よし、決めた。億劫だけど、いいかげん父を避けている場合ではない。このへんで僕が釘を刺しておかないと、孝介の実質的な親権すらも父に奪われかねない。
一週間後の日曜日、そのチャンスが訪れた。亜由美は朝から母を病院に連れて行き、孝介と秋穂もそれぞれ友達と遊びに出かけている。僕さえ逃げなければ、休日の父と家で二人きりになるわけだから、父と話し合うには絶好の機会だ。
正午前、いよいよ腹をくくった。リビングをのぞくと、マッサージチェアに座りながらテレビを見ている父の姿が視界に入る。いったん深呼吸して、自分に気合を入れた。
「あ、あのさ、ちょっといい?」
思いきって声を出すと、父が視線を向けてきた。あの車での一件以来、ずっと距離を置いてきたからか、父は珍しく目を丸くしている。
「話があんねん」
「なんや」
「孝介のことやけど」
僕がそう言うと、父は眉間に十円玉が挟まるくらいの深いしわを寄せた。その形相の迫力に一瞬ひるみそうになったが、そのままソファーに腰をおろす。今さら車の件に触れるつもりはない。あれはあれで、もう終わったことだ。
父は空気を察知したのか、おもむろにテレビを消した。だけど、決して僕と正対しようとはしない。あさっての方角を向くマッサージチェアに座ったままだ。
「孝介、私立の中学を受験したいんやって」
僕が切りだすと、父は「知っとる」と簡潔に答えて視線を逸らした。
「あいつは成績がいいから、俺も前々から中学受験のことを考えてたんやけど、それはあくまで学費の安い国公立のことやった。年間七十万も八十万もかかる私立は無理やから。もちろん、孝介もそれには納得してたよ。事情を話したら、ちゃんと理解してくれた」
父は宙を見つめながら黙り込んでいる。
「それやのにさ……孝介のやつ、今んなって急に私立って言いだしよってん。なんでかわかるやろ? ……お父さんが余計なことを言うたからや」
「余計なこと?」父がようやく口を開いた。顔だけを僕に向ける。
「金のことはおじいちゃんがなんとかしたるから受験がんばれって、勝手に孝介に言うたんやろ。そんなん言われたら、孝介だって迷うに決まってるやん」
「待て、なんで迷うんや? 素直に私立をあれしたらええやないか」
「そんなんしたら俺の立場はどうなるん? 父親が出せない金をおじいちゃんが出してやるって、わざわざ孝介に宣言して、俺を役立たずみたいに追いやって……」
「アホか、そんなもんおまえのメンツの問題やないか」
「ちゃう、家族のバランスの問題や」
「なんやそれは! そんな難しいあれを考えとるから、おまえはあかんねん!」父が顎をしゃくりながら言った。「せっかく孝介が優秀なんやから、しょうもないあれは捨てて孝介の将来だけを考えたるのが親っちゅうもんやろ! だいたい誰が金を出すとか、そんなあれは小さいこっちゃ。孝介を応援する、それで十分やないか、そらそうやないか!」
今までの僕なら、たぶんここで矛をおさめていたと思う。父が舌鋒鋭く持論を展開したときは、いたずらに反論することなく父を立てるのが僕の常だった。
だけど、今日はこれで終わってはいけない。次に用意していた言葉は、少し口にしにくいものだけど、いいかげん殻を破らなければならない。
僕は少し息を吸ってから、床に言葉を落とした。⁉
「それやったら、孝介に言わんでもええやん」
父の反応を待たず、必死で落とし続ける。
「あ、あの、これはもしもの話やけど……。もしも俺が……孝介を私立に行かせたいんやけど、金のことで困ってるってなったら、それは孝介に内緒で俺がお父さんに相談することやと思うねん。お父さんが勝手に俺を飛び越えて、孝介に言うこととちゃう」
すると、父が間髪入れず声を荒らげた。
「なんやおまえ! 俺をあてにしとんのか!」
思わず視線を上げる。父は鋭い眼で僕をにらみつけていた。
「ったく、情けないのう! やっぱりメンツの問題やないか!」
途端に胸が苦しくなった。情けない――。父がよく口にする言葉の中で、僕はこれがもっとも嫌いだ。アホよりもカスよりも、はるかに殺傷能力が高いと思う。
「おまえはそうやって、すぐに絵を描く! 俺はそういうあれが一番嫌いや!」
「いや、そういうわけちゃうって」
「なにがちゃうんや! 要するにおまえは自分の経済力がないから、親のあれをあてにしとんのやろ! せやけど、それが表にあれすんのは恥ずかしいから、孝介の前ではええかっこしようと思っとる。そういうことちゃうんか!?」
