偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 川延雅志の最愛の恋人は飯布芳恵である。大学入学直後に「政治思想史Ⅰ」の授業初回でたまたま隣に座った芳恵の印象は、
「この世にブスっているものだなぁ……!」
だった。川延の美意識は当時、一重瞼の細目が垂れ下がり、鼻筋が広く浅く、唇が鼻の頭よりも高く、不透明な皮の厚そうな吹き出物密なる色黒顔を、自動的に「醜い」と判定するモードになっていたのである。そのままほとんど芳恵に目を向けていなかった川延が一転して芳恵に参ってしまったのは、二年次ゴールデンウィーク明けの「政治思想史Ⅱ」開始時、初めて彼女が着席していない姿すなわち立位なるものを視界の隅に、そして焦点に見直したときだった。芳恵は上半身からは想像もつかぬきれいな脚の持ち主で、意外と背も高く、スカートを両手で腿裏に沿って前へ揃えながらそっと腰掛ける優雅な動作さに、くら、と川延は目眩がしたのである。ほとんどビザールと思っていた容貌に似合わぬ芳恵のこのスマートかつエレガントな動き、この不調和の落差、というより昇差が、そして一年以上もこの魅力に気づかなかった己が審美眼への驚きが、川延眼中の芳恵に最上級の美を付与したのである。
指示語流布以前の〈リアルギャップ萌え〉をおろち史に影響特定しうる最初期の例と言えよう。
川延雅志がいかにして芳恵と付き合うようになったかといういきさつは、この意表の感動が最初に位置していたことだけ確認しておけば、ひとまず不要だろう。二人の対称的クリティカルポイントは、二人とも卒業論文をまとめる日々を戦っていた夏休みのことである。卒業論文が近づいているというのは一つの象徴である。象徴というのは、付き合い始めて二年が経つ二人がまだ、たとえばキスの一度すらしていないということをふとした瞬間に各々の胸に印象づけるための背景こそ卒論追い込み系統脇目厳禁生活のムードであったりするからだ。むろん密室に二人で向き合ったこともなかった。喫茶店でアイスティーやパフェのグラス越しに手と手を微かに触れ合う以上に長時間素肌を接したことすらなかったのである。川延としては、芳恵の鈍げなこれは相変わらぬ醜貌とそのエレガントな立居振舞いとのアンバランスの魅力を、「やらない」「ふれない」「つっつかない」非核三原則遵守により輪郭強化することで自分の中の聖女伝説をまぶしくまぶしく育てようということだったろう。
(性欲……)
を感じていなかったわけではなかった証拠に、芳恵とのデート直後、駅の改札で別れると同時にペニス勃起を隠す努力からの解放感とともにその始末のため必ず川延がいそいそと韓国エステを訪れ毎回学生相応の安価三十分コースで
(一発抜いて……)
いたということが、東池袋韓国エステ『バンビ』の「5番さん」および歌舞伎町韓国エステ『サマルカンド』の「チェリーちゃん」の証言などで判明している(『サマルカンド』の「料金激安」「エステシャン激若」「マッサージ激うま」三拍子業界一の定評は確かだった、定評というものも正しいことってあるのだなあといった類の川延自身の手記も日記内に断片残存、エステティシャンの証言と合致している)。
さてクリティカルポイント。そんな川延雅志をどん底の底に突き落としたクリティカルポイント。川延がとっさに、まことに独創的な挙に出ることにより難を逃れた、しかしそれ以上に大きな犠牲を払ってしまったことが判明したクリティカルポイント。そう、乏しい暇をやりくりして清きデートを楽しんでいたまだほの明るい夕方、最も低級なタイプの……、いや、記述的な説明よりも、後に、おろち文化の転機をなすあの事件の最中に川延雅志が側近ホームレスらに語った「創世記」の核心部分を、複数の証言をもとに再構成しておこう。【正確を期するために、飯布芳恵の証言、中西孝一の証言、目撃者磯井伸明の投稿手記をも組み合わせ、「創世記」と整合する部分のみを複眼的再構成】
■ いわば自分の生き霊に殺されたというような。真相はもはや闇の中である……。
しかも、これは美沙子の耳には入らなかったが、その池見葦次の死の二週間後、池見痰ミサイルの直撃を受けた男子生徒が(被弾後、健康上の被害もなく元気に生活していたのだが)自宅近くの国道でトラックに轢かれて即死している。死体の肛門と脇腹から大量の極金色の大便が漏出していたという記録が残っており、この後をさらにたどってゆけばちょうど「呪怨」ばりに、おろち場に触れた人々に消化器系の呪いが次々に連鎖してゆく図を跡づけることができる、という予備調査報告も二、三にとどまらないが、どれも確証済みとは言いがたい。いずれにせよ一連のおろち死の跡を丹念にたどってゆけば、おろち史のいま一つまた二つほい三つの伝播線が発見できるかもしれないのだが、それら事故現場に少しでも触れた人間、そして彼らのその後の命運をすべて調査し尽くすことは、おろち路線での初動調査がなされていなかった以上今日となっては確証のしようがない……。
ああ、ああ、私のせいで……
池見葦次変死に強い責任を覚えつつ、悲しみと罪悪感と自己疑念のさなかに、姫里美沙子は蔦崎公一に出会ったのである。男はもうこりごり、人間そのものがもうこりごりという、いい加減飽和気味の厭世主義に溺れる退屈から逃れるため、かわいいかわいいの残響と徴候に辟易していたはずの自分に鞭打って、高校時代の友人らに誘われた「合コン」なる今さら的企画に参加してみたのである。そこで蔦崎公一と向かい合った。
