偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ おろち批判への反論……。主に六方向の反論……。
ウンコには怖れるべきとされている要素はない、という事実的反論、
怖れるべき要素があることを認めた上で拒否反応は不適切である、という評価的反論、
拒否反応が適切であることを認めた上でそのような拒否反応は善ではなく悪である、したがって改めるべしという価値論的反論、
そのような拒否反応は悪ではなく善である、したがって善なる反応をたえず引き起こすウンコ文化肯定すべし、という認識論的反論、
拒否反応の善悪に関わらずウンコが悪であることを認めた上で悪こそ今必要とされている、という神学的反論。
さらに第六の反論は最も古典的でありながら他の五反論が出尽くした後にメディアに登場した。すなわち、百歩譲って、神学的反論は間違っていて悪はやはり悪である限り不要であるとしても、現実の悪と、悪の記述との混同は不合理であり、非難されるべしとする芸術的反論(その古典的具体例として、悪を執拗に描いたシェイクスピアやドストエフスキーの作品それ自体が悪とは言えない、むしろ善であるかもしれないという「悲劇のパラドクス」「醜のパラドクス」等を美学文献にあたって研究されたい)。おろち文化の大半はおろち実践者の提示する美術や映像、パフォーマンスなどの「おろちイメージ」から成っており、市井の個々人が塗糞や食糞を奨励されたり義務づけられたりといった風潮は少なくともおろち黎明期から初期にかけては存在しなかったのだからこの芸術的反論も少なくとも当初は妥当性を有していたといえる。
いずれにしても、主として六種に分派したおろち文化擁護者たちは、おろち文化批判者に対して論陣を張るというよりも、擁護者どうしの間でこそ激しい論争を演じたのである。これは、もはや論ぜずしておろち擁護陣の勝利、おろち批判陣の敗北を物語っていたといえよう(「最も完璧な勝利は、戦う必要を認めないことである。しかも否定するまでもなく自然に天然に」)。
このおろち文化擁護論争の中心人物たちが、論争を予期していたかのようなウォーミングアップ的嚆矢としていまや位置づけられもするあの議論を、おろち黎明期の若き日に真摯に展開していたこと、そう、ミレニアム初頭、インターネット上2ちゃんねるのスレッドで某女性アイドルグループのメンバー某を巡って長期にわたり戦わされていた「梨華ってウンコするの?」論争を思い出そう。この論争は、2006年02月26日の時点で「パート240 を超えている」と報告されており、その後の展開具合は不明である。おろち批判に対する六反論の間での熾烈な対立を、おろち的にしてより特殊な狭い一問題に応用したものと言えるだろう。(以下、http://natto.2ch.net/test/read.cgi?bbs=morning&key=997813606&st=8&to=8:2001/08/15(水) 03:27 より論争派閥を図式化した樹形図を引用する。なおおろち元年以降の検証成果をふまえた一部分以上の加筆・修正を施してある)
ウンコしないよ派→
肛門ないよ派(狂信派)
ピンク色の綺麗な肛門じゃない穴があるよ派(エステ派)
肛門あるよ派→肛門からは何も出ないよ派(消極的耽美派)
何か出るよ派→
出るものはウンコではないよ派(メルヘン派)
ウンコだよ派→
───肛門から出るウンコは梨華のウンコではないよ派(過激派)
梨華のウンコだよ派→
───肛門から梨華のウンコ出してるときそいつは梨華ではないよ派(オカルト派)
梨華だよ派→
───肛門から梨華のウンコ出してる梨華は「ウンコしてる」のではないよ派(原理派)
のだよ派→
───そりゃあ「ウンコしてる」ことは時たまあるだろうがそれは一般的に「梨華ってウンコする」ってこととは違うよ派(唯名派)
同じだよ派→
───「梨華ってウンコする」がたとえ真実でも「梨華ってウンコするの?」と問われたら否定すべきだ派(実践派)
否定できないよ派→
───否定できないから「梨華ってウンコするの?」と問われたら逃げろ派(スキゾ派)
立ち向かえ派→
───話を合わせておいて「え? 真希のことじゃなかったの? オレ間違えてたワー!」とごまかせ派(ポストモダン派)
rika-makiは聞き違えようがないよ苦しいよ、そりゃ逃げてるうちだよ派→