「ちがう! 今言うたのは、もしもの話であって――」
「それやったら、おまえが自力で学費のあれを出したったらええんや!」
「わかってるよ!」
「わかってへんやないか! わかってへんから、しょうもない絵を描くんやろ!」
「だから俺がなんとかするって!」
「なんとかするってどないする気や!?」
「孝介が私立を受けるんやったら、それでええ。金は俺がなんとかする」
「アホか、無理やわ」
「無理ちゃうわ!」
勢いで口走っていることは自覚できていた。けれど、訂正するつもりはない。がむしゃらに働いて、絶対なんとかしてやる。これは僕の意地と、そして決意表明だ。
父は呆れたような顔で溜息をついた。マッサージチェアから立ち上がり、腰を前後左右に曲げると、「あのなあ、新一よ」と珍しく諭すような口調で話しだした。
「私立のあれがなんぼするんか知っとるんか? 年間の学費だけちゃうぞ。最初は入学金もかかるから百万はゆうに超える。それ以降もあれや。授業料に加えて交通費やら寄付金やらで、なんやかんやと毎年百万はみとかなあかん。中高一貫やから六年も続くんやぞ。年収三百万やそこらのやつが、そんな金をどないして払うんや。無理に決まってるやろ」
わかっている。僕の中に、それだけの大金を払える根拠なんかない。だから、冷静に諭されると反論の余地がなくなってしまう。
「だいたい、今のおまえはなんや」父が見下ろしながら続けた。「ろくな仕事してへんやないか。会社にもあれせんとアルバイトみたいな仕事しよって。みっともないのう」
「ちょっと待って、仕事はちゃんとしてるって」
「じゃあ、それでなんぼ稼いどるんや。たいしたあれやないんやろ」
「まだ引っ越してきたばっかやからしゃあないやろ。これから増やしていくから」
「アホか、考えが甘いわ」
いちいちカチンとくる。アルバイトみたいな仕事、みっともない、甘い考え。どれも承服しがたい言葉だ。父のように大金を稼いでいないと、僕は認められないのか。父と僕の経済的格差は、父の中ではそのまま社会的格差なのか。人間の格差なのか。
「もうええわ」
僕は屈辱に耐えきれず、ソファーを立った。これ以上話しても、自分の意図しない方向に話が進んでしまうだけのような気がする。「とにかく、今後は孝介のことに口出さんといてくれ」そう言って踵を返した矢先、背後から父の声が聞こえた。
「新一、おまえ仕事をあれしたらどうや?」
いつもの指示語がこのときばかりは訳せなかった。言葉の意味がまったくわからず、顔だけで振り返る。父はソファーに座り、どういうわけかテレビをつけた。絶対に興味がないであろうTVショッピングの番組を、なぜか凝視しながら言う。
「俺の会社あるやろ。あれは俺だけでどうこうしてきた仕事やない。おまえの曾おじいちゃんが持ってた田んぼやら畑やらから始まって、それをおじいちゃんとお父さんでここまであれしてきたんやから、全部つながってんねん。言うたら、うちの家業や」
なんとなく不穏な空気を感じた。心臓が早鐘を打つ。
「葬儀屋っちゅうのは、この先もずっと社会に必要な仕事や。うちはそれを代々やってきたんやから、俺が死んだら終わりっちゅう仕事やない。せやけど、俺はもう六十八や。そろそろ先のことも考えなあかん。いつまでも元気っちゅうわけにもいかんやろ」
「まあ……」
「新一、おまえはどうするつもりなんや?」
「どうするって……」
「せやから言うたやろ。うちの家業や。おまえも役員にあれしとる」
要旨がはっきりつかめてきた。僕が継ぐべきは家だけではないのか。
「おまえの仕事のことはようわからんけど、そらもう、あれや。そろそろ家の仕事のあれも考えたらどうや。仕事っちゅうのは好き嫌いでやるもんちゃうぞ」
父はそう言って、テレビのチャンネルを変えた。今度は時代劇の再放送だ。
「そしたら……収入のあれも悩まんでええようになるやろ」
収入――。父の言葉のそこに引っかかった。
だけど、詳しい話を聞くのが怖い。自分が生まれ育った家のことだから、まったく興味がないわけではないけれど、深く足を踏み入れることに漠然とした不安がある。
正直なところ、僕はまだまだ栗山家のことを知らなすぎるのだ。その昔、うちの田畑だった土地がいくつかの霊園になっているのは知っているけど、それが誰の名義なのか、相続はどうなるのか、税金はどうなるのか、どこからどこまでが父の会社の業務なのか、そのへんの細かいところはわからない。わからないから、これまでは気楽だった。
