小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第028回)をアップしましたぁ。ちょいと遅れましたが、小原さんのノートパソコンの、ハードディスクがぶっ壊れたことが理由のやうです。買って3年目であまり外には持ち出さなかったそうですから、初期不良に近いHDクラッシュですね。不肖・石川もパソとの付き合いは長いですが、ソフトをいくらいじっても、トロトロとしか動作しなくなったら要注意です。HDがヤバイと感じたら、早くお亡くなりになってもらふのが一番です。問題がソフトかハードなのか、わからないと手の打ちようがなひからです。一般ユーザーの方は、通電したままにしておくと昇天が早まりますよ(爆)。
今回は『源氏物語』第37帖『横笛』巻の読解です。柏木は亡くなったのですが、それによって源氏の妻・女三宮と密通して子供をもうけたといふ秘密が消えるわけではありません。むしろ秘密は暗黙のうちに共有され、現実に影響を与えてゆく。それは『源氏物語』の場合、夢の共有やお告げといふ形を取ります。小原さんはそれを、『「存在」は・・・他人の無意識に影響を与える。・・・それはあたかも源氏と夕霧の父子の、あ・うんの呼吸の密やかな通じ合いのようでもあります。・・・源氏も、夕霧の見た夢が夕霧自身の疑念、それについての夕霧と柏木との無意識レベルでの了解から生じた、と感じている』と書いておられます。秘密を含む人間存在の無意識が、他者の無意識(夢)として共有されるわけです。
この無意識(の共有)が現実世界(小説というメタ現実世界といふ意味ですが)を構築してゆく仕組みを、小原さんはパトリシア・ハイスミスの作品からも説明しておられます。言わずと知れた、世界最高のサスペンス作家の一人です。ハイスミスは普通の作家ではありません。たとえば『愛しすぎた男』の主人公は今で言うストーカーです。片思いの女性を殺したりはしませんが、彼は幻想の中で彼女とに生きる。新居を構え、食事をともにする。彼は最後に自殺するわけですが、その瞬間、最愛の女性が天使のように宙に浮かぶ。極度にグロテスクでとろけるように甘美な描写です。小原さんは『私たちはどのようにして、いかなるきっかけで自らの無意識へと降りてゆくのか。その道行きこそが、パトリシア・ハイスミスの「物語」である』と批評しておられます。まったくその通りですね。
小原さんはまた、『文学で必要とされ、試される “ 観念 ” の強度とは、その直 “観” 認識の深さと鋭さであると同時に、“念” の強さそのものでもあります。源氏物語に出てくる「夢」は死者にも繋がる生者たちの “念” であり、ハイスミス作品の登場人物の “念” は別の世界を創り出そうとする。それはいずれもこの世を超える奇跡を信じ、見ようとするものに違いありません』とも批評しておられます。これもその通り。文学作品の思想は論理の形を取りません。個々には矛盾して見える出来事を、根底の位相でつなく無意識的思想です。現実の上位審級(下位審級と言っても同じですが)にあるものであり、作品化されたそれは、曖昧な現実よりもずっと強固で美しいものです。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第028回) ■