劇団ひとりと大泉洋の対談。確かに「あるようでない」取り合わせだ、そういえば。なぜそうなのかと言うと、なんとなくキャラが被る気がするのかもしれない。しかし、よく見れば全然違う。被るのはキャラでなく、立ち位置か。どちらもピンだ。ひとり、というぐらいだし、大泉洋はやたら目立つ。
で、大方の視聴者は、ひとり派か大泉派に分かれるのではないか、と察せられる。文学関係者はだいたい、大泉派である。まず見ていて面白い。なんとなく見てしまう。これは文学にはない魅力だ。なおかつ文学臭がない。ないところに、むしろ知性を感じる。うん。
内向きか外向きか、という分け方もできる。大泉洋は外向きだ、無論。そしてうるさい。このうるささは、テレビやラジオのものだ。しかしたいていの出演者は、自らのうるささに自覚がない。深い意味のあるコメントをしている、ぐらいに思っている。テレビで! もっとも密やかにしゃべる大学教授が、妙に耳をそばだてさせて人気になったということもあったし、ネガティブなモデルというのもいるから、内向きを演出するというやり方もあるっちゃある。
あるっちゃあるが、我々のような物書きからしたら、これほど胡散臭いものはない。内面のある人間は、少なくとも積極的にはテレビには出るまい。芸能関係者をバカにしているのではなく、そもそもテレビの現場というものは、中途半端に内面なんぞをちらつかせたところで、蹴散らされるのがオチだ。よほどの碩学にでもなって平身低頭で迎えられるか、あるいは蹴散らされるまま、数字とノリだけで渡っていくよりほかない。
お笑いやバラエティー番組を構成する「作家」と呼ばれる人々には、だから純文学「作家」や、大衆小説「作家」のような内面はなく、テレビの現場のそのときどきの状況に対する「反応」がある。その反応にはもちろん、それぞれに個性があり、才能の有無もあるだろう。それは確かに “ 子供 ”たちの有り様に似ている。彼らは書斎にこもる成熟した「作家」ではなく、保育所に放り込まれ、状況に応じてさまざまに反応をみせるのである。
保育士ならぬスタッフは、岡目八目でその個性や将来性、才能の有無を見てとるわけである。が、当然ながらそれはテレビという業界における将来性だ。年長組ともなれば、「反応」を卒業して「内面」を獲得しようとするが、たとえばオムニバス形式の小説といったもので、「反応」を擬似文学的に編集してみせるに過ぎないことが多い。
本当に内面を有している者は、最初から持っているのである。放送「作家」が芽生えさせた内面は、テレビ用のものである。そんな内面性に驚いてみせることもまた、テレビのものだ。本当に驚くべきは、ドラマ脚本家の故・向田邦子など、内面を持ちながら、あのテレビ業界で生き延びたわずかな例外に対してだろう。
だから私たちは、あくまで “ 子供 ” で居続けようとする者、あくまで外面的であり続けようとする者たちを、はらはらしながら観ずにはおられない。それはあたかもイジメの危機を払い、それをリアルなものにすまいと、わーわーうるさくし続ける子供のようだ。テレビに見るべきものは、その切羽詰まった危機感以外、おそらくはない。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■