偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 無間地獄なるものは細片化して潜み続けるものである。細分地獄、螺旋地獄……
スカトロフェティシズム(スカフェチ)がマイナー専門化を促し、正統『お尻倶楽部』(尻・アヌス・糞)路線と亡き『お尻倶楽部Jr.』(糞抜き)追随路線との棲み分けがさらに細分化された。①フィジカルフェチ(尻の形、尻毛、皮膚など)②ソフトフェチ(咳、掻きなどの行動)③ナチュラルフェチ(尻の膨らみパターン、紅潮度などの肉体変化)に大分類され、さらにたとえばフィジカルフェチの中にも尻毛そのものの朧輪郭に興奮するピュア派、尻毛をかき分けて糞が伸びてくるさまに興奮するダイナミズム派、尻毛が屁になびく微視細動がたまらぬというディテール派などに細分化された。どれが最も高級かという論戦がマニア誌上および電子掲示板で戦わされた。その分類にさらに〔A.糞輪郭派 B.糞断面派 C.アヌスアップ派 E.アヌス・糞擦れ合い派 F.双丘質感派 G.尾根伝い雫派 H.捲れ粘膜派……等々〕が組み合わされてスカフェチの細分化はさらに昂進した(たとえばアヌスアップ派×ナチュラルフェチなら純正アナル派、尾根伝い雫派×ソフトフェチならバーチャル波動派……等々、等々、等々、まったくもう)。
こうしたスカトロ文化過剰興隆の震源地は、当時は同定できていなかったようだが現在振り返ってみるならばやはり間違いなく印南金妙塾&うかれメ、そして橘印ビデオシリーズであると断定することができる。うかれメは依然として非公開の試作品を演じては省み小出しに放出し演じては省み小出しに放出しを繰り返しているだけだったし(カメラは一貫して橘菜緒海が担当していたが映像力は橘印盗撮ビデオの比ではなかった)、金妙塾はうかれメの篤実な成果を刻々参照しつつ淡々とほとんどアカデミックな黄金MS哲学の洗練に集中していたが、その成果の一部を散発的に石丸φおよび深筋忠征がアナスカ雑誌のコラムに執筆することによって、金妙塾-うかれメ系統の黄金人文学は着実に、水源を公に意識されることなくマニアの間に浸透していったのである。
橘印を筆頭とするスカトロビデオの成功に便乗して、橘印路線を詐称するやらせビデオが出回った。浣腸液や浣腸空気を仕込んで大下痢・大放屁を連発するたぐいにとどまらず、排便中わざと意味ありげに溜息をつかせてみたり、げっぷをさせてみたり、わざと便器縁に液体をこぼしたり固形をはみ出させたりするやり口が横行した。本下痢と浣腸下痢、真屁と仕込み屁との区別は、目の肥えたマニアの目には一目瞭然だったので粗悪なヤラセ製品は良心的な小売店によってすぐに自主摘発され、リアル市場からもネット市場からも姿を消して動画サイトにだけ断片的痕跡がとどまることとなったが、溜息、呟き、咳、痰吐き、鼻かみ、尻肉ひくつかせ、放尿寸断、等の人為疑惑については、その微妙さゆえ確証を感ずるのが熟練マニアの目によっても困難を極めたのである。スカビデオマニアはあの三谷-袖村経営「OLローントイレ」=「公衆トイレ式クリニック」の顧客とかなり重なっており、あのときのヤラセ事件では男尻を窃視しながらの勃起射精を図らずも強いられていたという一刻も早く忘れたいトラウマを疼かせている者らであるだけに、やらせモノ拒否のアレルギー反応は過去のいつにもまして激しく、それが魔女狩り的空気をも醸し出してしまったのである。すなわちやらせビデオ跳梁の最大の文化的ダメージは、真正ビデオまでがヤラセ疑惑の目で見られてしまう傾向を生んだことだった。かの名作『トイレなんかこわくない!~ママといっしょ』もまた、ヤラセ疑惑を免れなかったのである(今日の声紋調査では、『トイレなんかこわくない!~ママといっしょ』が真正ビデオであることは立証されている)。真正橘印でさえヤラセを疑われかねない風潮は異常というほかなく、このとき一時的におろち文化は回復困難の大危機に見舞われていたと言ってよい(なお、屁や溜息の類はともかくとして「ポキッ」まで真似たものは疑惑ビデオの中に一つもなかったという事実が、橘印高額ブランドの隠し味シークレットが当時暴かれていなかったことを証明している)。