その怪貌は、ひとめ、これまでに会ったどの男のレベルとも違うオーラを感じさせた。美沙子は参った。客観的に見れば、蔦崎公一の履歴上を滑っていった多くの凡俗女と同じように、単に蔦崎の外見上の外見に惑わされ本来ありもしないかもしれぬパワーを幻視または過大評価したに過ぎない美沙子だが、ただ彼女の場合は、人間を単純にルックスで判断したというよりも、自分のようなものが「かわいい」と外見査定される波動環境に育った余波の只中で「人をルックスで判断する」とはどういうことか、理解できなくなっており混乱していたと判ずるのが正着だろう。その混乱の渦のしかも人の生死を踏み越えたトラウマ的経験の直後に蔦崎公一的大醜男の顔面を突きつけられれば、ぽおっと憑かれてしまうのも無理ならぬ道理だ。しかも蔦崎の方は美沙子にのぼせたりはしなかった。客観的に美沙子のレベルを見定めているようだった。それがまた、美沙子には魅力だったのである。
二人の交際の様子は、すでに記述した。あのとおりだったのである。美沙子があのような挙に出たのは、ひとつには、蔦崎の体質に即決感応して、「食わせ体質」に急速変貌していたという事情が挙げられよう。そしてもう一つ、美沙子内在的な要因として、池見葦次の惨死は
(私のせいなんかじゃない……)
という正当化を果たしたい通俗衝動に常に駆られていたということがある。蔦崎は、
(私のを誰が直接食べたって大丈夫……)
を美沙子が確認する試験台に使われていたのである。蔦崎公一という男は、姫里美沙子にとって、意識的な恋愛目的であると同時に半ば無意識的な実験手段でもあったわけで、この二重性が、
◇香坂美穂×蔦崎公一
◇姫里美沙子×池見葦次
という二大岸壁の合間に咲いた元来無理筋たすき対応もしくは擬似恋愛もしくは代替恋愛としてただでさえ不毛な二人の関係に、さらに空虚寂寞たる陰翳を添えたのである。ロールキャベツ完食の日からほどなくして蔦崎公一と姫里美沙子は会わなくなり、電話もまばらとなり、三ヵ月後には全く断絶していた。
興味深いことにこの当時の蔦崎の人生、つまり香坂美穂との交際絶頂時には、美沙子体管末端発ロケット砲と並ぶ、後の人体芸術の原点をなす曲芸的光景が、別のルートで展開していたのである。その蔦崎公一極めつけの、やや地味ではあるが、地味だからこそ蔦崎体質的には極めつけの体験をここで紹介しておかねばならない。
■ 僕が通っていた大学の男子トイレは個室の下から女子トイレを覗ける構造になっており、そういう構造が放置されていることが災いの元と察するべきところ、いつものように個室にこもっていると1時半すぎ隣接個室に女性が入り、トイレットペーパーの有無を調べるかさかさ音がしたので、大を予感する女性はたいていこの動作をすると経験上知っていた僕は鏡持つ手汗ばみ震えるほどに、紅潮した白いお尻が鏡に映るやいなや赤黒肛門みるみる拡張、拡張、引っ張ったあげく焦茶色の太い太い太ーい大便ゆーっくり鏡に一本に、仰天極太の一本大便、長さの証拠に鏡面を一本貫通したまま太さ変えずに焦茶から茶色、茶色から黄色に、黄色地に白い粒々依然太さ変えずにブブブブッと音を立て鏡から突如消え、かぐわしい臭気こちらへ漂い、肛門をもむように念入りに拭いて出て行ったので追って出て見ると排便主、庶務課の二重瞼のきれいな名前知らぬもよく見る事務職員だったのですごく得した気になり、同日3時過ぎ今度は昨年付き合い始めて最近ますます超いい雰囲気のマドカであることその靴でわかった白尻がぬっと同じ個室に現われたので僕、今日はついてるッとビンビンに勃起しつつ鏡かざしたところじっとしたままオシッコも何も出ず、三分間ほど経過し、長い、長すぎるヤバイ、気づかれたかと鏡を引っ込めようと思った瞬間いきなり「ボトボトボトッ」的土砂崩れのような粘液塊がたっぷりいっせいに肛門から落ち、肛門現場は無音で便器底に積もった質量音だけが虚しく響いたほんの半秒の後またしばらく静止していたあと、マドカったら肛門さっと拭いて出て行ってしまったこの呆気なさ。(ああ……)肩透かしというかスカシ屁並みというか、たった一発一瞬ボトボト劇の風情のなさでは僕の恋も一瞬にして褪め、名も知らぬ事務職員さんの生々しい大光景との対比があまりに急勾配だったせいというか僕たるもの二度とマドカとのお付き合いを這い登る気が失せ、その後しきりに首を傾げ途方に暮れるマドカを無視して一方的に別れました。マドカとは初めてヤッた直後だったので……初めてをいただいた直後だったので……やり逃げと思われたに違いない。そういう男と思われたに違いない。でも狙っていたつもりなんかなかった僕。あくまで物質の格差に萎えてしまっただけの僕。人間の哀しさってものをこの上なく知った出来事だった僕。
やり逃げ男だと思われただろうなというのが悔やまれる僕。
マドカ尻が降りてきたときの勃起具合からして決してやり逃げモードなんかじゃなかったのに、あんな土砂崩れでさえなかったら、事務職員さんに勝ってさえくれていればやり逃げ的結果にならずにすんだものを的僕。
体目当ての通俗やり逃げ男と思われるくらいなら、覗き野郎をカミングアウトして説明に努めた方がましだったかな・彼女を傷つけずにすんだかな的僕。今にして思えば。
って人間の哀しさを一番知った出来事だったこの時の僕。
(第52回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■