偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 菅瀬慎次・貴美子兄妹は、根底たる兄妹という前提を変えないとすれば腹違いとでも称するのが物語的に了解可能性を増すかもしれない。しかしいかなる記録にも二人の腹違い性を示す証拠はない。実の兄妹であるという前提でおろち史およびすべてのおろち学分派が構成されていることを念頭に留めよう。
菅瀬慎次は妹貴美子がボトムとトップひと揃いの脱糞パフォーマンスを演じると聞き、それはもうボトム役を志願した。わが心の近親相姦的恋情がうすうす自覚されてしまった以上は、頭尾ジカつながり的恋心へ内臓直結決着をつけねば永久に自己欺瞞の振幅にぶれつづける、そんな二級人生に終わらざるをえないと悟ったのだ。むろんより世俗的には、印南哲治などという学者風情らしき尊大色ボケジジイに大切な妹の内臓初食いをむさぼられるのはたまらないと思っただけなのであるが(そもそも貴美子を実践の場へ目覚めさせた大御所と認知されている印南を慎次は憎悪していたのみならず、真の覚醒因は自分だと自負していたのだから)。
肛門直下で落下中を受け止めるじか食いバージョン(後半)と、いったん皿に出した疑似内臓を犬食いする皿上バージョン(前半)のうち、皿上バージョンを貴美子と慎次が担当することと定められた。じか食いバージョンは「隙アリ」(第12回参照)に近すぎて過去事情を一挙に巻き込む怖れを感じたためだろう。しかし、ここに競合者が現われた。
競合者が。
正統的恋愛感情をひっさげた競合者が。
正統も正統、純情も純情、
菅瀬貴美子に一目惚れした蔦崎公一が皿上糞パフォーマンスの食い役に名乗り出たとき、たしかに兄妹の庇護感情より血縁なき禁忌なき恋愛感情の方が優先されるべき社会的常識を弁えていたがゆえに、慎次は……蔦崎公一に……権利を譲ったのだった。
蔦崎は貴美子のクラスメート兼サークルメートと名乗っていた。それなりのトシであるうえ集中的な修業兼修行がたたって刹那とはいえでっぷり太り、とても学部生には見えないのであるが、今どきの学生のなんたらかんたらでまわりは違和感なく受け止めており、貴美子自身が蔦崎の曖昧な自己紹介を否定していなかったのだから、何かいい感じだったことは事実というか、とにかくスタンダードな恋人候補としてパフォーマンス現場では受け入れられていた。
菅瀬慎次は蔦崎のひと目好青年ぶりに(もちろん容貌レベルと性格クオリティとの反比例性への根拠なき偏見ゆえだが)この男なら許せる、愛妹の内臓を託せると思ったものの、納得したものの、蔦崎が前日前々日から今ひとつ自信なげに
「うーん、そりゃ大丈夫だと思うんですが……、うーん、だいじょうぶかなあ、うーん、貴美子さんのだから……、うーん……、そりゃやってやりますよ、やりたいんです、やります、やってやります、でも、いや、いやけっしてその……」
なにげにさりげにブルッているのを見てやきもきしていた。蔦崎のようなブ男に万が一吐き出されでもしたら、かわいい貴美子のプライドはどうなるのだと普通に気が気でなかったのだ。慎次は蔦崎のひたむきぶりに好印象を持ってはいたが、このような生理的問題に関しては、ブ男には譲れない。かりにイケメン系なら鼻につく嫌な男であっても万が一吐き出されようがたとえ妹糞のまずさだの臭さだのについてゆえなき悪態をつかれようがまだ許せるように思われたのはこれまた偏見だろうか。
いよいよ当日、パフォーマンスが始まると――
皿上に貴美子が順調に心をこめてひり出した大盛り黄土色がほどよく崩れかけた頃、脇に待機していた蔦崎がおもむろに画面に現われ、さらに皿上量を増やしたい貴美子尻がさらに数分間糞上に散発屁を吹きかけ続けた挙げ句ゆっくりと退いて画面外へ消え、貴美子尻と貴美子背に隠れていた蔦崎前面が現われ、はじめのうちこそ勢いよく恋情に任せて皿上顔突っ込み気味にもりもり食いだしたはよかったが、「……」途中でふと顔を上げて再び顔を近づけようとした瞬間、うぇ、という微かな顰め面を固着させてしまったのである。そのまま、突っ込むぞ、突っ込むぞと間合を計るばかりで、悲壮な気合が漂うばかりでいっこうに第二ラウンドが始まらない。カメラは回り続ける。
カメラの後ろで見ていた菅瀬慎次はついに業を煮やして、「エエエイだからいわんこっちゃない!」バッと飛び出して、蔦崎を画面から押しのけて「はっきりしろぉ! えええいおれがやる!」代役に躍り出たのである。愛妹の貴重大便が超醜男をすら硬直させるほど汚いものであるかのような映像がただただ尺を伸ばしてゆくのが耐えられなかったのは当然だ。まだこんもり残っている黄土色にばっと食らいついてエグエグ食い始めた。が、息継ぎのため顔を上げ、ゴクンと嚥下したとたん――
「……」先ほどの蔦崎と同じように、そう、今は画面外に突き飛ばされて敗北感にうちひしがれている惨めな恋人志願者と同じように――
