偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ あ~あ。……
ほんとにもう、それ聞いたとき、思わず辞書で調べてしまいましたよ、「いちおう」を。
ひととおり。ひとわたり。大略。とりあえず。ひとまず。
十分といえないが、最低限の条件は満たしているさま。
ほぼそのとおりと思われるが、念のために。
……あれ? そんなもん?
いちおうって単語、別に意味ありませんよ、て感じだよね。
なわけないだろう。
辞書が不完全なだけだろう。
十分といえず、最低限の条件も満たしていないさまだからだろう、辞書が。
まあ日本を代表する辞書がその体たらくときちゃ、君の言葉遣いも責められないけれどね。
しかしいちおうはないだろういちおうは。
「いちおうこれ」な学生証にはもちろん通学先の大学名が印刷されてる。
大学名名乗るとき必ずアタマに「いちおう」を付けるのが口癖になってる人種でもなかったはずなのにな。君は。
十分といえないが、最低限の条件は満たしている大学です、というわけだな。
ああ、辞書の説明も使えるか。
つまりこういうことだな。
「身分証明証見せてもらえますか?」
「十分といえませんが最低限の条件は満たしているこの大学です」
……。
殺すよ?
いくら世間知らずの君でもだな。
君がそのとき所属していた大学が日本全国でおそらく最も名を知られた大学であるということくらい知っていただろう?
だからこそ君はその大学を受験し、そのまま大学院にも進み、その大学名の印刷されたその学生証を持っていたわけだろう?
つまり君の発した「いちおう」は皮肉というやつなんだよ。
君の大学が「いちおう」なら他はどうなるんだという話でしょうが。
ほんと殺すよ?
私は自慢じゃないがそこを落ちてるんだよ。
今ひそかに学歴ロンダなんて言われてるけどその言葉もなかった頃その大学院も受けてまた落とされてるんだよ。
私は。
この私を二度までも落としたそこが「いちおう」程度の大学だと君は言うんだな?
まあよかろう。
よかろう、いろんな解釈が可能っちゃ可能だからな。
生まれて初めて犯罪者になって混乱していた、てことで理解はできるわけだしな。
謙虚にいこう謙虚にいこうって心がけがその傲慢かつ皮肉な「いちおう」となってつい口をついたと。
非常事態だものな。
黙って学生証を出すよりは、何かしおらしい一言も必要だったものな。
許そう。
しかしどうなんだろう。
そのあとの展開を君がどの程度予想していたのかに依存するのだよ、許せる度は。
君の学生証に印刷つれている「普通名詞まがいの固有名詞を持つ」特定大学。
やがて来る盗撮全盛期にその大学がトイレ盗撮週刊誌記事の水源になるなんて、そんなプチ歴史的展開はこの時点じゃまだ君も予期できちゃおるまいが、予期する必要もなかったが、そこに在籍する大学院生であることが、さて……、
君の運命をどっちに決めそうだと感じていたのだろう。
私の経験を話そう。
知っていると思うが私は大学の教員を務めてきた。
この金妙塾でこんな役柄を務めていることからわかるとおり、世間様に知られるのが得策でないいわば下半身系のあれこれに手を出してきている。
ある人聞きの悪いイベントを主宰したときのことだ。
君のトイレ覗きとは違って違法行為ではないのだが、君のトイレ覗きよりも人聞きの悪いイベントだった。
それを写真週刊誌に嗅ぎつけられたのだ。
「印南さん、あなたのことが記事になりますよ」
その出版社の知り合いから記事の予稿コピーをもらったのだ。
彼は私を心配して、手を打ちましょうかと言ってくれてね。
むろん、嗅ぎつけられたと言っても、芸能人でも有名人でもない私などが記事としての価値を持つはずがない。
というのは甘いのですよ。わかるかな。
ちょうどそのとき私は、短期間、ある大学の非常勤講師を務めていたのだ。
いや、本務校は別の大学だったのだが、ある芸術大学にいたのだが、そこの助教授だったのだが、つまり本務としての肩書きがあったのだが、その予稿の中では私は「印南哲治○○大学講師」となっていた。
○○大学、がどこの大学だったかわかるだろう。
そうだよ。君の大学だよ。君がいちおう扱いした、日本でいちばん名を知られた大学ですよ。
そこでたった4日間の集中講義を受け持ったことがあって、その年は非常勤講師の肩書きもあったわけだよ。
だからだよ。だから記事になると踏んだらしいのだよ、その写真週刊誌は。
君がいちおう扱いした大学だから私もこの尋問でマルマルで通すがね、
「○○大学講師、黄金の陶酔境を超絶追求!」
とかなんとかだったかな、そんなような記事見出しでしたよ。
つまり、本務の大学の助教授より○○大学講師、の方が商業的価値が高いと判定されたわけですよ。
スキャンダル価値がね。
そうなのだよ。
なんとかその知人を通じて記事は差し止めてもらったのだがね。
違法行為でもないことを無断で記事にして名誉毀損で訴えられたらどうのこうのと、真っ当な論理でアピールしてくれたらしいのだが。
私の人生でそれなりの危機ではあったよ、あの一幕は。
というわけで君の一応大学は、その名を出すことは、針小棒大の効果をもたらす危険があるなんというかな、
呪文みたいなものなんだよ。モザイクみたいな。というか局部粘膜みたいな。
だから君の「いちおう」などという自己フォローは、何の足しにもならないどころか逆効果だったはずなのだよ。
本来はね。
しかし……だからこそ……
田舎だなあ、と思っただろう、君は。
日本という国はつくづく田舎なんだなあと。
■ あれは不思議でした。
いったい何が起きたんでしょう。
あるショッピングモールの多機能トイレから出たとき私、レジ袋の忘れ物に気づいて、取りに戻って。いや、トイレ出口から十歩も歩いてなかったんです。
出てから戻る二十歩の間に、先に入られてしまいましてね。普通のおばさんでしたね。おばさんと言っては悪いかな程度の年齢の、専業主婦っぽいイメージのひっつめの細身女性でした。
で、私待ってまして、女性は2分もせずに出てきました。
私は中に入って、
「うぷっ」とよろめきました。
尋常でないモノスゴイ臭いだったのです。
トイレならではの臭いで、だから決して意外な臭いではなかったのですが、なにしろ強烈すぎました。濃すぎました。生々しすぎました。
私がさっき入ってたときは全然匂わなかったのに。
ほんの2分程度ですよ。そんな短時間でこんな臭いを出せるものなのか。
個室1つのトイレですし。
多機能トイレなりの広さですから。臭いが籠もるわけでもないはずで。
女性が流した水洗がちょろちょろたなびいているだけ、べつに便器内も汚れてなければ、他に怪しいものもありません。
私は洗面台脇からレジ袋をとってヨロヨロと出ましたが、そう、ほんとヨロヨロでした。
トイレ内の数秒の間に、鼻の穴が三倍くらいに大きくなった感じ。
頭痛くなって涙が出てオナラも出ました。
臭いの原因があの女性の2分間にあったことは間違いないんですが、あんなことが可能でしょうか。
不潔な感じには程遠い人だったのに。
あの臭いの濃さをお伝えできたらこの淡泊な話が実は不思議だってことがわかってもらえるんですが……
たわいなく聞こえる話ですみません。聞こえと実際がこれほどかけ離れた話も珍しいかもしれません。ッて言ってわかってもらえるかなあ。まあ不思議だったんですから仕方ありませんよ。
鼻の穴の拡張はしばらく治らず、帰宅してすぐ下痢しましたよ、たっぷり三十分かけて。私。
(第74回 了)
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