かくして、やらせを識別して不良品を駆逐する専門家集団、「スカ倫」が結成された。マニア業界きっての目利きで自発的に結成されシステムを公布したが、悪徳業者からの賄賂的アプローチを防ぐためにスカ倫メンバーは極秘とされ、不規則に交替した。金妙塾メンバーもスカ倫委員を幾度か務めたことが判明しており、深筋忠征はスカ倫委員任命状況の審査を担当する「スカ倫メタ委員」を少なくとも二期務めている。スカ倫委員の全員一致で真性と認められたビデオのみが「スカ倫審査済」ラベル付で市場に流通し、二割未満の否認に遭った製品は次期スカ倫委員の審査により否認が一割未満であった場合に限り「スカ倫保留」ラベル付でのみ販売を許された。法的強制力があったわけではないが、この二種のラベルのつかない製品は表モノだろうが裏モノだろうがマニアは買い控えたので、おおむね各業者は積極的にラベル獲得の方向で誠実に努力し始めたのである。
しかしこれでやらせビデオが一掃されたかといえばそうではなく、一枚岩に価値観が固まりえないところがこの業界特有の活力とも称される所以といおうか、一方では「やらせマニア」が一大勢力を形成しはじめたのである。やらせの人為的哀愁に喜びを見いだす人々である。ああ、地道にチャンスを待つことを怠って、最終的には見え透いた浅はかな策となる見掛けの努力にひた走るような不心得な、それでも必死に売ろうとする愚昧の輩がこの世にはいるんだなあ、ああ、人間哀しいなあ……、このような感動をしみじみ味わうのが目当てのいわば裏マニアである。メタレベルナチュラル志向派とも言えよう。かくしてこのテ裏マニアをターゲットとしたヤラセ専門ビデオも一時興隆の兆しを得たが、これは裏マニアをあざとく狙ったやらせヤラセとして嫌われ、純正ヤラセ、すなわちヤラセではないとして真正を装いだますことを旨としたヤラセでないと裏マニアは基本満足できないのだった。やらせビデオにもやらせと真正との区別が生じたのである。かくして真正やらせを認定する裏スカ倫理というものも発足した。しかるに当然、やらせヤラセに興奮を覚える(ああ、裏マニアをターゲットにするとはなんと志の低い哀しいやつらだ……人間てやつは……たまらん……)裏・裏マニアというものも確実に息づいており、そういうマニアを対象としたやらせヤラセやらせというものも出回ることとなり、しかるに真の裏・裏マニアはそのようなものは排斥したのであって、しかし中には……、と、この裏・裏・裏・裏……とヤラセやらせヤラセやらせ……の相互追跡・振り切り的多重進化が何重の多層化まで螺旋状に進んでいたのか、目下おろち考古学の重要論争点となって学そのものが螺旋を描き続けており決着がついていない。
この無間地獄構造は、おろち文化特有の美点と認められているが、同心円的入れ子構造だの螺旋的多重化だの細片化だのは、その形式的エレガンスに比して超長期的に見るならばおろち文化の歴史的影響力を局限化する要因に堕するのではないか、という危惧もメタおろち史学の一部で真剣に議論されている(後の「ネオアルティメット大会」(第19回参照)での「偽装糞ツボ被害戦術」がその最たる例で、多重の引用構造がすみやかに一重構造へルール的制約で落着したあたり、おろち文化自身の自浄力が窺われはするのだが)。
橘印の真正中の真正盗撮ビデオ・やらせなし百パーセントものの特筆製品として、
『覗き老人の末路』
と題された作品がある(オリジナルよりもパッケージがデラックスな『逃げ爺』というダビング海賊版が関西方面で出回っていたことがあり、ウェブでのコンテンツ拡散はともかくとしてジャケット付きプレスもののメディア込み拡散はさすがに見逃せずスカ倫によりただちに摘発され二三十本の流通で食い止められた。それがために却ってそのインチキコピー製品にプレミアがつき――海賊版コレクターなる人種が多数存在する――さらには海賊版のコピー、そのコピー、等々、ジャケットのプレスさえ纏っていればニセモノ度と価値とがいつしか正比例していくという、ほとほとおろち文化マニア事情の複雑怪奇を螺旋状に、定型巻きグソデザイン的自己囲い込み螺旋状に反映していて興味深い)。