「ちょっと考えさせて」
僕は適当な言葉を残して、逃げるようにその場を去った。父は座ったままなのに、なんとなく何者かに追われているような気がして、つい小走りになってしまう。
何者かの正体はたぶんあれだ。百年近い歳月が物語る、栗山家の根っこの部分だ。
それ以降、僕の中で新たな問題が持ち上がった。
父は自身が手掛ける葬祭事業のことを「うちの家業」と言った。確かに曾祖父が所有していた田畑を霊園にして、さらに石材屋を開業したことからすべての事業が始まったと考えれば、栗山家と切り離せる仕事ではないのかもしれない。たとえば父が亡くなり、僕が事業を継がないとなったら、うちの霊園にある数々の墓はどうなるのだろう。それらの永代使用者の中には、曾祖父の代から栗山家と親しく付き合ってきた地元民も多くいる。僕の判断で彼らに迷惑をかけることになったら、僕はこの町で暮らしていけるのだろうか。
そう思うと、継ぐという選択肢しか残されていないような気がしてくる。栗山家の代々の資産をもとにして、地元で百年近くにわたって築き上げてきた信用を売りにして、葬祭行事のあれこれを請け負っているのだ。父の会社にどんな幹部社員がいるのかは知らないが、彼らが赤の他人である以上、簡単に譲渡できるものではないだろう。
正直、収入面にも魅力を感じてしまう。父の仕事ぶりを見る限り、うちの葬祭業は斜陽の映像業界よりも手っ取り早く高収入を期待できそうだ。それによって、孝介を私立に通わせることができれば、僕が懸念する問題は一気に解決するかもしれない。
「ねえ、それって新ちゃんの本音?」
ある日の就寝前、亜由美に相談したところ、またもや痛いところを突かれた。
「だって、あれだけ葬儀屋のこと嫌ってたじゃん。しかも、お義父さんと一緒に働くなんてことになったら、ストレスで死んじゃうんじゃない?」
亜由美が寝室の電気を消した。それ以上は言及することなく、暗がりの中、そそくさと布団にもぐりこむ。僕はなんだか寝る気を失い、その場に立ち尽くした。
確かに、亜由美の懸念はもっともだ。そんなことは自分でもわかっていたはずなのに、どうして心が傾いてしまったのだろう。これもまた、いつもの僕の悪癖なのか。父がからむと無意識に立ち上がってしまう、虚偽の自分なのか。自分で自分がわからない。
悶々としながら布団に入った。頭が混乱して、ますます眠気が遠ざかっていく。いつもは気にならない亜由美の寝息が今夜はやけに大きく感じた。
しばらくして、亜由美の枕元でなにかが光った。同時に短い振動音が響く。
視線を送ると、正体は亜由美のスマートフォンだった。誰かからラインのメッセージが届いたのか、光が点滅するたびに、液晶画面に小さな文字の羅列が見え隠れする。
亜由美はそれに気づくことなく寝返りを打った。スマートフォンに背を向けると、寝息がますます大きくなる。そのとき、再び光が点滅した。またもや小さな文字の羅列。
決して、わざとではなかった。たまたま液晶画面が僕の視界に入っただけだ。
『もう限界だって思うなら無理しちゃダメだよ』
『シングルでも立派に子育てしているお母さんもたくさんいるんだから』
『今は離婚したって不便じゃない世の中だから大丈夫』
次々に届く亜由美宛のメッセージ。暗闇の中、異様な存在感を放っている。
予兆など、まるで感じていなかった。僕らはどこにでもいる平凡な夫婦で、そりゃあ喧嘩くらいはたまにするけれど、基本的には穏やかで温もりのある日々を送ってきたはずだ。僕は亜由美を愛していて、亜由美は僕を愛している。そこに若いころみたいな胸のときめきはなくなっても、だからこそ盤石な絆となって、僕ら夫婦の、いや子供も含めた家族全体の土台を支えていると信じていた。恥ずかしながら、それを疑ったことは一度もなかった。
不意に目頭が熱くなった。悲しいでもなく、寂しいでもなく、悔しいでもなく、ただただ驚いて戸惑って、頭が真っ白になっただけなのに次々と涙があふれてきた。
窓の外では、夏夜の蝉が狂ったように鳴いていた。一方の僕は声を殺して泣いた。泣き続けて、泣き続けて、やがて泣き疲れて、いつのまにか意識が途絶えた。
(第12回 了)
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■