偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 中宮淑子の予備校卒業すなわち大学入学を待たずに、蔦崎公一と中宮淑子は今で言う「食わせ牽制プレイ」の必然的延長としてしばしばラブホテルに同行する仲となるが、はじめの数回は粘膜はおろか皮膚を触れ合うでもなく静かに会話をするだけだったようだ。しかし、初めての進展そして同時に終了を思わせる「二択事件」が仲を幾重にも区切り始めることになる。
すなわち、蔦崎が要求したスカトロ系プレイを淑子は……ともかくすべては新大久保のラブホテルJの406室においてである。次の記録は、ホテルJの各室に仕掛けられていた盗聴マイクからの音声から再構成したもので、録音マニアの阪崎啓次郎氏の厚意による。
「テイカロが効いてきたでしょーう……」
録音初っ端に蔦崎の声が発しているテイカロというのは初期おろち史においてこの後しばしば重要小道具として登場するのだが、あの印南哲治にしてもすでに、おろちプレイに際して彼が少女たちに施したという「つぼ押し」も実はフェイントにすぎず、単にテイカロキャンディを少女たちに事前に舐めさせていたその効果だっただけという説が近年有力だ(「おろちツボ」の場所は足の裏という説と胸の上部という説とがあるが、これは後述の「黄金アルティメット大会」を参照して答えられるべき問題である)。
とくにノンシュガースイーツの伝説的傑作『テイカロキャンディ紅茶』(今は亡き三星食品)は、消化吸収されにくい還元麦芽糖水飴が腸内容をゆるくする度合が便意促進度と精妙に調和し、小道具的重宝度で密かに初期マニアの間で有名だったのである(ただしおろちの味に影響が出る――おろち特有の苦味を消してしまう――ので、印南レベルの前衛プレイヤーは可能な限りテイカロ頼みは避けたとも言われる。ちなみに、テイカロの後続商品をスカトロ系AVに導入して、浣腸とは比べものにならないナチュラル下痢のハイビジョン映像が世に普及するには、ジェイドの『お腹イタイうんこJK』シリーズを待たなければならない)。
淑子が催したとき彼女は、冗談と思っていた事態がまことになったことにうろたえた。ホテルに入る二時間ほど前に映画館で蔦崎に、「これってお腹くだるんだよね」と渡されていたキャンディを、クッキー事件以来これまでの食わせパターンの流れからして軽口モードのまま2粒口に放り込み、心地よく最後まで味わったのだった。なにせ正規に市場に出回っているメジャー商品である。が、それが言葉どおりこんなあからさまな下剤だったとは!
(えっ、えっ、たったの2粒なのに…… これってあり?)
部屋に入るや否やトイレへ行こうとする淑子を「駄目」と蔦崎はベッドに引き戻した。淑子は「お、大きい方だから……!」とふりほどこうとしたが「それならなおさら駄目」と離そうとしない。それでもふりほどいてトイレに向かおうとする淑子を、蔦崎はバスの脱衣場へ追いつめ、出口を体でふさぐ。「ちょっと……」「あー、おなか痛い」身をよじる淑子を蔦崎は後ろから抱き締めてベッドに倒れ込む。
「お願いだからっ」
本気で抗う淑子に、蔦崎は「じゃあ、このままお風呂の真っ白のタイルの上にキッタナイのを恥ずかしく洩らしちゃうのと、キッタナイモノ見られないよう僕の口にお尻くっつけて残らず中にするのとでは、どっちを選ぶの?!」と問いつめる。
「えっ? 口の中に?」
クッキー事件以来の流れなのだから当然のこの選択肢、と自覚しているのかいないのか、晒すのは視覚空間か、味覚空間かという選択を迫られたのだと意識しているのかいないのか、淑子は今さらのように不器用に動転し、しばらく押し合う衣擦れの音が迷いを含んだ無言のまま続くや、「お風呂ッ」という淑子の叫びとともにガタン、と扉の音、ブブ、ベビュー、ベバビ、と(録音テープにはまるで口真似したかのようなこの通りのカタカナ音が残響十秒のエコーを轟かせている)大量の下痢をタイルに散り広げたのである。