『覗き老人の末路』。このビデオは、発覚ものフィーバーと呼ばれる一連のムーブメントに火をつけた問題作である。
スーパーのトイレと思しき舞台で展開するそれのハイライトがどういう光景かというと、まずフレーム全面吹出物だらけの尻。その尻間からショボ屁二十七発半搾り出しただけで大小便一滴も出さずに立ちハイヒールでコック踏んで水流した推定三十代前半がドア外へ去ったあとしばらく静寂があって、ふと影が差しササッと滑り込むように入ってきたドタ靴が【くいっ】と捩れて裾がさがってきたかと思うと、画面にくっきり、床上隙間からこちらをのぞく二つの眼が突き刺さってくる。眼は現われたかと思うとぱちぱちっと瞬きして、ざすっ、とずれて消えて、ばたん、ずどどどど、と影が斜めに揺れ、「えっ、あらっ」ずどどんとぶつかり倒れる音が響いてうーん、と唸り声がし、「どうしたんですか?」「大丈夫ですか?」女の声が二三種類聞こえたほぼ百二十秒後、「いきなりここで……」「ほら、何してるの、立って立って」「痛い痛い……」「あっ、待てよッ」男の声と女の声が入り混じって、ざわつきが収まらないまましばらく空だった前の個室に双尻が現われてぷっ、と放屁。この一連の流れが意味するところはどうも明らかだった。
つまりこういうことらしい。前から屈んで覗こうとしたはいいがこちらのカメラレンズに気づき逃げ出した途端に外で人にぶつかって倒れ自他ともにしたたか打撲を被ってしばらく立てずにいるうちに人が集まってきて警備員に連行されようとし、そこで改めて逃げ出した間抜けかつ機敏な男の図、いうわけである。
映像に目覚ましいビジュアル要素は一つもない。何度観ても退屈な影と音が交差しているばかりで、はっきり言えば一度観る価値さえあるとは思えない。このような言葉での伝達で十分といった種類の映像だ。それでも、それだからこそ、ビジュアルのつまらなさゆえにこそ、この作品は重要なコンセプチュアルアートとして記憶されることになったのである。
この逃走男は実になんと、一ヶ月ほど前に金妙塾を脱退していた元最長老メンバー・八十三歳の村坂誠司であったことが判明している。橘菜緒海のビデオに村坂の覗き発覚の瞬間が映されていたわけである。橘菜緒海のカメラに驚いて飛び出したところで六十四歳主婦と衝突したわけで、手鏡などの所持がばれて覗きの現行犯で瞬間逮捕されたが振り切って逃げ、最終的には逃走途中で捕まり、刑事告訴が不問とされた代わりに、手首骨折の怪我を負わせた主婦に多額の慰謝料を求められることとなった。それよりも、自分自身が衝突時に負った腰と肩の打撲傷、逃走時に負った足首捻挫の治療のため入院した治療費が慰謝料を上回ったらしい。
この橘印『覗き老人の末路』以来、覗きがばれて男が逃走する瞬間を捉えたビデオという、今までになかった路線が密かな一大ブームとなった(「発覚ものフィーバー」)。正面から覗き視線がぶつかりあった『覗き老人の末路』ハイライトの迫力は視覚的迫力には乏しかったその概念性ゆえにこそマニア座標において一つの視覚的極点を形成していたのはまず事実であり、その緊張のあとで呑気なたるみ尻がカメラ視線の前にぬいっと現われ間抜けな無垢な放屁をかますタイミングも絶妙で、今ではハプニング系映像芸術の代表作の地位を得ているのも当然、あの衝突と無垢との対比にこそ『覗き老人の末路』の新境地があったと言えるのだが、その後現われた大半の発覚ものビデオは、見るからに亜流も亜流、個室で男が鏡を使ってあれこれとあるいは蝦蟇蛙のように這いつくばって床に頬擦り寄せて隣個室を覗いている全身風景を盗撮したものだった。そう、全身を。