ぐぐ、
と止まってしまったのである。いったん止まってしまうと糞食いほど困難な作業はない。これは経験者なら誰でもわかるとおり。気合が途切れたらもう終わり。結果は惨憺たる大嘔吐に帰着した。間一髪辛うじて画面外に逃れトイレに駆け込んだのだった。
そのあとを蔦崎公一が引き継いだのはとりあえずアッパレと言うほかない。使命感と恋情の燻りを振り絞った恋人志願者がのろのろ立ち上がって、すっかり冷えた黄土便を食いきって、それなりの映像を完結させたのだった。皿の底も舐め回したのだった。
いちおうアッパレだった。
舐め回し終え次第蔦崎公一もトイレに駆け込んだその慎次と入れ違い的敗北姿勢は、完結達成に免じても敗北姿勢たるを否めなかったのであるが。
市場に流通したこのパフォーマンス記録第一バージョン『排泄日記』には、最高度に巧みな編集が為されて菅瀬兄乱入による中断ハプニングは消去され、蔦崎公一ひとりがワンカットで菅瀬妹の黄金を苦悶顔で貪り食ったかのように感動構成されている。
かくして――
愛妹糞の風味に関する誤解曲解を印象づけかねない情けない恋人志願者蔦崎公一の失態をフォローしようとした菅瀬兄の近親騎士道精神は逆に、貴美子糞が超絶の不味さを、逃避的臭さを本当に帯びていたという事実のみ自ら裏づけ確証する役割を果たしてしまったのである。慎次は大ショックを受け、続いて行なわれた印南御大堂々大食糞の絶景を目の当たりにして、失踪する。慎次から金妙塾へ送られたEメールから引用しよう。
おれはだめなやつです。だめなやつだった。だめなやつというしかない。だめなやつはどうしようもない。だめなやつはどこまでいってもだめだ。だめといわれてもだめなものはだめ。いつまでもだめだ。どこまでもだめだ。こうまでもだめだ。こうもだめではきみこにあわせるかおがない。おれはだめにんげんです。おれがだめにんげんであるせいではじをかいてしまったきのどくなきみこにとうていふさわしくないだめなだめなだめなだめな、あにのしかくなどないだめだめだめにんげんですおれは。いなみせんせいのたべっぷりをみておれはますますじぶんのだめさかげんをおもいしりました。さらにのせてもたべきれなかったおれにくらべて、けつからぷすぷすおとをたてておちてくるほっかほかをじかにくちでうけとめてむしゃむしゃくってしまういなみせんせいはすごい。すごすぎます。らいしゅうのぱふぉーまんすではいなみせんせいがいよいよおれのきみこの、いやおれのなんていうしかくももうこのだめにんげんたるおれにはないわけなのでとにかくかわいいきみこのうんこをいよいよいなみせんせいがおたべになるひもちかいそうだ。きっといなみせんせいはどうどうとくいつくしてしまうんだろうな、かわいいきみこのを。けつからちょくせつに。じかに。うわあああああ。さらにきれいにのせてもくいきれなかったおれとはなんというちがいだろう。ああおれはもうきみこのちかくにいるしかくすらない。きみこがおれのかおにすわっておならぶっぱなしていたころがなつかしいなあ。あのころはよかったなあ。あのころはじゅんすいだったなあ。おならじだいはよかったなあ。うんこじだいにはいるとあにのじゅんじょうもつうじないよほんと。よのなかきびしいよ。うんこじたいにはおれはきみこのちかくにいるしかくすらない。このままおめおめとみなさんのなかにおれなんかがまじっていたりしたらきみこをけがすだけだ。もうだめだ。いなみせんせいすごすぎるし。もうだめだ。さようならみなさん。
(原文は数ヶ所のみ漢字が混入する全ひらがな文だったが、漢字部分は判読不能かつ誤記と思われるため、全ひらがな表記で引用した)。
このメールが痛ましいのは、愛妹の大便を食えなかった兄の懊悩ぶりが迫真的だからではない。そうではなくて、菅瀬慎次が二つの根本的な勘違いをしていることなのである。もしこれらの勘違いがなければ、慎次の懊悩はありきたりなダメ男の柄にもない笑うべき反省的絶望にとどまっていたことだろう。オセロやリア王の範例を見るまでもなく、錯誤に基づく嫉妬・悔恨・絶望ほど悲劇的なものはない。慎次は、
「皿に載せても食べきれなかった俺に比べて、ケツから落ちてくるのをじかに口で受けとめてむしゃむしゃ食ってしまう印南先生は凄い。凄すぎます」と書いている(次節に記すように蔦崎公一も同種の感慨を当日漏らしている)。失踪直前の言葉だから心底からのメッセージだろう。
しかしこれは完全なる誤解である。食糞の場合、肛門からのジカ食いよりも、皿にいったん載せてから食う方がよほど難しいのである。これは何も食糞に限らない。ちなみにあなたといま一緒に食事している彼氏あるいは彼女が噛み砕きつつある牛丼でもチラシ寿司でもラーメンでも焼鳥でも、
・いったん皿の上に吐き出したのを食べろ
・口移しで食べさせてもらえ
どちらがやりやすいかを想像裡に比較してみていただきたい。どちらだろうか?