ともあれ淑子の選択は一応判明した。
蔦崎は浴室でいつまでも続く淑子のぶりぶり音と時たま混じる苦悶の鼻息の反響をベッドで聞きながら、安堵と勝利感に酔っていた。まず安堵というのは、もし淑子が「じゃあ先生の口の中」と言ったらどうしようかと怖れていたからである――そう、蔦崎がブツのナマ食いはおろか口中に含んだ体験もこの時点でまだ確証されておらず、淑子が本当に乗ってきたら蔦崎の方がまず間違いなく通俗パニックに陥ったであろう。蔦崎自身は自発的黄金趣味を些かも有しない点で一貫しており、このときも淑子のとめどない絶景下痢を一目観賞しにすら浴室へ入っていない。加えて、淑子の露骨な限界を垣間見た思いであったこと(いくら背伸びしてビザール気取ったってやはり育ちのいい成人式レベルじゃこんなものさ、可愛いな……)――そう、淑子のビザールな挑発に蔦崎は己が小中高以来の不可視の摂理的進展を見てぼんやり(いよいよか……)的脅威を覚えていただけに、脅威の限界をじかに観測できる機会に図らずも行き当たって、その快さを濃縮堪能したのだったという――その二点である。
次に勝利感というのは、これまで常に受身の「食ワサレ体質」に自ら翻弄されていたのを、初めて攻撃的に「食わせてみろ!」と打って出て、無傷で戻ってくることができたという達成感であった。達成感が淑子の悲鳴によって増幅され、己の不可解な運命の一端を、初めて意志でコントロールできた想いの蔦崎公一だったのである。
しかしこのような勝利はもとより空虚である。中宮淑子といういわば蔦崎おろち本史の初期条件においてかくも虚勢に彩られた不毛な勝利観を味わってしまった報いは、ほどなく蔦崎の精神を過酷な試練で覆うことになるだろう。その経緯は後に論ずる。
さて、近年の研究による当該シーン再構成のうち、最も信憑性ある異説をここで吟味してみたい。
実は、経緯は今述べたものとは違っていたという有力説があるのだ。
蔦崎公一が提示した二択は、「丸見えのタイルの上か、密着で口の中か」ではなく、次の二択だったというのだ。
「丸見えのタイルの上にぶちまけるか、でなければ、ふつうにトイレの中でしていいから、僕は見ないから、その代わりトイレから出た後セックスをするんだ」
この二択だったというのだ。
「さあ、どっちの方がイヤなの!」
蔦崎は後ろから押さえつけながら選択を迫ったというのだ。そして実は、このやり取りも残っているのだ――同じ新大久保J406室の隠しマイクが拾った録音として。
つまり、二択「タイル脱糞か口中脱糞か」と二択「タイル脱糞かセックスか」とが、研究上の二択――メタ二択として並び立っているのである。
この2つの二択は、蔦崎公一と中宮淑子の間で、どちらも演じられた事実なのだ。問題は、どちらが先だったのか、ということなのだ。「蔦崎日記」はこの点について沈黙している。真正の謎だ。
異説においては、「タイル脱糞かセックスか」が先だったと主張される。
その方が、やがて展開する印南哲治の「対ネオおろち純潔教育」との整合性が確保される、というのがその根拠であるらしい。つまり「タイル脱糞かセックスか」を拮抗した忌避対象として提示したことにより、蔦崎は一気暗黙に淑子を処女と決めつけていたことになる。あるいは処女を演じる義務をとっさに押しつけたことになる。
むろん、後におろち史本流に合流することになる二人であるとはいえ、当初から同じ実践的女性観を共有している必要などないわけであるが、ともあれタイル脱糞と対置されるのが口中脱糞だったのかセックスだったのか、最初はどちらだったのかによって、蔦崎が自らに最初に課した課題が「自らのおろち覚悟」を決めることだったのか「相手のおろち覚悟」を試すことだったのかいずれだったのかという、人格的解釈の分岐点が刻まれることになるだろう。
