偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 逮捕前日の記録はこうである。
覗きを相手に気づかれぬよういかに周到にやっている私であることか。
気づかれなければ覗きは誰にも迷惑をかけない。
誰にも迷惑をかけない行為は、悪くない。
したがって、私のしている覗きは悪くない。
この三段・四段論法が記された翌日逮捕とは皮肉としか言いようがない。留置所代わりの病室で村坂は次の一節を書き足している。
ふむ。事実として迷惑をかけなければよいとな。
では、遠くの人の頭の脇すれすれを狙って、ライフル銃を撃つ遊びも悪くないというわけだな? 絶対命中させぬよう細心の注意を払って、しかし万が一殺人を犯してしまうのではないかとドキドキしながらそのスリルがたまらぬと、なるべくスレスレに、当たりそうで当たらぬニアミスを狙うそのライフル遊びも悪くないと? 事実として相手に気づかれず誰も殺さなければな。
このノートは、おろち元年に村坂誠司著『覗きのメタエシクス』として金妙書房から出版された。「被害者なき犯罪」としての覗きや売春に関する擁護論を、被害者の実在より実在可能性に視点を据えて反駁した「実害可能性理論」の嚆矢として注目に値する。
村坂誠司の供述書はおろち史に関してそれなくしては判明しなかったであろう多くのことをも語っている。次の供述を読もう。
二十年ほど前からリューマチと腰痛に悩まされとりましてなぁ。ほとんど走ることなどできなかったんですわ。でまあ、うじうじした欲求不満を解消せなならんというか衝動に任せてまぁ、ああいうことをやっとったわけですがね。始めは男のを覗くんが目的でした。小便しとる若者の珍宝を横からですな。ずいぶんうまくやっとったですが、池袋のトイレで一度背後から声かけられましてねえ。「なにをしてるんだ」と。次の瞬間たまげたのなんのって。脱兎のごとく走って逃げ出しとるじゃありませんか、気がつくと私ゃ。びっくりしましたね、自分の脚力に。歩くんもおぼつかなかった俺の脚。走れるじゃないかと有頂天になってね、まあ、目星をつけたイイ男の後についてトイレ入るときには足取りが自由になってることにゃ以前から気づいてはおったんですがね。この脱兎事件で確信しましてな、足腰のリハビリも兼ねてというか、「ひたすら見とがめられ逃げ出したいがために」男子トイレ覗きにのめりこんでいったわけですな、あはははは。いやあ、何度睨まれ怒鳴られて気分よく走れたことか。しかしやがてねえ、望みの状況にはそれからも何度か恵まれはしたものの、いやぁ走れました走れました、それにしても開けっぴろげの空間でっちゅうかただ覗き込んでるだけじゃ罪悪感ちゅうもんが次第に薄れてゆきましてなあ。そんなに必死に逃げんでも、男なんてものは覗かれたくらいじゃさほど動じんだろうし。こんな爺い捕まえてつるし上げようっちゅう頼もしい男子もおらんだろうしさ。だんだん逃げるのも白けてきてね。でそのうち真剣に逃走せにゃならんシチュエーションへまぁ自分を追い込むべくっちゅうか、うん、個室でウンコ中の男に外からわざと気づかれやすいように覗き込んでみたりだな。えへへへ。だけんど意気地ない青年どもばかりで追っかけちゃこなかったもんな、まったく。でまあいよいよ本気っちゅうかほんとに逃走の要ありって方へ進出していったものよ。
ホントに逃げにゃあかん方へな。
だな。女子トイレ覗きに進んでいったってわけなのさ。そう。女は男ほど寛容じゃなかろうよ、どんな分野でもな。とくにこの分野ではな。女子トイレならいくら爺いだからっつっても許されんだろうよ。見つかりゃ罰せられるだろうよ。逃走にも必死力が溢れようちうものよ。リハビリが捗ろうちうものよ。いや、しかし短距離はともかく長距離になりがちな本気逃走はしんどいでな。女子トイレ覗きは見つからんように本気で気をつけたんだが。そ、覗きから走ることへ、走ることから覗きそのものへと目的がチェンジしてったわけよ、この仕組み、わかりる?
(定型ドラマ調老人口調が濃いめに感じられるとしたら、村坂本人の不明瞭な滑舌をシナリオライター上がりのテープライターが適当に加筆したものと思われる)
実際、逮捕時の村坂は、百メートル12秒程度の脚力を有する警備員三十九歳(元拓殖大卓球部)の追跡を、最後には追いつかれたとはいえおよそ百メートルにわたって振り切っていたのである。肩と腰に傷を負いながらだ。ピンホールカメラとリモコン装置による無人盗撮の現代、正々堂々生身で忍び込んでナマ覗きを根気強く、しかも弱点たる腰と膝への負担をものともせず屈みこんで老眼の焦点合わせながらという精進忍耐に、同情共感を寄せるのみならず感動すら表明した関係者も少なくなく、ただし常習犯ということで名目上一日拘留扱い、実質上入院療養となった。
この供述から、村坂誠司こそ、袖村茂明が以前目撃した「青吸爺」であったことはほぼ間違いない(第3回)。「背後から声かけられましてねえ。次の瞬間たまげたのなんのって。脱兎のごとく……」という最初のそれがたぶん、袖村茂明が声をかけたあれであろう。桑田康介が「金妙塾の中で村坂さんが一番すごい」と嘆じていたとも伝えられつつ、その感服が村坂のいかなる要素、活動、性癖に由来するものなのかは今日に至るまで正確には突き止められていないが、男子便所覗きという地味な行為が新世紀中学生の感性に却ってピッタリきたのだと推察される。金妙塾で桑田康介と親しく話をしていた頃すでに村坂は女子トイレに五、六回忍び込みはじめていたようだが、いずれにせよ女子便所覗きの素朴エロス領野よりも男子便所覗きの素朴悪戯的領野の方が、思春期初期らしい半熟悦楽観に反動的フィット感をもたらしたということは考えられる。
(第38回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■