───立ち向かうってのは「梨華ってウンコするの?」なんて聞かれたら黙って相手をぶん殴るってことだ派(武闘派)
殴っちゃ逆効果だよなんとかファンクラブの応援も借りて梨華の魅力で説得できないかな派→
───魅力とウンコは関係ないのでは派(目から鱗派)
どっちにしても説得はやっぱ限界あるかなァ例えば飯島愛命とか神取忍命みたいな異次元の人間相手に対しては。むしろ買収した方がいいんじゃ……派(北風と太陽派)
金ねえよ、説得できなきゃ穏便虚心に認めようじゃないか派(サイエンス派)=ウンコするよ派
ウンコするよ派→
人並み以上に大量にするよ、一緒にオナラもいっぱい出すよ派(積極的耽美派)
人並み以上に大量にするよ、オナラはどうでもいいよ派(古典派)
人並みだよ派(傍観派)
人並み以下に決まってるだろ派→ただし匂いは人並み以上に臭いよ派(マニア派)
人並みだよ派(静観派)
人並み以下に決まってるでしょ派→
───色は人並み以上に濃いよ派(ビジュアル派)
人並みというか時と場合によるよ派(達観派)
人並みより薄いに決まってるでしょ派→
───まさか黄金色に輝いてるなんて言うんじゃないだろうな派(修正派)
輝いてるに決まってるでしょ派→
───ほんとの色でなくても心で輝いてるよ派(自己完結派)
ほんとの黄金色に輝いてるに決まってるでしょ派→
───まさか芳香まで放つなどとは言うまいな派(アンチファンタジー派)
梨華のウンコならどんな匂いだって芳香なんですっ派→
───まさか美味であるなどとまでは言えまいな派(日和見派)
梨華のウンコならどんな味だって美味なんですっ派→
───でも食べるのはちょっとねえ派(懐疑派)
食べたいに決まってるでしょっ派→
───じゃあホントに食べるんだな。ほれ段取りつけてやったぞ、世の中金でけっこうどうにでもなるんだよ。え? え? えーと、あのう、そのう、いやあ、あのときはつまりそのう派(R型覚醒派)
うわぁーいほんとですかー派→
───えっなんだよ梨華本人じゃないのかよーそっくりさんのなんかやだよ芳香美味糞は梨華本人のだけなんだよ派(お宝鑑定派)
えっなんだよ梨華本人じゃないのかよーでもウンコも梨華そっくりってことならOKですけどねしかしそれ証明できないでしょ派(ブランド派)
なあんだそっくりさんですかでもまあいいやたとえ本人でなくても梨華でさえあればそのウンコは宝物ですいっただっきまーす派→
───あ~えかったえかった梨華ウンコは期待通り期待以上の風味格調だったわい派(エクスタシー派もしくはプラシーボ派)
う、む、ぐ、ぐ、ぐ……、むふ、むふふー。ふ。梨華ウンコの匂いはいつでも芳香と呼ぶし味は美味と呼ぶんだよ派(1+1=2派)
う、む、ぐ、ぐ、ぐ……、むふ、むふふー。ふ。梨華ウンコの匂いは決して臭いと呼ばないし味は不味いと呼ばないよ派(消極的1+1=2派)
オ、オエッ、ブ、ブホホーッゲボッ! ペッペッペッペッ! 臭いッ! ゲボゲハゴホオエ! 汚いッ! 不味いッ! オエエッ! ふざけるなアぁッ、た、たとえ本人じゃないからってリ、リ、リ、梨華がこんなとんでもねーウンコするかぁぁぁっ、ゲボオッペッペッペッ派→
───あ~あ、梨華のウンコも所詮はウンコだったのか……派(解脱派)
これは何かの間違いだ、オレは何か錯覚か幻覚に陥っているに違いない派→
───幻覚から覚めるまで挑戦しなきゃ、よぉしもう一丁派(高田延彦派)
幻覚に負けちゃおしまいだ、潔くリタイアします派(船木誠勝派)
幻覚から覚めるまで幻覚で対抗しよう派(桜庭和志派)→
───幻覚から覚めなくてもいい派(シュールアート派)
覚めたくない派(M型覚醒派)
覚めなきゃ派→
───覚めぬなら殺してしまえ我に梨華派(心中派)
覚めぬなら覚むまで待とう梨華糞夢派(ドラッグ派)
覚めぬなら覚ましてみしょう梨華糞夢派→
───念岩をも通します派(マッチョ派)
念の波動が仮の現実を剥がします派(チャネリング派)
覚めても覚めても幻覚でしかないならばすでに完全に醒めてるってことではないか、これが現実だ派(バークリー僧正派)*注1
うーむ梨華ってウンコするかなどと論じ始めたせいで幻覚に囚われたわけだから、論じたこと自体が間違いだった、つうか幻覚ですらあったに違いない、リタイアしよっと派(ノーカウント派)*注2