「どちらを選ぶのか」と「どちらの方がイヤなのか」との質問様態の変化も重要である。「イヤなのか」と聞く方が、この種の押しつけとしては最初に現われそうであり、この二択プレイに慣れてくると否定的インパクトで唐突さを紛らわす必要もなくなり「選ぶのか」という肯定的な様態へと和気藹藹化してゆくはずだ、という論理が「タイル脱糞かセックスかが最初」説のポイントだとも言われる。
で、録音によれば、中宮淑子が選んだのは
「セックスの方がイヤです」だった。
さあ、そこでタイル脱糞がなされたのであろうか。
なされなかった。
ここが蔦崎公一の印南哲治的面目を感じさせるところなのだが、蔦崎のセリフはこうだった。
「よぉぉぉぉし。ならトイレ行ってよし」
セックスの方がイヤだと答えたがゆえに、中宮淑子はいずれの選択肢からも解放されたのだった。無事何も見られたり嗅がれたりすることなく、トイレで用を足すことができたのだった。
印南哲治的親目線があらかじめ蔦崎公一に乗り移っていたと言うべきか、蔦崎の純潔指向が角南的ネオおろち教育を生み出すべく波動の震源地となっていたと言うべきか。
以上2つの展開は、いずれも実現した展開なので、どちらが先だったかはどうでもいいと感じる読者もおられるだろう。ここでは旧定説に戻って、二択初日は下痢音で幕を閉じた、とすべきか、現新説を採って、二択初日は(そしてそのあともずっと)膜は綴じたままでいられたか。それぞれの展開はかなり異なる。
なぜなら、初日でないとすれば、別れの直前の日の録音であったと考えるべき諸々の証拠があるからだ。どちらかが初日で、もう一方が2人の最終日なのだ。録音日の同定ができなくなっているだけなのだ。
初日がどちらなのかを突き止めることは、最終日がどちらなのかを決めるためにこそ重要なのだとも言えよう。
二択「タイル脱糞か口中脱糞か」の直後に別れたとすれば……? 二択「タイル脱糞かセックスか」の直後に別れたとすれば……?
いずれにせよ、中宮淑子の下痢音は、解放空間かドア越しかの違いはあるにせよ、蔦崎の耳に聞こえていたと考えられる。第6回に見たように二人の因縁がもともと中宮淑子による蔦崎先生の下痢音傍聴によって開始された手前、淑子の下痢音逆傍受で幕を閉じるというのはパターンとして一応理にかなったまとめ方だったと言えようか。そして実際このあと、中宮淑子は蔦崎とデートすることがなくなり、といっても忌避したわけではなく電話や電子メールや郵便のやり取りは続いたのであったが、しかし淑子に新しい恋人ができたこともあって、淑子と蔦崎はこの後一度も会っていない。旧定説によるならば、中宮淑子は賢い女なので自分の限界を知ったのだろう。現新説によるならば、中宮淑子は元来挑発者の立場でありながらド処女だと知られた微妙な屈辱感で(「処女は嫌われる」というのは、女による男への諸誤解の中で最大級の妄想的誤解であろう)会いづらくなったのであろう。蔦崎と最後に会った翌々年春から淑子はオーストラリアに一人旅に出、東南アジア、インドをまわったあげくアメリカに定着して、ラップ歌手やバスケットボール選手が腕や首に漢字入墨をし始めたことから発した例のあの、デザイン業界・スポーツ洋品店中心の漢字ブームにやや遅れて便乗、路上にベニヤ板を組んだ屋台を構えて上海人女性と一緒に色紙や帽子やシャツに客の名を漢字で書く商売を始めた。一文字3ドル。淑子の書く漢字はほとんど、「爆屁」「脱肛」「切痔」「野糞」「寝糞」「生糞」「尻毛暴膨」「黒下痢」「巨塊便」「濁諾軟便」といったおろち系漢字であったことが現在確かめられている。
(第39回 了)
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