いや、精神集中した幸せそうな覗き野郎が、ある瞬間に血相変えて立ち上がりばたばたばたっ、と駆け出してゆくその激変ぶりは確かに見もので、本家『覗き老人の末路』より遥かに高レベルの映像スペクタクルばかりで、いつ破局がくるかくるかとついドキドキして見入ってしまう魔力がこの種「発覚もの=盗撮盗撮もの」には秘められている。しかしそのなまじっかの濃縮高レベルぶりが本家に比した空虚さ嘘臭さを際立たせてしまうのが常であり、むろん覗き野郎の一部始終を隠しカメラで――汚物入れや壁フック等に仕込んだリモコンピンホールカメラで――盗撮したというのが謳い文句だったが、覗き野郎がはあはあ息を弾ませて股間を扱いている姿とか発覚の瞬間における隣個室の「きゃあああぁ」という悲鳴とかがいかにも型通りの作為臭芬々であって、そもそも都合よく覗き男が入り込む個室を予測して隠しカメラを設置しておくなどということができない以上あれほど多くの発覚ビデオが出回っているのは確率的に大いに疑惑な上に、撮影角度がときおり変化したりするのが不自然も不自然、同時に四、五箇所にでもカメラを周到設置しておかないと不可能な全身画像たっぷりとあってはドキュメンタリーフィクションであることがほぼ一目瞭然の代物だった。凝ったものになると、盗撮野郎のビデオカメラが撮った隣の個室の排泄映像を、盗撮野郎の姿の場面と交互に挿入するというもの――この男が今この姿勢で撮影しています、チンポに手を伸ばして扱き始めたのは隣ではちょうどこのシーンです、的にさっ、さっと画面が脱糞尻に適宜切り変わる類もあった。そんなものは盗撮野郎が逃げ出したあと捕まってビデオカメラが押収されその中味が制作者の手に入らぬ限り作れない代物で、フィクションであることを自ら暗に告白しているようなビデオであろう。
というようにおびただしい発覚ビデオは『覗き老人の末路』を除いてすべてやらせモノであるというのが今日の定説であり当時もそれが常識だったはずだが、発覚モノはいかなるスカトロビデオよりも、橘印のヒットラインに比べてさえ、売れ行きが良かったのである。その理由としておろち心理学の二大定説となっているのが、ともにありきたりといえばありきたりな仮説、
①覗き予備軍や盗撮憬れ組の男たちが覗き・盗撮の方法論を学ぼうとした、あるいは発覚に終わる失敗例を他山の石として逆説的に学習しようという「教材的利用」
②女の側から、盗撮する男というのは一体どんな格好でやっているんだろう、気をつけなくちゃという警戒心による「女性層購入」
というわけで、ともに半ばヤラセであることをも承知の上で見る側が「学びごっこ」を演じ納得的快感を得ていた(「スカトロ業界の裏を見た……真実もこんなものだろう……」)という認識である。しかしそのような不自然な説明では橘印標準製品に倍するほどの売れ行きは説明できない。唯一の妥当な説明は、今や実証不能ではあるが、主にホモセクシュアルたちが購入していたという理論によってのみ可能だろう。つまり、女尻には興味がないが、女尻を覗く男の姿がタマラナイ、ああ、あんなカッコイイ男の子が、ああ、こういうムサいおじさんが、ああ、あんな逞しい会社員風が、あんなことを、ああ、ああ、という同性愛的趣味で見られていたという説明である。三谷-袖村がOLローントイレの併設設備として男尻覗きのトイレを設置したときにさっぱり売れずビジュアルスカトロホモの少なさが痛感された事情は前述したが、ああした直接的方法ではなく発覚ビデオのような間接的装置によってこそ、スカトロ趣味とは限らないホモセクシュアルの拡がりをスカトロ文化圏内に迎え入れることに成功できたといえるのではないか。
村坂誠司は、逮捕されたさい、所持していた覗き記録日誌のノートを押収されたが、そこには自問自答形式の覗きの倫理学というべきものが記されていた。逮捕前日の記録はこうである。
(第37回 了)
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