菅瀬慎次の錯誤は、大便を特別な物質と思い込みすぎたところにある。製造直後の新鮮状態の方がむしろ食べやすく心理的抵抗感もないのは通常の食物並みに当然であるのに、肛門から落下直後に口中へ受け止めるという絵的に壮絶な(初心者には)光景に惑わされ、そちらの方が皿食いよりも「凄い」と勘違いしてしまったのである。もしも逆を志願していたら慎次の悲劇はなかったであろう。すなわち、貴美子と慎次がジカ食いバージョンを志願し、皿載せバージョンを印南に譲っていたとしたら、慎次の絶望は生じなかったはずである。(ただし皿載せバージョンはジカ食いに比べおろちマニアのリビドーにアピールしないため、印南がそれに応じたかどうかは疑問であり、また貴美子の方も、ジカ食いバージョンが次節に述べるように二尻シンクロ形式で行なうことが決定していたため、見知らぬ女と背中合わせ同時脱糞という通俗体勢を潔癖な彼女が肯んじたかどうかは疑問であるが)。
菅瀬慎次がはまり込んだもう一つの悲惨な錯覚は、これも「大便」の特別性を過大評価するあまり目眩まされ気づきそこねたことなのだが、彼の嘔吐が妹の大便に由来するとは限らなかったということだ。つまり、彼がむしゃむしゃ犬食いスタイルで食い始めたのは、もはや純生の貴美子糞とはいえず、蔦崎公一の唾液も少なからず混入したいわば「醜男の食いかけ糞」だったのだから。
これはきつい試練だ。
そんなものは食えなくて当然だ。
すなわち菅瀬慎次の潜在意識においては、決して貴美子発スカトール臭によってではなく、蔦崎公一の唇や鼻息の触れた直後という要因によってこそ嘔吐を催した可能性がきわめて高い。ところがウンコウンコと気をとられて慎次は、自分が貴美子の糞によって嘔吐してしまったと思い込んだのだ……。この錯誤は悲惨である。蔦崎の唾液が混入する前であったなら、慎次は悦楽とともに純糞貴美子便を食い尽くすことができたのではなかろうか。
なお慎次にあれほどの絶望を強いたもう一つの原因としては、最終的に吐き出してしまったとはいえ貴美子成分の幾分かが体内にとどまったことであろう。女性的本質成分エストロゲンを伴った繊維質も相当吸収されたものと思われる。固体成分の密度威力はてきめんで、気体だけを吸い込んでいた頃に比べわずか百秒で固体エキスが全血液中に溶け込みはじめ、妹貴美子への新たな愛おしみ感情を膨れ上がらせてしまったのである。むろんはじめから慎次が貴美子に対して相当大きな慈愛的慕情を注ぎ抱いていたことは事実であるが、失踪を余儀なくさせる絶望を喚起するほどの激愛は、妹糞を食いかけたがゆえの新興情緒であり、それほどの情念が自らにもともと宿っていたとの勘違いも重なっていることに(しかも失踪を決意しながらその情念に幾ばくかの誇りすら覚えていたことは事実であるということに)、菅瀬慎次のもう一つの微妙な悲劇の源があったというべきだろう。
ともあれ、菅瀬慎次は絶望して失踪し、蔦崎公一は失望して落ち込んだ。
なお、『排泄日記』『排泄遊戯Ⅱ』ではカットされていた慎次乱入シーン、あれを復元したふたり連続嘔吐顔アップ皿糞パフォーマンス完全版は、『艶尻に魅せられた男・連続拷食志願』のタイトルで、後に橘印から発売され好評を博した。とりわけシナリオを逸脱した交代劇、すなわち妹糞の品質を守るために不甲斐なき食い役醜男を鬼の形相で突き飛ばし奮然と入れ替わった菅瀬慎次登場の瞬間は〈変則拷問マニア〉たちの絶大な支持を博したといわれる。
(第59回 了)
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