うーむ梨華ってウンコするよなどと信じたせいで幻覚に囚われたわけだから、信じたこと自体が間違いだった、つうか幻覚ですらあったに違いない、信ずるのやめよっと派(改宗派)→
───「ウンコするって信じない」ってのは、「ウンコしないって信ずる」こととは違うよ派(保身派もしくは未練派もしくはリベンジ派)
同じだよ派(パラノ派もしくは排中律派)=ウンコしないよ派
*注1 解脱派との違いは? 解脱派が〈梨華〉への悟りを開いたのに対し、バークリー僧正派は〈現実〉への悟りを開いたところにある。
*注2 船木誠勝派との違いは? 船木誠勝派は信じたことを後悔していないのに対し、ノーカウント派は信じたこと自体をなかったことにしたがっている点である。また、船木誠勝派の敗北感は梨華糞美味芳香説だけに関するのに対し、ノーカウント派の挫折は梨華ってウンコするよ説全体に関わっていることにも注意せよ。
■ 「滑りやすい坂戦法」を説明せよ。
タブー性の少ない、もしくは皆無のプログラムから、一段階においては微小な差異を設けながら、次第にタブー性の大きな、ときとして芸術的なプログラムへと昇華させて行く戦法。無意識的には、暴力アニメ、残虐アニメ。意識的には、ヘア出しスカトロビデオにみられた手法。
「滑りやすい坂戦法」を歴史的経過を追って解説せよ。
すべては、仕切壁一つ隔てた女湯と男湯を使った視聴者参加番組『愛を確かめたい』から始まった。二十代から五十代までの夫婦十五組をいっぺんに、温泉の男湯・女湯に分けて入浴させる。三十人がおおかたいい湯に堪能できた頃、女湯の方からひとりの女性に、「出るよー!」と叫んで脱衣室に出てもらう。そして、さあ、いまのがあなたの奥さんだと思う人、と男湯に問う。
妻の声の識別には自信を持つ愛妻家、熱々新婚夫揃い。間違いなくおれの妻、と名乗り出た夫にも脱衣室に来てもらい、仕切カーテンを開ける。妻ははたしてそこにわが夫の姿を見るか?
バスタオル巻いたはたちの新妻が、ステテコ一枚で禿頭から湯気を立ちのぼらせている五十男と対面したり、貫禄充分、ピンクの火照りをうちわで扇ぐ太身の農家のおばさまの前に、タオルで前を隠した茶髪のヤンキーが痩身をさらしていたりしたときの女側の反応「あはははは」「いない!」「あっの馬鹿亭主!」が売り物で、たまに的中したカップルがあると、スタッフ総出で祝福する光景が好評だった。
「出るよー!」という言い方は、そのつど変更された。「出るねー!」になったり、「出ますよー!」に変えられたり、「行くよー!」に変えられたりした。事前の〈声の練習〉つまり暗号合わせによって的中を図るカップルが続出したためである。なにせ的中した愛情カップルには十万円が贈呈されたのだから。しかしかけ声をどう変更しても、語尾を裏返したり引き延ばしたり跳ねたりという、どのかけ声にも共通に使える一般的特徴を用いた符丁などで、事前の練習は防げなかった。事前の練習を防ぐことが重要なのは、テレビ局側が賞金をケチったためではなかった。番組の趣旨に反してしまうのである。人為的な取り決めに従うのではなく、日常の自然な声による判別こそが、真の愛の評価をもたらすという趣旨だったのだからだ。
そこで『愛を確かめたい』は一年後にリニューアルした。温泉に定められていた舞台が、あらゆる種類のシチュエーションへと週替りで広がっていったのだ。大衆のキワモノ趣味に幾分無造作に寄り添うことが世紀末的かつ世紀頭的トレンドであるとのコンセプトのもと、あるときは靴のにおいで、あるときは目や耳などの部分写真で、あるときは髪の毛や切った爪を見て我がパートナー所属たるものを当てるというシステムへ次々に変化した(常に夫が妻のアイデンティティを言い当てるという形式であり、その逆は実行されなかったところに男女不均衡の深層を商業的都合で言い当てていて宜なるかな。たしか世紀末のTBSテレビ視聴者参加番組『しあわせ家族計画』でも常に一週間かけて難ゲームに挑戦するのはお母さんではなくお父さんだったことを想起せよ。視聴率マーケティング基準が自然にフェミニズム各方面への暗黙の釘を刺し続けているのがおろち紀元前の天然風土だった)。
(第50回 了)
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* 『偏態パズル』は毎月16日と29日に更新されます。
■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■